第25話 殺害動機
家族とは一つの世界だ。宇宙と言ってもいい。男と女が出会い、子供を産み、育み、老いて死ぬ。そしてその子供がまた家族を作る。繰り返し繰り返し、世界は広がっていく。人は生まれた時から既に宇宙の中にある。
ロキにとってそれは零からの始まりであった。彼は自分に連なる血を知りながらも感じたことがなかった。ただ情報として父と母を知り、巨人族という枠組みの中に生まれた。だが彼自身父と母に親としての愛情を与えられたことはない。種族特有の関係性だったのかもしれない。とにかく血縁の絆はなく同じ種族という絆と枠組みだけがあった。だから家族という世界を知らなかった。
親は子を愛するもの、それすら知らずにいた。それを知ったのは皮肉にも巨人族と対立する神々の仲間に入ってからだ。当たり前のように愛し愛される世界に初めは驚きを隠せずにいた。それぐらいロキにとって家族という世界は不可解で異常なものに見えたからだ。
それをうらやましかったのかと言えばそうでもない。得もなしに互いの為に生きるという生き方に彼は価値を見いだせなかった。得かそうではないか、それだけでしか見ることができなかった。
それが変わったのは実際に家族を持ってから。心の底から愛する女性に巡り会えた。そして最愛の女性との間に子供が生まれた。自分と彼女の子。愛情の結晶と言える存在。不思議なものでそれがどんな姿をしていても、自分と彼女の血を引いているだけで価値がまったく変わってくる。
他人の子は嫌いでも自分の子は別格。その意味を理解する。
家族を失うことは世界が壊れること。本当の世界が壊れるよりも、家族を失うことを恐れた。それが家族というものなのだろう。
彼女を失ったとき大事な世界の柱を一つ失った。決して埋めることのできない空白が生まれた。だからこそ残された子達は何に変えても守ろうと誓った。
たとえ離ればなれになっても、絆が消えることはない。どんな姿をしても、何をしても愛し続ける。そう決めていたはず。
なのに、
ナゼ彼ハ我ガ子ヲ殺サナケレバナラナカッタノカ
なぜ、と問われれば子はやりたかったからと答える。
ブラウン管の世界でも現実でも、簡単に人は人を殺す。殺すことは安易。その理由も、方法も。ただむかついたから、なんとなくという理由で誰かが誰かを殺す。人は簡単に人を殺せてしまう。特に理由もなく人は殺される。なら失った命の価値は、重みは。
命は大事なものだから人を殺してはいけません。そんな子供でもわかると思われているルールが実は理解されていない。本当は知っているから。我々はいつだって何となく生きて、なんとなく殺して、なんとなく殺されるのだと。
復讐なんてたいそうな理由は必要ない。金なんて価値は関係ない。命なんてそんなものだ。いつだって他人の命は軽すぎて簡単に捨てられてしまう。
なんとなく、それは十分すぎる理由ではないだろうか。
欲望が理性に勝った時、そこにいるのは人ではなく獣。獣は本能のままに動く存在。だが、人が獣を殺す理由も、獣が人を殺す理由もたいした違いはない。
ただ殺したという結果だけが重要であるのであって。
悠斗は神であった頃も今も、誰かを殺すことにそれほどの戸惑いや罪悪感を抱いたことはない。ただ殺すか殺さないかの選択肢だけが彼の中にあった。
今彼に与えられている選択肢は一つしかない。いや、一つしかない時点で選択肢とは呼べない。それは決定事項だ。
「私は彼らが嫌いでした」
子は自分にとっての神である父の前で告白する。
「私の大切な者を、いや世界を壊す彼らの存在が憎かった」
この礼儀正しい息子が誰かに向かって憎悪を抱くのは珍しいことではない。今までだって彼は抱えきれないほどの憎しみを傲慢な神々に向けていたのだから。
だがそれは矮小な人間に向けられるには巨大すぎる。ぶつけて壊しても、余りあるほどの憎しみはその対象だけでなく彼自身も傷つけるだろう。
憎いから、嫌いだから、生きているなら誰でも持ちうる感情。彼がそれを抱いたことに何の咎があるだろうか。あるとすれば、それを爆発するまで放置した彼の父のものだろう。
曇天の空は今にも泣き出しそうなくらい薄暗くどんよりとしている。夜の闇の方がまだ清々しいと思えるくらいに。
場所がどこであるかは関係ないが、一応人気のない開けた場所と言っておく。いつ降り出してもおかしくない天候だが二人とも雨具など持っていない。降り出した後のことなど考える必要がないかもしれないからだ。
子には選択肢があった。父を殺すか父に殺されるか。父には先にも言った通り選択肢はない。彼にとって未来を持続させるために他の道を選ぶ方法などなかったのだ。そして未来を持続させなければならない理由が彼にあった。
なぜ殺し合うという選択肢しか用意されていないのか。それは彼らが既に何らかの意志によって動かされる駒であるからだ。それは悠斗がフレイに語った神すらも操る存在。それに気付いていた悠斗ならこの状況を回避する機会もあったはず。しかし彼はその機会を逃してしまった。
気付いたときには駒と化していた。そして一度駒となればもう取り返しはつかない。少なくともこの盤が終わるまで彼が退席することはできないのだ。
父と息子の決闘は珍しくない。子は親を越えて大人になる。その為の手段として決闘はメジャーな方法だ。しかしこの戦いは少年の成長を促す為のものでもなければ復讐でもない。
対する息子の姿が既に人の形を保てなくなっていることには気付いていた。そしてもう理性を失っていることも。それに気付いたことも、既に取り返しが付かないことにも、頭の良すぎる悠斗にはわかっていた。不幸にも。
父の兄弟を傷つけたとき、フェンリルの中で優先順位が変化した。護ることから壊すことへ。一度変化した優先順位はもはや元に戻すことができないほど進んでしまった。もはや破壊することだけを目的とした存在。それは既に人とも獣とも呼べないのかもしれない。
だが、それでも我が子であったものを、この手で殺せる父がいるはずもない。
ならばなぜ彼は我が子を殺すに至ったのか。ただ彼は言う。
愛していたからだ――――と。
降り出した雨がすべてを洗い流す。血も汗も、何もなかったかのように。
二人の戦いはあまりにも凄惨で、あまりにも無価値なものに終わる。二人の間に言葉はない。言葉だけで解決するようなものなら最初から起こってすらいない。また息子には会話を成すだけの理性も知性も既になかった。彼を見つけたその時には、ただ一方的に言葉をはき出すだけだった。ぶつぶつと壊れたラジオのように、目の前にいる父親すら認識していないかのように。
言葉が意味を持たない世界。だから悠斗も言葉を発することはない。肉体と肉体の触れ合いのみが意味を成す。殺し合いもセックスもその意味合いでは変わりない。ただぶつかりむさぼり合うという意味では。
名の代わりに骨の折れる音が響く。制止の言葉の代わりに血の吹き出る音が血と共に溢れる。
悲鳴すらない。痛みの為に叫ぶことすらしない悠斗。それに代わるようにフェンリルが吠える、哭く。
骨が砕けた、肉が食いちぎられる。腕が身体から引き離される。爪が肉を引き裂き、牙が身体に食い込む。
それでも、悠斗は何も言わなかった。
そして終わっても、何も言わない。
横たわる黒狼の毛は血と雨で濡れている。いくら雨が洗い流しても血は落ちきらない。悠斗もまた血と雨で濡れている。濡れていない所など一つもない。ただ顔から滴る水は雨のみである。
彼は泣かない。涙はとうの昔に流し尽くしたから。だから彼の為に流してやる涙がない。父は子の骸を前に泣くことも出来ずにいる。父として最後にしてやるべきことすらできない自分に怒りと憎しみが向けられる。
だが、今はただ悲しみと後悔だけ。
泣けない彼の代わりに雨が泣く。空より降る雫のすべてが彼の涙。
泣いて泣いて。しかし彼は二度と目を覚まさない。
彼の世界はまた一つ欠ける。二度と埋まらない穴が再び穿たれる。一度出し抜いた驕りと余裕がすべてを遅らせた。気付いたときには既に遅し。
雨がすべて洗い流してしまえばいい。すべてなかったことになればいいのに。そんならしくもない考えが浮かんだ。
そして別れは一つに終わらず。すべての別れの始まりでしかない。
君と共に生まれたこと。それが始まりではない。本当はもっと以前から。
君が僕であり僕が君である証。魂の繋がり。決して切れない縁。
君は僕の過去。僕の現在、僕の未来。僕は君の未来、君の現在、君の過去。僕たちは鏡を見るかのように同じであり、コインの裏と表のようにまったく違う。だけど誰よりも近い存在。
一緒にいることが当然で、一緒に生まれたことが必然だった。僕たちは同じ目的の為に生まれてきた。始まりから共にあり、永遠に来ることのない終わりは決して僕たちを引き離しはしない。
永遠の時を共にしよう。それが必然、それが運命。なぜなら僕たちは一つであったのだから。君が成すことを僕が記憶する。君が成さなかったことを僕が成す。そのために僕は在る。
僕たちは仮初めの終焉をもたらすために生まれた。その為に僕たちは存在する。世界に悲劇を、世界に混沌を、復活の為の終焉をすべての命に。
僕たちは嚆矢、僕たちは鍵、僕たちは閉幕のベル。
だから僕にとって不必要なものは君にとっても要らないもの。要らないものは消さなければならない。それも間近に迫る終焉の前に消える一つの石ころに過ぎない。
だから悲しむ必要なんてないんだよ。その悲しみもすぐに消えてしまう。永遠の前にはほんの刹那に過ぎないのだから。
さあ、最後の鍵はあげた。早く僕の元に辿り着いてね。僕にとってはほんの刹那でも君と離れることが苦痛なのだから。
浅葱幕は落とされた。僕たちの本当の黄昏が始まる。
第五章【黒狼が哭いた夜、彼の代わりに雨が泣いた】終了です。




