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第31話  夢の残り香



 過去に縛られる人間を弱いと人は言うだろう。しかし未知なる不安が待つ未来よりも、たいした価値を見いだせない現在よりも、変わらず色鮮やかな過去は何時だって美しく、しかし届かないものなのだ。

 幸せだった過去に囚われ、前進を忘れた者など死んでいるのと変わらない。過去の亡霊だ。過去にとどまり続けるのは死者だけだ。

 ならここにいる男もまた亡霊と言えるだろう。彼は既に過ぎ去った過去を清算する為に、今現在と未来さえ捨てようとしているのだから。

 だが、ここに彼を裁く者はいない。いるのは優しき過去の幻影。都合の良い夢幻かもしれない。しかし、それでもすがらずにはいられない、自らが捨て去った幸福。愚かとは自分の為にある言葉だと彼自身理解している。それでも――――…。





「おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

 たったその一言をどれだけ欲し、忘れることができずにいただろう。平凡な日常なら飽きるくらい聞けるその言葉。一体どれだけの人間がその価値に気づかず捨ててきてしまったのだろう。気づくのはいつだって失ってからだというのに。

 迎えてくれる人がいる、自分の存在を認めてくれる、そういう意味なのに。

 その姿は最後に会った日から何も変わらない。死者は永遠に時を止める。神にすらある鈍足な時の流れすら失った存在。

 だからこそ、その姿はまぶしかった。すべてを覚えているというのに、その肌の白さも、黒く長い髪の流れる音も、その手の温もりも、鈴のように響くその声も、一瞬たりとも忘れることはなかったというのに、触れたくて仕方がなかった存在。

 カタチだけの妻などではない。たとえ何があっても手放したくない、唯一の女性。

 あの頃と変わらない顔で、記憶と変わらない声で、言葉は紡がれる。

「思ったより遅かったですね」

「まあな」

「あなたの頭は案外固かったということかしら。私がわざわざヒントも考える時間も用意したのに。そのほとんどを無駄にしてしまって」

「悪かったな。それにお前のヒントの方がよほどヒントになってないだろ」

「自分の無能を棚に上げないでください。女に頼らなければ何もできないくせに」

 本当に口の減らない女だ。改めて自分の趣味を疑いたくなる。なぜこんな女を選んだのだ。今更取り返しはつかないし、なれそめを長々と思い出す気もない。ただこの女が邪神ロキの愛人であって、その愛情が今現在も進行中であるというだけだ。

 シギュンが忠実な妻なら、彼女は対等な愛人と言えるだろう。血の繋がらない義兄弟とは別の意味で、彼女はロキにとって対等な存在であり、その心の大半を占める人物である。

 外見は美しい女性だ。艶やかに流れるウェーブの掛かった黒髪。雪のように白い肌。娘と共通する面影がある。それはやはり血のつながりが為す技なのだろう。ただ娘と違いその肉体は健康に溢れ、美しい顔のすべてを惜しみなくさらしている。自信溢れる表情は常に怯えた表情が抜けきれない娘とは違う。

 誰の予想も当たってはいないだろう。何処に薄倖の美女がいる? 男の帰りをただおしとやかに静かに待つ女が何処にいるというのだ。勝手な噂はいくつか流れていたが掠りもしていない。

 自分以外にこの女を選ぶ男はいないだろうと断言できるほど、男に寄り添う姿が似合わない女だ。

 久々の毒舌がいくら懐かしいとはいえ、心地よいものではないだろう。

「お前も相変わらずだな。久々の再会に情緒も何もありゃしない。そんなんだから言い寄る男の一人もいないんだ」

「そうですね。だからあなたも安心して長く留守にできるのでしたね」

「まったくだ」

 これが愛し合った男女の会話なら、シェイクスピアの甘ったるい恋人たちが卒倒するだろう。この女がロミオの後を追って死ぬなどありえない。男に追わせることすら許さない女だ。

「まあ約束は守ってくれたようですね」

「当然だ。死んでお前に延々と説教喰らうくらいならまだ死なない方がマシだ」

 彼女は後を追うことすら許さなかった。だからロミオは今も一人残されたまま。



 別れは突然やってきた。悲劇はいつだって前触れもなくやってくる。いつも通り、何日ぶりかになるかわからないウトガルドへの訪問。まず向かうのは愛する家族の元。そこまではいつもと変わらなかった。いや、変化はとうに終わっていたのだ。ただ自分が遅すぎたというだけで。

 倒れていた彼女を見つけたとき、まず自分の視界の異常を考えた。でなければ何かの冗談だと。でなければおかしい。彼女が血まみれで倒れているはずがない。

「ボダ!」

 自分だけが使う彼女の愛称を呼ぶ。ただ単に長くて呼びにくいからだ。そして彼女も自分にだけはそれを許していた。それが彼女に選ばれたという証に思えた。

 だが腕の中の彼女がそれに応えることはない。ただ血が流れ落ち、いくら手で押さえても無情に流れて………、

「ボダ! しっかりしろ! 何があった!?」

 口を開くのすら辛いのだろう。それでも憎らしい口調は変わらない。

「今頃やってきて…遅すぎるますわ」

「ボダ! 大丈夫か? 今」

「人の耳元で…怒鳴らないでください……オウムですか、あなたは…」

「…その調子なら大丈夫そうだな。なら説明してくれ、一体何があった。子供たちはどうした?」

 大丈夫なはずがない。そんなことわかっていた。しかしお互い心配されることは嫌いだとわかっていた。だからそれに気づかないことが彼女への気遣いとも言えた。

「こんな所で立ち止まってないで…早くアースガルドへ……あの子達は神々に連れていかれたわ…」

「神? 一体誰が」

「決まってるでしょ…あなたの…義兄弟よ」

「オーディンが? なぜお前達の事がばれた? それにアイツがそんなこと…」

「なぜも…どうしても…考えてる暇はないでしょ? あなたは父親なんだから…早くあの子達の所へ……私のことは放っておいていいですから」

「放っておけるわけないだろ。子供たちは取り戻す。だからお前も」

「いいんです…最初からわかっていた事だから…」

「? どういう意味だ?」

「たとえ決まっていたことだとしても…私はあなたと一緒になったことを…後悔はしていません……私自身が選んだことだから…」

「だから意味がわからない、いや、とにかく喋るな。すぐに手当を」

「いいから聞きなさいって言ってるのよ…!」

 血を吐きながらもしゃべり続ける彼女を無理にでも止めるべきだった。だがそれをしなかったのは彼女を損ねたくなかったから。最後まで自分らしくあろうとする彼女を、そのまま刻みつけたかったから。

 もうわかっている。これが最期だと。だから、最期までこのままで――。

「…何が言いたい?」

「…私がいなくなった後…あなたは私を思い出しては傷つくでしょう。二度と帰らない過去を何度も…振り返って…。それでも、泣くのは今一回だけに…して…くださいね…。私、泣き虫の男は…嫌いですから…」

「俺は泣いたことなどない」

「だから…これから泣くのでしょう……。ひどいですね、私…。いつかあの子達の分まで奪ってしまうのだから…」

「だから何の話をしている」

「私があなたに…先の事を話しても…それは意味のないこと……。だから、今は、これだけに…しましょ……。あなたと…出会えて…幸せだった…とは……言わない…でも……」

 それが、最期。

「あなたの為に…生きられた……だから……あなたは、私の為に泣いて――…。」



 でも、追いかけないで。



 夜の闇がいつもと変わらない冷たい風を引き連れてくる。彼女の魂を連れて行くかのように、冷たい風が二人の間を通りすぎた。そして、彼女が動くことは、二度となかった。

「ひどい女だな…お前は」

 共にいることも追いかけることも許さない。それが彼女を選んだ男の義務。たとえ彼女がいなくなっても、その眼が疑われることはないように、確かであったことを証明しろと。

 置いていく側は潔いと言うのに、置いていかれる側のことは何も考えない。なんて自分勝手な生き方、なんて自己中心的な願い。

「泣いてやるさ……俺の涙は高いぞ」

 泣き方など知らなかった。彼女と出会えて笑い方を知ったのなら、泣き方を教えるのも彼女。

 だから、お前の為だけに泣いてやる。俺が泣くのはこれが最後。たとえこの先何があっても泣きはしない。涙などすべてくれてやる。今までの慰謝料だ。だから、



 俺を忘れる事なんて、許さないからな。



 片時も忘れずお前を思おう。記憶の鎖で縛りつけて、俺もお前も互いを忘れないくらい縛りつけて。

 女々しいなんて言うな。これは男の独占欲だ。愛に酔う人間が愚かだとはもう言えない。これは愛なんて綺麗なものじゃない。

 これは、お前を逃がさない為の鎖。お前が俺のもので、俺がお前のものである証。お前が忘れたい過去も何もかも、一瞬残らず憶えている。

 後悔などするな。これがお前の選んだ男なのだから。



 巨人族の女、アングルボダ。預言の力を持つ魔女。そして、邪神の所有するただ一人の存在。




「まあ、あなたの独占欲に今更ケチを付ける気はありませんけどね」

「文句を言うな。言うならお前の趣味の悪さに言え」

「言いませんよ。だって私、一度も後悔してないもの」

 そう言い切る姿はいっそのこと潔い。本当にお互い趣味を疑うというものだ。

 最後に彼女の声を聞いたのはあの終焉の日。神々の黄昏、自身の体が砕け散るのを自覚した時だ。

 呪縛から解放されたロキは息子たちを引き連れアースガルドへ攻め入る。ミドガルズオルムはトールと戦い相打ちとなり、フェンリルは預言通りオーディンを飲み込むがその息子によって殺される。ロキも天敵となっていたヘイムダルと戦い相打った。

 何も変わらなかった。預言を覆そうとしていたオーディンたちも、運命に逆らおうとしていたロキも、誰も変えることができなかった。

 スルトの投げた剣が大地を割り、すべてを紅蓮の炎へと変えた。敵も味方もなく、すべては一瞬灰燼と化し、そしてマグマの海に消えた。世界は滅びた。そこに生きる生命すべてを巻き込んで。

 命が、肉体が失われていくのを感じたのはほんの一瞬の出来事。あれだけあっという間に終われば、痛みなど感じる暇もない。死んだ後の肉体の行く先など気にはしていなかった。魂の宿らぬ肉の器が灰すら残さず消え去ったことに、未練はなかった。

 何も成せずに逝くこと。そこに未練がなかったとは言わない。だが、何を成すべきかすらわからずにいた。

 俺は、あいつに何をしてやりたかったのだろうか。

 最後に思い浮かぶのは愛する人でも愛する子達のことでもなく、憎んで終わるはずだった義兄弟のこと。本当に自分は彼を憎んでいたのだろうか。憎むようにし向けられていたのではないだろうか。

 だとしてもすべてを許すことは出来ないけど、彼に言いたいことは他にあった気がする。なぜ、と問いかける彼の顔が思い出せない。泣いていたのか、怒りに駆られていたのか、それすらも。

 命が、肉体が消えどれくらいの時間が経ったのか。実はほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。それすら思考する意志が消え、虚空の海に投げ出された時だった。懐かしい彼女の声を聞いたのは。

「ほとんど何も言わずにミッドガルドへ投げ出して、その後も何も言って来なくて、やっとこうやって姿を見せる。遅かったのはどっちだ」

「それ以上求める事こそ贅沢いうものでしょう? 女に頼ることを前提にしているつもりですか?」

「そんなわけあるか」

「ならいいじゃないですか。それに、所詮私は死んでる身分ですし」

 終焉の日、すべてが消え去り欠片も残さず消滅したはずのロキたちをかき集め、治し、ミッドガルドへ隠したのは誰でもない、アングルボダだった。

 未来を預言する魔女。それだけの力を持ちながら、彼女は未だに死者なのだ。

「私の力は死んでいるから強くなるというもの。干渉できる範囲は少ないけれど、干渉できればその力は神を超す」

 それは死んでいるからこそ出来ること。死はその代償と引き替えに莫大な力を彼女に与えた。だが、それ故に誰とも触れあえない。

 ここでこうして会話できているのは、ここが時間の渦に浮かぶ夢の中だから。

「これで私の出来ることはすべて終わりました。退場した(死んだ)者の役目はここで終わり。ここから先は、舞台に立つ(生きている)あなた達の役目」

「ああ、わかってるよ」

 だから、今度こそこれで最後。懐かしい過去を振り返るのも、都合の良い夢を見るのもこれが最後だ。

「私にもこれから起こることはわかりません。もう既に運命の流れは私たちの予測を超えて動き始めている。だからこの先に何があるかは誰もわからない」

 それは手探りで暗闇を歩く不安。導く手はもうない。それでも、

「決めたことだ。今更変える気はない。だから」

 優しく彼女の頬に手を沿える。

「さよならだ、ボダ。俺もお前と出会ったこと、後悔はしていない」

「当然ですわ」

 クスリとお互いの笑う声が響く。同時に世界は白く染まっていく。夢から覚める時間だ。夢が覚めれば残酷な現実が待っているだろう。だが夢に浸ることは許されない。それが自分の責任だ。

 彼女の後ろに今までいなかった人影が一つ浮かび上がる。その姿が人間界で生きた姿のままであることが笑える。

 そして悠斗のすぐ後ろにいつの間にかいた彼女が母親と兄の元へ駆け寄る。もう彼女を止めることはできない。手放したのはこちらからだというのに、悲しむ資格すらないというのに心が静かに泣く。

 既に去った者、これから去る者。失い二度と戻らぬ幻影があの時言えなかった別れを告げる。

「さよなら、父上」

「さよなら、お父様」

 たとえ、これが都合の良い夢であったとしても…。

「さよなら、あなた」


「ああ、さよなら」


 さらば、愛しき残影たち。最後に会いに来てくれてありがとう。





 目が覚めると、そこには避けようのない現実が待っている。数ヶ月の内に馴染んだマンション、自分のベッド。目覚める度に眼にした天井。眠る自分にすがるようにしていたのは最後に残された息子。泣いているようだ。もう彼を叱って泣かせる兄はいないというのに。

 彼の背後、そこにもう一人はおらず、ただ最後に来ていたワンピースと顔を覆っていた汚れのない包帯が放置されていた。まるで彼女に置いていかれたかのように。

 泣きやまぬ我が子の頭を横たわったまま優しく撫でる。彼は自分を許さないかもしれない。言葉で言っても、自身でコントロールのできない心の奥底で、彼を憎むかもしれない。それすらかまわないと思った。

 ただ、今は置いていかれた悲しみに横たわる。もう夢は見ない。



 夢の残り香が、まだ残っていた。




第6章 原稿の上で踊る神々と零れたインク

終了しました。

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