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第27話  邪神と王



 残された子供たちは、父の決定に逆らうことはなかった。ただそこに不安と疑心はあった。しかしそれでも最後には父を信じ従ってくれた。

 もったいなさ過ぎるほどよくできた子供たち。彼らの父であれたこと、ろくでもないことが多かったこの人生の、二番目に幸せなこと。

 兄妹はこれが最後となることを知り別れの言葉を交わす。魂は永遠に一緒であっても、もう二度と触れ合うことはできないことを知っているから。ぬくもりを永遠に残すつもりであるように力強く抱きしめ合う子らの姿を見守る悠斗。失わなければ進めない道。今日このときをこの先何度も思い出すことになるだろう。そのたびに情けない父であったことを詫びるのだろう。だが、決して後悔はしない。そのために覚悟したのだから。

 最後の挨拶を終えた子らが名残惜しく互いの身体から離れる。

 娘が力強い眼で父と正面から向き合う。それは決意。父よりも彼らの方がよほど強いのかもしれない。きっと彼女に似て。

 娘が手を差し出す。これを握ってしまえばもう二度と後戻りはできない。しかし、既にその道は自ら絶った。道は前に進む以外残されてはいない。

 差し出された手を握る。包帯によって隠された痛々しい肌。しかし、そのぬくもりは、彼女のものに似ていた――――。





 記憶を本に例える人間がいた。ならば脳内とは図書館のようなものなのか。

 人の人生を双六に例えた人間がいた。ならばその上がりは死でありそれ以上はない。

 人生の分岐点を扉に例える人間がいた。ならばその鍵がなければどうするのだろうか。

 それらが合っているのかどうか悠斗は知らない。

 ただ、悠斗にとって記憶とは絵であり、人生とは歴史という名の巨大な絵の一部分に過ぎない。分岐点は色の変わり目だろうか。

 そう、神の記憶は絵であり、神話が描かれるならそれは壁画などに描かれるような壮大で神々しいものでなければならない。

 今悠斗の目の前を通り過ぎていく絵はまるで壁画を切り取ったようなものから、美術館などに飾られているような豪奢な絵ばかりだ。もしかしたら人のイメージなのかもしれない。神話を切り取ったような絵。それはさながら挿絵のようなもの。こんな絵の一つ一つに「ロキ」であった頃の記憶が眠っている。

 ここは記憶の水底。未来を見通す者にしか入ることは許されない場所。悠斗がここに来るのは二度目になる。一度目は黄昏の直後。死んだと思った次の瞬間にはここにいた。彼女が導いてくれた。神々の手の届かない所に。

 未来を予知する力を持っていた彼女。彼女は自分の終わりを予感していたのだろうか。

 そして今、悠斗は娘・ヘルの力を借りてここにいる。「死」という未来を司る彼女の力。しかしそれは母ほど強くはない。

 本来「死」という未来は時間の中でそれほど強いものではない。だから彼女にはここへ来るための力が足りない。それを補うために彼女が用意したもの。

 それを使い果たすまでに見つけなければならない。その先にあるものを無駄にしないために、意味あるものにするために。

 悠斗は落ちる。記憶の海をゆっくり、ゆっくりと、あらがうこともなくただ身を任せて。

 一つの絵が光り記憶が頭の中を横切る。また他の絵が踊り出し悠斗の脳へと飛び込んでくる。そうやって無理矢理己の記憶、そして神の記録を遡る。

 そう、これはまだ神が人の上に立っていた頃のお話。埃を被った、懐かしいというには優しくない昔話。





『おもしろいな、お前。神とはこうも強欲なものか』

 さらなる知識を追い求める強欲なる神の前に姿を現したその姿。日の光を惜しみなく受け輝く金の髪。空よりも海よりも鮮やかな青い瞳。芸術家が見れば絵に描いて永遠に残すだろう美しい造形。それは神よりも美しく、しかしそこに刻まれる笑みは幼い。新しい玩具を見つけた子供のように。

『お前は力、俺は退屈を紛らわす為の娯楽。欲するものは違えど利害は一致している』

 そう、彼は退屈していたのだ。何十年何百年ただ巨人族という枠組みの中で変わらない時を過ごすことに。

 それを変えるためなら今まで敵対してきた神の仲間にだってなる。ただこの男が気に入ったというそれだけのために。

 それは一人の邪神の誕生。一人の男が神話の舞台に姿を現した瞬間であった。




 そこは神の手が行き届かない地。そこに住むのは巨大な肉体と力を持つ者たち。神の敵という枠組みに生まれてきた者たち。

 うっそうとした森に生える木々は彼らの故郷では見ぬ植物ばかり。空を覆い隠すほどの緑の傘は大地に日の光を与えない。そんな薄暗い森の中を歩くのは無謀な冒険者たち。

 敵地であるにも関わらず堂々と先頭を歩くのは最強を自負する戦神トール。その後ろをびくびくとおびえながら歩くのは旅の途中で部下にした青年シアルヴィ。彼らの後ろを退屈そうにあくびをしながら歩くのは北欧神唯一の邪神であり欺瞞の神・ロキ。後に「大杉悠斗」と名乗る男の過去の姿である。

 彼らが今いるのは先ほども述べたとおり神々の宿敵・巨人族の住処ウトガルドである。

 なぜ彼らがたった三人――シアルヴィは途中から加わったので正確には二人である――で敵地に乗り込んでいるのか。それはひとえにトールの慢心と気まぐれから起こった。

 戦いの神である彼は不必要に戦いを求めた。本来ならただの乱暴者と非難されるべきだが、彼にとって幸いにもこの世界には定められた敵が存在した。そんな敵にけんかを売ることは勇敢であって愚かではない。なぜなら敵が倒されることに文句を言う者などいるはずもないからだ。

 しかしトールは勇敢で強いがその分というか、頭は決して良くない。だから彼一人で行かせるのは余計なトラブルまで引き起こすきっかけになりかねない。

 この傍若無人の息子を唯一止められるはずの父・オーディンも敵を倒そうとすることを止められるはずもない。だからブレーキ役として彼の義兄弟・ロキを同行させることにした。

 この頃の二人の関係は悪友のようなもので、決して悪いものではなかった。ロキも最強の神をわざわざ敵に回すことはない。むしろ単細胞のこの神を利用した方が得であると考えるほど知恵が回った。

 なので結局オーディンの命令もあり渋々トールの戦道中に参加することなった。

 ロキは基本的に面倒くさがりであり、自身の興味に触れないものに対してはほとんど無関心であると言っていい。なので今回の旅にも消極的であった。神としての使命感などかけらもない。さらに彼は元々巨人族の出身である。積極的になるはずもないのだ。

 ならばトールを裏切るような真似や、巨人族を保守するようなことをするかと言われれば、それはないと断言できる。なぜなら彼には神や巨人族といった種族の誇りや確執とは無縁だからだ。そういった枠組みでくくられることを受け入れる人物ではない。

 なので今こうやって裏切り者の立場でありながら再びこの地に降り立ったことに罪悪感などは存在しない。彼には最初から持ち合わせていないのだ。

 さらに言うなら彼はたびたび他の神々に知られずこの地を訪れている。愛する家族に会うために。そして、もう一つの理由がここにある。

 それについてはまた後ほど。

 とにかく彼らは巨人族の本拠地へと踏み行っているのだが、何ともでこぼこなメンバーである。一人は意気揚々と歩き、一人は怯えながら周囲を伺い、一人は退屈そうにあくびをしている。

 旅の途中でもいろいろあったが、トールの勇敢な(無謀な)行動により怪我一つなくここまでやってきた。そして今、ようやく彼らはウトガルドの王城を前にしている。

「ようやくここまでやってきたか。道中は思った以上に手応えのないものだったが、ここでは期待したいものだ」

 まだ立派な黒ひげと壁を思わせるような体格を誇っていた頃のトールは、今と変わらずその戦意を高ぶらせている。ロキからすればただの蛮族であるが。

(適当にあしらわれていた場面もあったと思うが。なかったことにしたいのかそれとも本気で気づいていないのか)

 その可能性もある、と過去と未来の二人が同時に思う。彼もまたたいした違いを示していないようだ。

 神々にとって時間とは気づけば通り過ぎる無口な隣人に過ぎない。だからそこに変化を求めることも、それによって生まれる価値も見いだすことはない。ロキ自身、そうであった。

(だが今は違うと断言できる。フレイに言われずともわかる。俺は変わった。だがその変化が悪い意味ではないとも断言できる)

 変わりゆく時に置いてきた者たち。そこに価値がないとは言わせない。それは時に未来よりも価値があり、さらなる未来を生み出す。


(昔をやり直せたら。そんな人の願いを笑っていた頃の"俺"があれだ。あの頃の"俺"が今の"俺"を見たら、何と言うだろうな)

 過去の自分を時に浮遊しながら、時に過去の自分と重なりながら見る様子はまるで自由に視点を変えることのできる映画だ。

 もし映画なら三流に過ぎないが。

(この頃に記憶は俺だって覚えている。フェンリルたちが捕縛され、彼女が死んで間もない頃だ。そんな時期にくだらん提案をした筋肉馬鹿を殴り飛ばしたくなったものだ)

 それでもその筋肉馬鹿につきあったのは主神の命があったからだけじゃない。元々彼の命を聞く義務はない。

 このときこの馬鹿騒ぎにつきあったのは、もちろん理由があった。神々へのささやかな仕返しだ。神々の切り札であり、おそらく息子たちを捕縛するのに関与したであろうこの男に恥をかかせてやりたかったのだ。

 ロキは知っていた。トールの戦道中が失敗に終わることを。




 巨大なトールよりもはるかに高く巨大な門。その重厚な雰囲気は一人たりとも通さぬと言わんばかりにそびえ立っている。

 まずはこの門をどうにかせねばならぬのだが、周囲に門番はおろか、人影すら見当たらない。城の周りは静まりかえり、鳥のさえずりさえ聞こえない。三人以外の生き物の気配は感じられない。

 城の中がどうなっているかは外からはまったくうかがえない。重厚な門と頑強な石壁がすべてを遮断している。

「で? ここまでやってきたのはいいが、これからどうするんだ?」

「何を言っている。何のために来たと思ってるんだ」

「巨人族に喧嘩を売りに来た」

「違う! これは戦争なのだ。いずれこの戦いが憎き奴らを滅ぼす序曲となるだろう」

 自信ありげに演説するトール。

 珍しく彼にしては頭を使った会話かもしれないが、結局根本が馬鹿のままだ。たった三人で何ができるというのか。

 トールにとっては自分一人で何でもできると思っているのかもしれないが、仮にも神々の宿敵である巨人族がたった三人にやられるようならとっくの昔に終わっていた話だ。それすら考えつかないのはよほどの自信があるのか、それとも楽観的なのか。

(両方だな。間違いないく)

 やはり過去と未来の異なる名の自分が同じ答えに行き着く。案外自分で思っている以上に変わってないのかもしれない。

「目的はわかったがどうやって。この門をどうやって開けるんだ。呼び鈴はなさそうだぞ」

「こんなもの、俺様のミョルニルで一発だ!」

 そう言ってトールが取り出したのは巨大な槌だ。トールを最強たらしめる要素の一つであり、最大の武器・ミョルニル。小人たちが作り出した地上最強の兵器だ。一降りで起こる雷は地を焼き払い、一降りで岩をたたきつぶす。

 これがあるからこそトールは最強の戦神でいられる。しかし敵陣とは言え、いきなり門を壊して押し入るのが賢い選択とは到底思えない。

「なんでお前はそう短絡的なんだ。それでは強盗と何も変わらん」

「我々が正義なのだ。そんな罪人と同じであるはずがない」

 話にならない。

 三人―――正確には二人が問答していると、それまで沈黙を保っていた門が、何の前触れもなく、その重厚な作りに反して軽々と独りでに開いた。

 突然のことに驚き、呆然とし、そしてようやく警戒を始める。しかし門の先、城内で三人を迎えたのは一人の若い女性であった。

「ようこそ、ウトガルド城へ。我が王がお待ちです。どうぞこちらへ」

 女はただ機械的に、人形のような顔の唇だけ動かした。そして三人の返事も聞かずきびすを返して奥へと歩き出した。

「おい、貴様どういうことだ!」

「無駄だトール。彼女は何も答えない」

「どういう意味でしょうか?」

 それまでほとんど口を開かなかったシアルヴィが主に代わって質問する。

「あれはただ主に言われて俺たちを案内するだけだ。質問に答えるような命は受けていない。巨人族というのは基本的に王に忠実なんだ。彼女をよこしたということは、この城の主が俺たちを招いたということだろう」

 だからここで問答しても無駄だ。

「なら貴様にも忠誠心というものがあるのか?」

 そう何かを含んだ問いは、間違いなく疑心が込められていた。

 当然と言えば当然だ。むしろ今まで何も言わなかったことの方が驚きだ。

 今もって尚、ロキの出自を気にする者は多い。今まで敵対していた巨人組に与していた者が、突然寝返ったこと。いや、ロキからすればそれは寝返りであるはずがない。なぜなら、彼を縛る枠組みというものは存在せず、両親から受けた血に未練などあるはずもなかったからだ。

 トールの問いに、ロキはニヤリと笑みを返す。

「今ここで俺を疑うということは、お前の敬愛する父親の判断を疑うという意味だ。まさかそれはあるまい?」

 そう言われてしまえばどんなに怪しくてもそれ以上疑うことはできない。主神の決めたことは絶対だ。そう、神々にとっての『神』であるのだから。

 神でさえも何かに縛られている。何かを信仰する。それに疑問すら持たない。あのオーディンでさえも、きっと何かに縛られている。

(俺たちは何かに縛られなければ生きていけないのか)

 自由とは無謀な冒険でもある。大地の保護を自ら失い、すがる藁すらもない中空へと放り出される。それを求めることを愚かと言うべきなのかもしれない。

 だが、自由の先にある未来を得たかった。縛られたままでは得ることのできない、本当の未来を。

(だがそれも叶わない。得るのは何の得にもならない真実だけか)

 まだこの頃の自分はまだ知らない。自由を求めた先にある、さらなる地獄を。

(それでも、俺は―――)




 王は沈黙を持って来訪者を迎えた。巨人族がひしめき合うホール。その中で巨人族という名に相応しくない相貌の男。人間並みの身長と体格しか持っていない彼を、だれが巨人族の王と信じるだろうか。

 それでも王は生まれた瞬間より王であった。ただ定められたままに。

 仮面によって隠されているはずの素顔を、俺は知っている。

 ああ、弟よ。お前の言っていたことは正しかったな。確かに俺たちは共にいるべき運命だったのだ。俺はお前であり、お前は俺であった。鏡面に映る自身の顔に違和感を持つ人間などいないだろう。

 俺がお前だったのか、お前が俺だったのか。どちらが先かなど覚えていない。ただ、俺たちは一緒だった。同じ運命の下に生まれし命だった。

 あの日、道が違えるあの時まで――――。 




長くなりそうなのでいったんここで切ります。

突然世界観が変わり違和感を感じておられるかもしれませんが、私自身が一番なじんでいません(笑)。

それでもこの作品を書く前から書こうと思っていた場面の一つなので、ようやくここまで来たという達成感もあります。すでに真実は目の前にあり、あとはベールをはぐだけです。ミステリーで言う犯人を名指しする場面でしょうか。ミステリーならそこで終わりかもしれませんが、真実を知った彼の最後のあがきが残っています。ですのでこの章は真相を知ることが目的で、次章があがくための話になります。よければそこまでおつきあい願います。

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