第26話 君に別れと感謝の言葉を
過去の真実など意味のないものだ。たとえ過去明かされなかった謎が解かれたとしても、それによって得るものは何もない。
死者は生き返らない。失ったものは戻らない。だから過去は過ぎ去った時点で不変のものとなる。未来が過去を変えることはない。今このときでさえ、流れる時は止まらずゆるりゆるりと我々の横を通り抜けていく。掴もうとした手は何も掴むことはない。
悠斗にとって過去は今現在を作り上げたものだ。だから過去が大事じゃない訳じゃない。
過去の真実を知ることによりこれから起こることを予見する。さらなる悲劇を防ぐために。そう、何かを成すことができるときのみ過去の真実は価値を持つ。
しかし何も変えられなかった。所詮この身は操り人形でしかないのか。糸を切ることはできないのか。
もう、何もできないのか。
今更過去を明かしたところで何になる。護りたかったものは護れなかった。過去の真実は未来へ繋がるなら意味も持つだろう。しかしそれ以外に於いては諸刃の刃だ。知ることにより変化する未来。それは時に知らぬ方が良かったと後悔する。
過去はパンドラの箱だ。いらぬものと必要なもの、両方が入ってる。時にそれは希望すらも飛び出てしまうだろうが。
なら、俺は間違えたのだろうか。自ら最悪の事態を呼び込んでしまったのではないだろうか。水の流れにあらがえばほとんど前に進まず、流れてくる流木は自身の身体を傷つけるだろう。結局俺はあいつが望んだとおり流木をせき止める岩になっていた訳だ。
自分の愚かさに笑いが止まらない。
むなしく笑う彼の姿にどんなときも威風堂々としていたかつての姿は見当たらない。ただ我が子を自らの手で失わせひからびた父親の姿がそこにあった。
「ひどい顔だね」
子供たちでさえ声を掛けることが出来なかった彼に、躊躇無く声を掛ける人物がいた。それは決してありがたい来訪者ではなかったが。
悠斗はじろりとにらみつける。しかし客はまったく動じない。それどころか珍しいものを視たと言わんばかりだ。
今この部屋には二人しかいない。子供たちは父に何を言っていいのかわからず、張り詰めた空気に耐えきれずしばらく前に出て行った。それすらも彼への気遣いだ。
それが嬉しいと感じることができず、ただ悲しく虚しかった。
いっそのこと責めてくれれば楽だった。しかしそれを彼らがしないこともわかっている。いつだって彼らは父の味方であったのだから。
たとえ彼が兄を殺したのだとしても。
許可も得ず客人は悠斗の正面にあるソファに腰を下ろす。悠斗はそれに文句を言う気力すらなかった。
数分の間、二人は何も言わず悠斗は睨み、相手はその顔をのぞき込む。
「君の口がここまで閉じていたことなんてあったかな」
数分の後に出たのは相手の方からだ。悠斗は今日一日ほとんど口を開いていない。食事すら摂らず、ソファに寝転がっていた。それも含めてのことなのだろうが。
「……」
やはり悠斗は何も言わない。視線だけで追い出せるならとうにできていると言わんばかりの視線だ。あいにくそれで追い出されるほど空気を読める男ではないが。むしろ図太いと言えるほどだが。
悠斗が何も言わないので男が言う。
「欺瞞の神の君が何も言わないなんて貴重だね。何か言われれば三倍にして返す男だったというのに」
何とも不抜けた姿だ。そう男は言った。
それにすら何も言い返さない悠斗に男はもはやあきれ果てた。
「そんなに御子息の死がショックだったのかい? 自分で」
殺しておきながら。
そう続くのを止めるほど、悠斗の視線は鋭くなっていた。視線だけで殺してやると言わんばかりに。
そして今度こそ重い口を開く。
「お前に何かを言われる覚えはないフレイ。死にたくなかったらとっとと出て行け」
「ようやく口を開いてくれた。それでこそ君だ」
辛辣な言いぐさにも関わらず、フレイは堪えていない。むしろ喜んでいる。彼が彼らしくあることをなぜ喜ぶのだろうか。
「この間会った時の君は不安定ながらも芯はしっかりしていた。ピースを得ても、それをどう使ったらいいのかわからないという感じだ。でも今の君は考えることを放棄している。君らしくもない。策略の神であった君が思考することすら投げ出すとは、トール達が見たら何と言うだろうね」
笑うだろうか、驚くだろうか。この抜け殻をあの邪神と信じられるだろうか。しかし悠斗の姿勢は変わらない。
「勝手に言わせておけ。酒の肴にするのも世間話のネタにするのも勝手だ」
たった一つ失っただけで、世界の価値は失われる。そこに生きる者たち、そして自身でさえもどうでもよくなってしまう。
未来のために彼を殺したのではない。だから未来に興味は沸かない。そこにある価値など感じられない。
生きることにすら価値を見いだせない。まだ自分には護らなければならないものが残っているのに。だから未来を選んだのに。
しかし後悔さえしている。しないはずがない。愛する我が子を殺したいと願う親がどこにいるのか。
止めるのが親の責務だと思った。これ以上狂わせてはならないと知った。本当は未来など関係なかったのかもしれない。ただ、彼がこれ以上彼でなくなっていくことに耐えきれなかっただけなのかもしれない。
だから後悔しているのか。
何もする気になれないのだ。すべてが無駄に思えて。
神などえらそうな名札に過ぎないではないか。何もできなくて、愛する者も護れなくて何が神だ。そして神はいつだって気まぐれで無力だ。それをよく知っているから、彼は誰にも祈れない。
今までにないほどの自暴自棄な悠斗にフレイは本気であきれ果てる。もはや笑う価値すらない。
「以前言っていた、私たちを操る存在。それに対して何かできることはないのか?」
「盤上の駒に何ができる」
「反抗はできる」
「微々たるものだな。それこそ俺たちは簡単に換えの効く駒なのかもしれない」
あの時のように。「ロキ」という駒の代わりがいたように―――――――――――――?
「ロキ?」
突然勢いよく起き上がった悠斗にフレイは驚く。しかし悠斗はその言葉を聞いていない。今感じた疑問を考えることに没頭している。
あの時、「ロキ」という駒は差し手の言うことを聞かなかった。しかし彼がすべき事は成された。誰によって?
ロキによって? 違う、だって俺はあの時動かなかったではないか。記憶があっても、俺の肉体は間違いなく外に出ていなかった。一歩たりとも。
事実と真実の食い違い。なぜもっと早くに気づかなかったのか。
あの時、記憶を持ってはいても、それは間違いなく他人の経験だったはずだ。俺の肉体は一つしかない。精神だけが動いてバルドルを殺した? それはない。俺にそんな力はない。精神だけで何かができるはずがない。
物理的な行為をするには肉体が必要だ。なら、自分に代わって動いた肉体は誰のものだ?
バルドルを殺したのは俺じゃない。なら、誰が殺した? あの時動くはずだった邪神の代わりに動いたのは誰だ?
代わりなんて誰にでもできるわけじゃない。誰かが行った経験は俺のものとなっていた。それは俺とその代役が近い存在、いや同じだからじゃないのか?
そう、それは鏡面に映る己の姿のように―――。
一つの推測が頭に浮かぶ。そんなはずないと否定する声が挙がる。しかしそれすらはじき飛ばすほどの強い直感がある。
『一緒にいるのが当たり前なんだ』
人の身でありながら運命を口にしたまったく似たところのない弟が言った。
『僕は悠斗と一緒に生まれたのは運命か、特別なものだと思ってる』
『たとえ悠斗がどこへ行こうとも、何をしようとも、最後に一緒にいるのは僕だと思ってる』
『初めて君に出会った時、僕の心が言ったんだ』
『『やっと会えたね』って』
枯れ葉の向こうにあった似姿に問う。お前なのか、と。
思い立つと悠斗はすぐ立ち上がり電話を取る。部屋にいるフレイの存在など眼中にも入らないかのような、そしてその顔は緊張と驚愕に溢れている。
繰り返されるコール音が長く感じられた。早く出ろと急かす思いと、このまま先延ばしにしてしまいたいという相反する思いが頭の中でぶつかり合う。
それが良かったのか、悪かったのか。電話は数回のコール音の後繋がる。
『もしもし? 悠斗?』
出たのは幼馴染みの少女だった。
「なぜお前が出る。実はどうした」
悠斗がかけた相手とは違う人間が出たことに違和感と嫌な予感が加わる。
『いないのよ、昨日の晩から。ケータイも財布も全部置いていって』
それはもはや答えを言っているのと変わりはないのではないか。彼の不在がすべてを物語る。ただ、彼が誰なのか、その答えだけが導き出されていない。
『始さんは変わらずよ。意識も戻ってない。今はおじさん達が付き添ってる』
そういえば彼らがいたなと、今更ながら思い出した。既に縁を切ったかつての両親に未練などない。それでも、あの二人にとっては他にない両親なのだ。
子を奪われかけたことに、彼らは何と言うだろうか。自分なら当然許せるはずもないが。
しかし断罪する相手は既にいない。真実は人の身には知られることのないまま迷宮入りとなるだろう。
親は憎しみや悲しみをぶつける相手を見失う。
『ねえ悠斗、聞いてる?』
「ああ…聞いてるよ」
『悠斗……実、帰ってくるよね?』
常に明るさを失わない彼女の不安げな声に、悠斗は少なからず驚いた。こんなに弱々しい彼女を見たことがないからだ。
『実、最近変だった。どこが、と言われても困るけど、時々別人に見えた。いなくなる前、一瞬だけ、見間違いだと思うけど、顔も全然違う人に見えたの。外人みたいな…』
似ていないはずの兄に似ていたのだと。
『悠斗……実は違うよね? 神様とかとは関係ないよね?』
付き合いが長いだけにその変調に敏感に気付いたのだろう。そしてこの先にある未来が決して明るいものではないことに。
『私…悠斗の時みたいに、実のこと忘れたりしないよね?』
それに当たり前だと答えればいい。しかし悠斗は嘘でもそれが言えなかった。欺瞞を司る神であったのに。
「桜、忘れた方がいいことも世の中にはある。俺のことも、もしかしたらあいつのことも」
『悠斗?』
「俺の甘さが今回のことを招いたのなら、俺は完全に切り離すべきだった。自分が人ではないことを忘れていた」
『悠斗? 何を言ってるの?』
「もしお前達がすべてを忘れてしまっても、俺やあいつがいたという事実は消えない。それが本来歪められた現実であったとしても、お前達と過ごした時間は俺達の中に残っている。だから無駄な事なんて一つもない」
『悠斗? ちょっと待って』
「お前達に会えてよかった」
この会話すらいつか忘れてしまうかもしれない。だが、俺は憶えている。たとえそれが一瞬であっても、刹那であっても、その時間が存在したことを打ち消すことはできない。
悠斗は一方的に会話を切り、電源を切る。そしてその電話を叩き壊す。
激しい音と共に無惨に砕かれた電話は二度と繋がらない。何処にも。
そしてそれは悠斗にとっての決別の証でもある。優しく穏やかだった人との絆。それを自ら断ち切る。
「それで良かったのかい?」
何も聞かずともわかっていた。だからこそフレイは尋ねた。しかし悠斗の顔は吹っ切れたかのようにすっきりとしたものだ。
「甘えるわけにはいかない。それに今までの時間が消える訳じゃない」
楽しかった時間も苦しかった時間も、すべて記憶している。それらが与えてくれた形無きものは悠斗の中にある。
「元々俺達の問題だ。人間を巻き込む方が間違っている」
「彼らは納得しないと思うよ」
「それでもだ。失いたくないからじゃない。俺はすべてを捨ててでもやらなければならないことがある」
これから自分がしようとしていることは愚かと言える行為だろう。またさらに大事なものを自ら手で壊そうとしているのだから。
「真実にそこまでの価値があるのか?」
「ないだろうな。その為に失うものの価値と比べれば、比べる意味すら感じられないほどに」
だが、
「このまま安穏とした生活が送れるはずもない。俺が何もしなくても奴らは待ってくれない。その時無知なままであるか、知って何かをするのかの違いはある」
「すべて抱えたまま消えるという選択肢もあるよ。一度知ってしまえば、知らなかった頃には帰れない」
「それこそ俺達の生きた時間が無駄だったと言われる。どうせ消えるなら俺は最後まで足掻くことにする。誰かの決めた生き方をするなど我慢ならない」
「知らなければ、それが誰かの定めた道とすら気付くこともなかったのに」
「それは人間がすることだ。俺はもう人でも神でもないが、だからこそできることがある。何もしないままよりは無様であっても自分に誇れる生き方を俺は選ぶ」
一度始めてしまえば二度と引き返すことができないだろう。最後にはすべてを失うに違いない。それでも。
「俺は前に進む。未来のためにじゃない、自分が何であったのか、その答えを得るために俺は真実を求める」
何も残らない。だが、自分に恥じる生き方をしないために。
もう止めても無駄なのだと眼が言っている。フレイは大きく息を吐き出した。
「…何か、私にしてほしいことはあるかい?」
中立を保っていた彼の申し出に驚きながらも、やはり情にあついことを確信する。
「あいつらのそばにいてやってくれ。これ以上、誰にも干渉されないために」
「…わかった」
悠斗の横を通り抜け外へ出ようとしたフレイの耳に、信じられない言葉が入る。それは彼との長い付き合いの中で一度も聞いたことのないもの。
それが嬉しくて、笑みで返す。
そして別れを。おそらく二度と会うことのない友人に。
きっと忘れない。この瞬間を。
『ありがとう』
たとえ私が世界の終わりと共に散りゆく運命にあったとしても、最後の一欠片になるその時まで、忘れはしない。
第6章 原稿の上で踊る神々と零れたインク
開始です。




