第33話 閉幕ベルが鳴り終わるまで
「さらばだ」
永遠に聞くことはないと思っていた言葉。それが彼の口から発せられた時、俺は終わりを確信した。
だから返した。
「さよなら」
神にも終わりがある。ただ先延ばしに続けた結末。だがその為に流す涙を俺はもう流せない。
お前の為に流す涙が俺にはない。それでも信じてくれるか。お前のことを嫌ってなんかいなかったのだと。
彼らは始まりの地に立っていた。そこが再会と別れに相応しい場所と知っていて。
彼ら二人の姿以外、ここには誰もいない。気を利かせた息子は渋りながらも二人きりにすることを認めた。他の神々もここにはいない。ここには二人しかいない。最初に出会った時と同じように。
「本当に久しぶりだ。元気だったか?」
「ぼちぼちだな」
「そうか」
「お前は?」
「私も特に変わりはないな」
「そうか」
ミーミルの首が沈むミーミルの泉。二人が出会った場所。ここを選んだのは双方の意思だった。これが最後であると確信していたからこそ、彼らはここを選んだ。
かつては互いを知らぬ仲で、かつては仲間として、かつては敵として、彼らはこの地にあった。今はどうなのだろう。何と呼ばれる関係なのか。だが、それでも変わらぬ関係がある。
二人は義兄弟である。血が繋がらずとも、一度敵となっても、それだけは変わらない。愛情も信頼もない、だが決して切れない絆。
敵であった者の健康を気遣うなど、お互いどうかしている。だが、これは確認だ。互いの体調の、ではない。互いがまだ彼ら自身であること、そして彼らの関係が変わっていないことの確認だ。
謝罪も糾弾もない。ただその存在が変わらないこと。それがなぜかうれしくあった。
泉の辺で二人は並んで立ち、水面を眺めていた。
水の中を見ていたわけではない。見ているのは過去の残影。脳内を駆け巡る記憶。思い出と呼ぶには悲しく、忘れるには捨てられない過去のカケラ。
初めて会った時から、どれだけの時が流れただろう。百年、千年、何年経とうとも色あせない記憶たち。忘れてしまった方が楽かもしれないのに、それができない。
美しいわけでも楽しかったわけでもない過去。それを捨てきれないのは、きっと互いを忘れたくないと願っているから。
だが、過去は戻らない。どんなに幸せな過去も、どんな悲劇も、過去である限り戻っては来ない。たとえ本当に繰り返すだけの存在であっても、それは同じものではない。今の自分たちにとって現実は一つしかない。一つであらなければならない。
だから、それを一つにするために来たのかもしれない。だから、彼とも別れが来る。
「ここは何も変わらないな、お前と同じように」
二人が出会った場所はあの頃と何も変わらず、世界の崩壊前と何一つ色あせる所はない。ここが二人の始まりの地、物語の始まり。二人が出会ったから物語は始まった。
物語風に言えばプロローグ、既に閉幕ベルが鳴り響く終盤。ベルが鳴った瞬間が終わりではない、物語はベルが鳴り終わるまで、最後のページを閉じるまでが内容だ。
作家は物語の始まりと終わりを特に重要視するらしい。ならばこの物語は何ともつまらない終焉だろう。殺し合うわけでも、泣いて過去にすがるわけでもない。ただ別れの言葉を告げる、ただそれだけの終章。
他に形がなかったのか。きっとこれが二人にとって一番の終わり方。それ以上もそれ以下も望みはしない。
ただ最期に会いたかった。ただそれだけ。
「神とは変わらぬ者と思っていた。だがそれは間違いだったようだ」
「変わらないんじゃない、それは怠惰だ。変わらぬための努力をするのも、変えるための努力をするのも、どちらも怠った神々に未来などあるはずがない」
美しい花瓶を保つには毎日磨き上げ、日に当てず、細心の注意が必要となる。怠れば花瓶は美しさを損ない、やがて腐り土へと帰る。
「努力はしたのだ。少なくとも私は」
「変わらぬための努力か。その方向性をバカにはしないが、方法は共感できないな」
ノルンの預言を覆すため、オーディンを殺すとされるフェンリルをニヴルヘイムに幽閉し、他の兄弟も冷たい地へと追放した。
「お前は変わらぬための人柱になると言っただろ。すべてを受け押しとどめる岩となると。俺が一番許せなかったのはお前が自分の定めた誓いを覆したことだ」
その為に義兄弟の大事な家族を犠牲にした。それよりも約束を破った。それが許せなかった。
「俺はお前を恨んではいないよ。あの時俺はお前に失望したんだ。そしてお前を信じた自分を恥じたんだ」
それでも、まだ心のどこかに残っていた。彼を信じる心、信じたいと思う願いが。
「…言い訳はしない。私も自分を恥じた。私がいなければこの国は守れないと、その為にお前との縁を犠牲にすることが私の対価であると思って」
「お前は何も傷ついてないし、何も支払ってない。肩の荷を俺達に押し付けただけだ。それすらも誰かが決めた流れの内と気づかずに。お前は弱いよ、オーディン。お前達が見下ろしてきた人間と同じように」
神とは個であってはならない。神が救済と万能の象徴だと言うのなら、それはすべてに於いて公平であるべきだ。すべてを救う神など存在しない。
すべてを救うということは不可能に近い。誰でも誰かを犠牲にし、その犠牲の上に幸せを築いている。誰かが幸せになるということは、誰かを不幸にするということだ。幸せが欲や願望を満たすことなら、そのすべてが叶うことはない。
誰かを犠牲にしなければ幸せになれない神を、誰が神と呼ぶ?
「神は万能ではない。所詮、俺達は信仰から生まれた幻想に過ぎないのかもしれない。神が人と同じ姿をとった時から、個性を持ったその時から、それを疑うべきだったのかもな」
自分達は誰かの手で作り出された『神』でしかないと―――。
「いつまでそうやってるんですか?」
不機嫌に悠斗達が消えた方向を睨み続けているミドガルズオルムに、ヘイムダルはあきれたように言う。
「オーディン様が言うから二人きりにしたんです。黙って従いなさい。私だって本当は嫌ですよ。あの方と裏切り者を二人きりにするなど」
やはり不機嫌なヘイムダルにミドガルズオルムは見上げるように視線を向ける。
「僕はいつだってお父さんの言うことしか聞かない。お父さんがそうしたいから行かせたんだ。オーディンの命令なんて関係ないよ」
「さすがあの邪神の息子だけあります。主神への敬いもない。神の子どもとはいえ、もとはといえば野蛮な巨人族の血だ。礼儀も何もない」
「オーディンの命令を聞くことしか脳のない人形がうるさいよ。黙っててくれない? 耳障りだよ」
双方は口を閉ざすがにらみ合う視線だけは外さない。
元々この二人に縁などない。こうして話をするのすら初めてだろう。互いをオーディンやロキの付属品としか見ていなかった。
関心や好意など最初からない。好きか嫌いを聞かれる前に、既に敵と決まっていた。それ以上を知る必要などない。
「そう言えば筋肉だるまは?」
「筋肉…トールならアースガルドにいますよ。奴が戻っていると知ればすぐに来るでしょう」
直接名前を言ったわけではないのに通じるのは、やはり同じことを思っていたからだろうか。
「他の神々は知らないんだ?」
「騒がせるだけですからね。奴を恨んでいる神がどれだけいると思っているのです? フレイくらいですよ、恨んでないのは。本当にあの人は下界に行ったまま帰ってこないし、裏切り者とも仲良くするし」
「くだらないことに捕らわれた見解しかできない奴に比べたらあの阿呆も大分マシだと言うことだね」
まるで亡き兄のような冷たい言い方に、ヘイムダルは黙ってはいない。
「くだらない? 加害者はいつだって無責任ですね。あれをくだらないで済ませてしまうのだから。奴がしたことでどれだけの惨事が引き起こされたと思っているのです。元に戻ったからすべてなかったことにできると思っているのですか? 奴の罪は消えないのです。もちろんあなた達も」
「罪? 加害者? はっ」
視線は憎悪に変わる。許してないのはこちらなのだと。
「直るから許されるなんて父さんは一度も言ってないよ。償わない加害者はお前達の方だろ」
自分達を守ろうとして死んだ母の血を忘れたことはない。妹の涙も、兄の悔しさも、父の謝罪も、何一つ、忘れはしない。
「巨人族だから、化物だから何をしてもいいと? 傷つけても、殺しても、それは罪にならないと? お前達は変わらない。生きた化石だ。神だからと傲慢に生きることを許されると思ってる。本当にお前達のそういうところが大嫌いだった」
ただ独り、暗く冷たい海の中で溶けてしまいそうだった。この闇に溶けてしまえば楽になるのではないかと何度思ったことか。それでも自分を支え続けたのは時折会いに来てくれる父の優しさと離れてしまった兄妹との思い出、そして家族を奪った神々への憎しみ。
表に出さないだけで、本当は憎くてたまらなかった。水の中で冷えた身体、身の内から溢れる憎しみは心を熱くした。
兄の暴挙を本当は理解していた。羨ましくも思っていた。本当に壊したいものが自分の中にもあることを知っていた。
「僕はお前達を許さない。罪など僕は持たない。あれは報復だった。傲慢なお前達への罰だったんだよ」
人を裁くのは神か。否、人を裁くのは人のみ。
神を裁くのは誰か、誰も裁かないのなら己がするのみ。
「その為に僕は来た」
「復讐ですか。報復は権利ある者に許された言葉ですよ。罪から生まれたあなた達にそんな権利最初からありません。それでもまだ何の罪も犯していないあなた達を殺すのは不憫と追放だけに留めた。それを恩に感じるどころか逆恨みとは」
「それが傲慢だと言ってるんだよ。自分達が正義だと思ってる? その為に何をしても良いと? それこそお前達が見下す人間と同じだよ。自分が正義でありたい為に人身御供を立てる。それを辱めることが正義だと。本当に力があるなら敵など必要ない。敵を求める時点で、お前達は能なしなんだよ」
共通の敵が生まれれば人は団結する。それが本当に敵であるかなど考えない。共通の目的が得られるなら在りもしない罪を誰かに着せることも厭わない。共通の『正義』を作ることで。
「父さんが許しても、いや相手にしなくても、僕はお前達を許さない。お前達の罪を忘れはしない」
二人が言い合う中に、さらに一人分の声が混ざった。
「ヘイムダル! ロキが戻ってきているというのは本当か!」
ずしずしと地響きを立ててやってくる相手を、顔を見ずとも知る。
「トールですか。もう来てしまったのですね」
「やはり本当なのだな! ならば俺様があの憎たらしい罪人の面を叩き潰してくれる!!」
ミョルニルを豪快に振り回し、周囲をなぎ倒しながら進む姿はまるで戦車だ。ロキを恨む神は彼一人ではなく、彼の後ろからは幾人もの神の姿が続く。その中には見覚えのある顔もあるが、それは躊躇する理由にはならない。
「トール、今ロキはオーディン様と話をしています。それが終わるまで待ちなさい」
「なぜだ! 裏切り者に遠慮などいらん!」
「オーディン様が望むからです。彼の裁きはそれが終わってからでも遅くはない」
ヘイムダルが説得を試みるが、きっとそれは無駄に終わるだろう。もはや主神の姿なき言葉など復讐に燃える神々を止める力にもならない。そしてヘイムダルも、本気でそれを止めようとは思っていないのだろう。たとえ崇拝する主神の命があっても、憎い相手を前に何もしないということは選択肢にはない。
だから彼らを止める姿は一つだけ。
「行かせない」
それまでその小さな姿に気づかなかったのか。トールたちがミドガルズオルムに視線を向ける。
「貴様、ロキの次男か? ずいぶん小さくなったな。ここにいるのは貴様一人か。貴様の陰気な兄弟はどうした」
「お前達と問答する気はないよ。ただ、僕はこのためにここにいる」
立ちはだかる姿は小さな子供のものだ。なのにその存在感がどんどんふくれあがる。その存在感はトールの身の丈を追い越し、大地を埋めつくさんと広がっていく。
「人間界は狭すぎて本当の姿には戻れなかった。でも、ここでは遠慮がいらない」
お前達に遠慮などいらないと、その眼は語る。
もしあのまま人間界で平穏が続くのなら、復讐を諦めても良かったのだ。平穏を望む妹のように、ただ家族と共に永遠に生きられるのならそれで良かった。
だが、平穏は終わった。平穏か復讐か、一方の選択肢が消えれば、もうやることは決まっている。
「お前達に裁判など必要ない。処刑人の僕一人で十分だ」
父は怒るだろうか、悲しむだろうか。
いや、きっと仕方がないなと笑うだろう。
数千年ぶりに、神の大地にその巨体が姿を現す。邪神の二番目の怪物、大地を取り巻く大蛇。
その名はミドガルズオルム。




