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第32話  別れ、そして再会



 お前たちと出会えたことを後悔しない、と悠斗は言った。

「お前は後悔するだろうか。以前お前が言った言葉を」


『お前がどんなに俺たちから離れても、最初から繋がっていなかったとしても、俺たちが兄弟として過ごしたことに変わりはない』


 あの言葉が、一度離れた兄弟を再び結びつけた。それまで感じたことのない『兄弟』という絆。妻でも我が子でも、義兄弟にすら感じなかったもの。

 もう一人の兄弟が運命の下結びついていたのなら、ここにいる彼と自分の繋がりは誰の策略なのだろうか。誰の策略でもない。運命でもない。ただ偶然と奇跡が生み出した絆であると信じている。我ながら似合わない言葉だが。

 悠斗は今、白い部屋にいる。無機質に響く機械音。それがまだここに眠る彼が生きているという証であった。

 悠斗は見舞いでなく、最期の別れを告げるためにここへ来た。血の繋がらない、絆で結ばれた兄弟の元へ。

「謝罪するつもりはないんだ。すべてに於いて」

 巻き込んだことも、息子の所行についても、そしてこれからのことについても。

「もしやり直せる機会があったとしても、過去に戻ることができても、たぶん俺は同じ選択をするだろう。ただ俺が俺であるためじゃない。俺もお前たちに出会うことを望んでいるからだ」

 きっと彼が起きていたら目を丸くしてらしくない、と言うだろう。その光景が想像できて、思わず笑みを浮かべる。

「お前たちからすれば災難だったかもしれない。だけど、お前たちにも『もし』があるなら、」

 そのときはやはり、同じことを言ってくれるだろうか。

 悠斗は大きく息を吐き出す。自分の甘さと未練をすべてはき出すように。

 あり得ない期待などしない。だから人間界で過ごした十数年、神からすれば一瞬のように短く、人には十分な長さ、その間に得て築いた幸福と未練、すべてここに置いていく。

「お前たちは忘れてしまうかもしれない。そして非現実的な世界を忘れ、現実の世界へと帰って行くだろう。それが正しい形だ」

 だが、

「それでも何かが残って欲しいと、俺は思ってる。うれしかったんだぞ、本当に。お前の言葉は」

 起きていたら絶対に言わないだろうがな。

 悠斗は背を向け歩き出す。もう彼は後ろを振り返らない。もうすべては元通りにはならない。あの退屈で平穏とした日々はもう二度と戻らない。だから悠斗も振り返らない。名前も、過去も、この世界で得たものすべてを置いて。

「さよなら」



「あら? 誰か来てたのかしら?」

 巡回の看護師が患者以外誰もいない特別室をのぞき込む。

「そんなはずないでしょ。往診の時間は終わってるし、見舞い客だってこの時間はいないわよ」

「そうよね、でもさっきまで誰か中にいたような気が…」

「それこそあり得ないでしょ。鍵だってかかったままだし」

「おかしいわね…?」

 結局誰も見つからないまま、看護師たちは夜の病院の奥へと消えていった。だから誰も気づかない。始の頬に伝う涙の痕に……。




「もう、いいのですか?」

 訪ねるウルズに、悠斗は黙ってうなずく。

 今更何かを残す気にはなれなかった。残したとしても消えてしまうかもしれない。残される彼らの負担になるかもしれない。残される者の気持ちは痛いほどわかっているつもりだ。だから何も残さないことを選んだ。ただそれだけだ。

「お前には、わからないだろうな」

「ええ、わかりません。そもそも私に感情を期待されても無駄というもの」

 運命に本来自我など必要ない。それは自然現象に近いもの。そして個人であってはならない。だからこそ人は運命を疑わず、抗うこともない。誰かの手のひらの上で踊らされているなどあってはいけないからだ。

 本来ならば、だ。

「知らぬが仏とは、まさにこのことだな。確かに知らない方が幸せだったかもしれないな」

 だが、知ってしまえばもう無知にはもどれない。それが幸せなのか不幸なのか、そんなもの結果を見てみなければわからない。

 重要なのはただ一つ、後悔しないこと。

「あなたはきっと後悔します」

「かもな。だが、もう後戻りはできない。できないとわかっていて進んできた。そのことを後悔する気はない」

 悠斗は自分の腰にしがみつく最後の息子の頭をなでる。

「オルム、俺は最低の親に成り下がるだろう。いや、既にそうなってる。だが、ここでお前を手放す選択肢もない」

 ここで彼を目の届かない場所へやれば、フェンリルの二の舞になる可能性がある。何よりも、ここに残して彼一人が生きられるとは思わない。

「最善のことをしてやるべきなんだろうが、残念なことに最善が既にろくなものではない。ごめんな」

 謝る父に、ミドガルズオルムは首を横に振る。

「自分のこと最低なんて言わないで。僕もフェン兄もヘルもそんなこと思ってないから。僕たちの願いはいつだって同じなんだから」

 家族と共に。そんな小さな願いがなぜ叶わないのだろう。贅沢を言った訳ではない。ただそれだけを望んだ。それだけなのに。

 悠斗はもう謝らなかった。ただ、「ありがとう」と礼を言い、息子の頭を撫でていた。

「では、そろそろ行きましょうか」

 ウルズの言葉が感傷を切り捨てる。悠斗はそれを咎めず、頷くことで答えた。

 辺りが白く染まっていく。いや、悠斗たち三人がこの世界から切り離されていくのだ。

 すべてが遠ざかる。十数年を過ごした大杉家の家、数ヶ月を過ごしたマンション、実と桜が通う学校、フレイと話した公園、彼らと歩いた道。すべてが悠斗の手を離れていく。記憶は惜しむように別れを告げる。

 いろいろあったな、と悠斗は珍しく感傷に浸る。それは神として生きた頃に比べれば刹那に近いほど短い時間。だがそちらの方がずっと長く感じられる。ただ怠惰に生きた時間とは比べものにならないほどの価値がそこにあった。

(すべてが、夢のようだったな)

 すべてが泡沫の夢。泡沫の幸せ。

 さらばだ、泡沫の夢たち。さらば、幸せの結晶たち。

 さらば、愛する人間たち。


 さらば、大杉悠斗。





    我が義兄弟(きょうだい)

    なぜ我らを裏切った

    なぜ我らの希望を奪い消し去った

    答えよ 義兄弟よ



 再会がいつだって良いものとは限らない。そんなこと、わかりきっていることだ。だからこの再会が良い結果になるとは思っていない。むしろ悪い方向に行くことだって十分考えられた。

 それでも望まずにはいられなかった。たとえ何を言えば良いのかわからずとも。 



 悠斗、と既に呼べる者はもはやいない。それでもかつての名前で呼ぶこともできない。既にそれも過去のものと化している。

 だからここは便宜上『悠斗』と呼んでおく。

 悠斗は今、懐かしき第二の故郷に立っていた。第一の故郷は今どうなっているかもわからず、第三の故郷には今し方別れを告げてきたばかりだ。

 だからここは第二の故郷。神々が住まう地。

 ここに立てば彼の言葉を思い出す。彼と初めて会った日の言葉、彼と最後に会った時の言葉を。常にこの地と彼は結びついていた。彼がいたからここにいたと言っても過言ではない。

 愛情はない。信頼と言うには微妙だ。そしてそれはあちらも同じだったろう。

 だが何か別のもので繋がっていた。他の者にはない、二人だけにあった何かで。それが何か説明を要求されれば困る。自分たちでもわかっていないのだから。

 とにかく、この地に立てば必ず彼を思い出す。かと言って、この地に着いて最初に会うのが彼とはさすがに都合の良い話だろう。もちろん、そんな都合の良い話はない。

 今彼らはアースガルドの入り口に立っている。巨大な門がそびえ立つ、神々の守りの要。確かこの城壁を作らせたのもロキだ。彼の策略とずるがしこさはそのときから神々を助けていた。一方で神々を危険に追い込むこともしている。

 矛盾したような彼の行動は結局彼の気まぐれとしか言いようがない。

 ところでこの巨大な門にも門番が存在する。この門番とロキは最高に相性が悪い。会えば口論は絶えず、互いの主張を決して認めない。ロキからすれば堅物としか言いようがないほど頭の固い人物であった。

 だから会わずに済むのならその方が良いと思っていたのだが――――、

「げ」

 その一文字ですべてを表している。

 目の前に居る宿敵に悠斗はあからさまに嫌な顔をした。これ以上ないと言うくらいに。

「何ですかその顔は。相変わらず品がありませんね。あなたがそんなだから神の品位が疑われるのですよ」

「心配するな。俺がいなくても品位などトール辺りが最低ラインを驀進中だ。そもそも誰も期待していない」

 嫌味には嫌味で返す。会って一秒後には口が開く。二人の関係など説明を求めるまでもない。

「自分のことは棚上げですか。相変わらず他人を引きずり落とすことは得意ですね」

「落とす? 俺は事実を言ったまでだが? どうせトールに無駄な説教してるのだろう、ご苦労なことだな」

 一度開いた口は閉じず、絶えず毒を吐き続けている。置いて行かれた二人は呆然と神と元神の口論を眺めるだけだった。

「そもそもあなたのどこが神に相応しかったのですか。いなくなってすっきりしたくらいですよ」

「ほう? それはお前の敬愛するオーディンの判断を非難するということになるな。昔はオーディンの言うことなら何でもほいほいと従っていたというのに、ずいぶん自己主張ができるようになったのだな、すばらしい」

「どこがすばらしいのですか。確かにオーディン様のあの判断だけは未だに納得していませんが…」

「遅めの反抗期か? いい年してからの反抗期はかえってうざいだけだぞ? それに俺は褒めてやってるんだぞ、『かしこまりました、オーディン様』として言わないオウムが立派に独り立ちを始めようとしているんだから」

「誰がオウムですか!? あなたはそうやって自分だけでなくオーディン様の顔に泥を塗りつけて…」

「ほら、また『オーディン様』だ。オウムではなく選挙カーか? 録音しておいて勝手に宣伝してくれる。これはまた便利だな。俺なら自分のいないところで名前を連呼されるなどごめんだがな」

「あなたにオーディン様の何がわかるのですか! あなたに敬いや信頼の気持ちがあるのならそうするべきでしょう」

「はっ! 妄信ほど面倒なものはないな。敬われる方だって嫌がるさ。神が主神とはいえ他の神を崇めてどうする。主神が絶対だと誰が決めた? あくまでリーダーでしかない。神が神を信仰するなど本末転倒だな。お前を信仰する人間どもが気の毒だ」

「何ですって!?」

 ところで、この言い合いをしている相手が誰か気づいただろうか。

 ロキの宿敵でありアースガルドの門を守る神・ヘイムダルである。秩序を重んじるオーディン崇拝者(ロキ命名)の彼と、享楽・欺瞞を好み司るロキは最悪の相性と言っていい。会えば口論は当たり前。命の取り合いをしたのは一度ではない。

 特にロキがフレイアの首飾りを盗んだ事件でその関係は決定的なものとなった。ロキからすれば悪戯の範囲と、威張っている神々への嫌がらせでもあったのだが、その首飾りを取り戻しにきたのがヘイムダルだった。そのときは殺し合いにまで発展した。

 結局お互い死なずに済んだのだが、彼らの関係は永遠に変わらぬものと確定した。

 神々の黄昏(ラグナロク)の際、ロキとヘイムダルはお互いを殺すことで終わりを告げた。

 と、説明している間にも二人の口論は止まない。もうそろそろ終わらせないとページがもったいない。

「だいたいあなたは」

「そのくらいにしないか、二人とも」

 それまで二人分しかなかった口論に一人が加わる。それと同時にぴたりと口論は止む。止めに入った声を無視することができなかったからだ。

「お前たちは何があろうがなかろうが変わらないな。まるで昔に戻ったかのようだ」

 昔を懐かしむ言葉。それを聞いて悠斗は彼もまた過去を懐かしんでいるのだと理解した。

そしてどこか安心した。彼の心が自分と遠く離れた訳ではないことに。

 再会して言う言葉は何か。何を言われるのか。ずっとそれを考えていた。何度考えても想像することすらできずこの時を迎える。

「…久しぶりだな、我が義兄弟」

「……ああ、久しぶりだ義兄弟」

 それはきっと拍子抜けするほどの静寂と平穏。これから待ち受ける終わりなど予知しないかのような静けさ。

 それでも、後に思う。この時があったことの幸運を。


 お前がいたから俺はここにいたんだ。たとえそれが定められた事であっても。

 あるのは過去を思う懐古の念。

 あったのは失われた問い。

 俺たちが出会った証。共にいた記憶。それがすべて無駄だったなど、思ったことはない。





最終章 物語の最後のページ、そこに彼の姿はなく

開始です。

あと少しなので最後までおつきあい願います。

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