第24話 野良犬の行方
病院に着いた時、既に空には星々が並んでいた。
見舞客もほとんどおらず、患者も病室で夕食を食べ始めている頃。
静寂に満ちた待合室をずかずかと横切る男がいた。荒々しく音を立てる歩き方に注意する看護師がいたがまったく耳に入らず、視界にすら入っていない。
男は廊下を奥へ奥へと進む。そこは他の見舞客や患者がほとんど近寄らない場所にある。壁には窓ガラスがはられ、中の様子が見られるようになっている。部屋の前には椅子が設置されており、そこには一人の少年がグスグスと泣いている。他には誰もいない。
無機質な電灯が廊下を照らしているのにここは暗い。そう感じるだけかもしれないが、ここで明るい雰囲気など似合いはしない。
少年は男に気づき伏せていた顔を上げる。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの醜いものだ。今からこれでどうするのだと思ったが口にはしなかった。ここで空気を読まないほど性悪のつもりもない。
男は少年に一度眼を向けただけで何も言わず、窓から室内をのぞき込む。
室内は暗い。その中でモニターやランプだけが光源となっている。部屋の住人は明かりなど必要としないのだから。唯一在る家具であるベッドの上には男が一人横たわっている。患者が着るシンプルで飾り気もない水色の服を着せられている。むき出しになっている腕や顔、頭にはほとんど皮膚の色が見えないくらい包帯で隠されている。
ここは病院だ。そして病室に眠るの患者が何事もないはずがない。それでも、これで生きているのかと疑いたくなる姿だ。しかし周囲にある機器はその鼓動が動いていることを示している。モニターに鼓動が刻まれる。規則正しい機械音。それらだけが彼の生きている証に見えた。
死人に病室は必要ない。ならばそこにいるだけで生きている証になるはずなのに、それすら考えられない姿だった。
「何があった」
男、悠斗はここに来て初めて口を開いた。それはもちろん泣いている少年に向けて言ったものではあったが、どこか確認するかのような発言にも聞こえた。
一度目では何も答えられなかったが、二度聞けば嗚咽混じりの返事が来た。
「今日、家に帰ったら……倒れてて、すぐに…救急車呼んで…」
答えはしたが悠斗の欲しい答えではない。そんなこと予想のできる光景だ。本当に知りたいのはその前だ。
「見たのか」
何を、とも誰を、とも訊きはしない。だがそれで十分意味は伝わる。少年、実にもそれは伝わっていた。だから首を縦に振ることで応える。
「そうか…」
それだけだった。悠斗はきびすを返しその場を後にしようとする。その悠斗の腕をすれ違いざまにガシッとつかむ手があった。誰かなど考える必要すらない。ここには二人しかいないのだから。
悠斗はその手を振り払いもせず自分を見上げる弟を見下ろす。ただ無表情に。彼はここに来てから一度も表情を崩していない。それすら腹正しいと言わんばかりに睨みつける瞳。純粋な憎しみ。見慣れたはずの視線が、この弟からだととても珍しいものとなる。
こいつもこんな顔ができたのか。
「どうしてだよ」
掴む手に力がこもる。
「どうして彼が……あんたの息子が始兄さんを傷つけるんだよッ」
不幸にも、いや故意なのか、その場を立ち去る犯人を見てしまった。血の繋がらない兄の息子。黒髪に長身の、獣の目をした男。
悠斗は何も答えない。掴まれた手首が痛む。
『傷つけるつもりだったんじゃない、殺すつもりだったんだ』
そう言ってやろうかと思ったがやめておいた。それではただの八つ当たりだ。言い訳も謝罪もない。
何分そうしていたのだろうか。二人が互いをにらみ合っていた中、三人目の存在がその空気を打ち消す。
「何しているの、二人とも!」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。二人を止めんとばかりに桜が駆けてきた。それに気を取られた隙に実は力を緩めてしまう。その隙を逃さず悠斗は手をふりほどき足早く歩き去っていく。
後ろから二人が止める声が聞こえた。しかし悠斗を止める力はない。誰かが追ってくる気配もあった。
実達が悠斗を追う。悠斗が角を曲がり視界から消えたのはほんの数秒。しかし、実達が角を曲がった先に悠斗の姿はなかった。ただ開け放された窓から吹く風が、最初から何もなかったのだと嘯いていた。
烏が地面に降り立つ。黒い翼は細長い腕に、漆黒の帽子は同色の髪に。バサリと風に舞ったのは羽ではなく黒いパーカー。空舞う者は大地駆ける者の姿へと転じる。
久しぶりの飛行に何の感慨もなかった。そんな心の余裕などどこにもなかった。
悠斗は数ヶ月ぶりの大杉家の前に降り立った。人間としての人生の寝床としていたかつての我が家。人であった頃の人生に不満はなかった。何の危険もない、神であった頃に比べれば一瞬に過ぎない十数年。しかしそれを刹那と感じたことはない。むしろ怠惰に時を過ごしていた頃よりも、幼稚でありきたりなことをやっていた十数年の方がずっと深い。
長ければ良いというものではない。どんなに短くとも、そこにある価値は時間の長さで測れるものではない。
閉ざされた扉の向こう側に人の気配はない。鍵もかかっている。何人たりとも通さぬと言うように立ちふさがる扉。わずかに流れてくる血の臭いが、そこで何があったかを物語っている。
どんな鍵を使おうとも、神の前では無意味。人間の文明など神の前では無力に等しいのだろう。悠斗が一つのルーン文字を宙に刻めば、文字は鍵穴に吸い込まれ何の抵抗もなく扉を開け放つ。
一歩家に入ればそこにあるのは惨劇の場。玄関と廊下に広がる紅の装飾が悠斗を迎える。既に何時間も経つというのに、むせかえるような鉄の臭いに思わず眉をひそめる。
壁に、天井に、まき散らされた赤黒いシミ。これでまだこれを流した人間が生きているとは驚きだ。もっとも、まだ生きているとしか言えないが。絶対に助かるなどという希望は最初から持ち合わせてはいない。たとえ助かったとしても以前の生活は送れないだろう。既に五体満足ですらないのだから。生きていただけでも奇跡だろう。
そう、あれはまるで食い散らかしたような―――。
「…――お父さん?」
その場で考え込んでしまっていた悠斗以外の声が発せられる。
ニュルリ、と悠斗のパーカーに付いたフードの中から出てきたのは一匹の蛇。光加減で黒にすら見える光沢のある灰色の身体。一見すると珍しい模様をした小型の蛇にしか見えない。これが世界を取り巻いた大蛇とは誰も思わないだろう。
「大丈夫だ」
頭を除かせた次男坊の頭を優しくなでてやる。
「どうだ、オルム」
フードから悠斗の首に巻き付いたミドガルズオルムはヒクヒクと小さな身体の小さな鼻を動かし臭いを嗅ぐ。むせかえる血の臭いの中からある臭いを探す。できれば父の勘が当たっていないことを祈りながら。
しかし蛇の優れた嗅覚はそれを探し当ててしまう。
「うん……あったよ」
人の血の臭い、その中に獣の臭いが。血を分けた兄弟の痕跡が。
「そうか」
それだけ言って悠斗は乾ききっていない血だまりを見つめる。
どうしてこうなったのか。いや、なることがまったく予想できなかったわけではない。ただ、それでもなるはずがないと思っていた。
感情に流されずいつも冷静に行動してきた息子。愚は決して犯さない。そう信じていたからこそ背中を任せることが出来た。俺が何かをしなくてもあれは一人で何でもできる。俺がしてやることは何もない。
しかしそんな彼にも心はある。昔から、特に最近彼の中に渦巻いていた感情に気付いていた。考えすぎだと言ってやりたいほどの強い感情。一人前だからと言って放っておくことはできなかった。父親として甘やかしてやりたかった。
だが人間界に来て、神々との戦いが繰り返される中で、どうしても彼に頼ってしまう場面は多かった。あまりにも優秀すぎたから。
それでも彼一人に背負わせるつもりはなかった。完璧でなくてはならないと思ったことはない。できればもっと自分に頼って欲しかった。我が子を支えるのは親のつとめだと思っていた。
しかし彼は完璧を求めてしまった。他人がどんなに優秀だ、完璧だと褒めても彼は決して満足しない。すべてが父の為に、父の為にすべてのことをしようとした。
だから自分の中にある感情を認められずにいた。否定された感情はなお彼の中でふくれあがりそして弾けた。
いや、弾けさせられた。
それに気付くのに、俺はあまりにも遅い。まだすべてを理解していない。なのに事態は俺の理解を待ってはくれない。
これからどうするべきなのか。いくつかの選択肢が存在する。しかし、遅ければ遅いほど選択肢は減っていく。そして最後には最悪の選択肢しか残されていないだろう。
だから今行動しなければならない。何をすべきかわからなくても。
「行くぞ、オルム」
邪神は再び飛び立つ。もう一人の息子を連れて。愛する我が子を探しに。
かつて連れ去られた子供達を探しに一人で飛び立ったあの日。しかしあの日わかった居場所が今はわからない。
まるで絆が切れてしまったかのように。
フェンリルは夜の街を一人歩いていた。身体がとても軽い。昔身体を拘束していた鎖が解き放たれた時のような解放感。夜の風が心地よい。まるで自分の身体の一部のように。
閑静な住宅街を歩く人影はほとんどない。たとえいたとしても暗闇の中、彼の衣服に付いた赤い模様を見つけることはできないだろう。
そう、人はそんなことすらできない。脆弱で愚かで無能な生き物。そんなものにこだわる必要などない。最初からこうすれば良かったのだ。あんな簡単に死んでしまう生き物。邪魔ならさっさと消してしまえば良かった。なぜこんな簡単な答えがわからなかったのだろう。
フェンリルはすべてから解放された。すべてのしがらみから、悩みから、感情から。
踊りたくなるほどの高揚感。こんなに楽しい気分は久しぶりだ。普段家族以外の前ではほとんど動かさない表情が豊かに動く。歓喜に震えている。
フェンリルは自分の表情がどんなに歪んでいるかにまったく気付いていない。普段の彼からはまったく想像も出来ない表情だ。
彼の影がゆらゆらとうごめく。他の影と重なっても混ざり合わず、さらに黒い影がはっきりと形作る。血肉に酔う獣の形。
獣は理性など必要としない。食べたければ食べ、殺したければ殺す。それの何が悪い。弱い生き物のくせに、たかが十数年の付き合いのくせに、私から父を奪う存在。ならば邪魔者は消してしまえば良い。
そう、今の彼は獣だ。鎖から解き放たれた獣。誰にも縛られない、縛れない。縛ろうとすればどこかの神のように手を食いちぎられてしまう。
用意されたレールの上を歩くことは楽だ。考える必要もない。しかし自由はない。解放されたはずなのに実はまったく自由でないことに彼は気付いていない。
さあ次はどうしようか。まだ残っている邪魔者を消そうか。人も神もすべて消えてしまえば良い。私の世界を壊そうとする者は罰を受けるが良い。
傲慢な審判。裁判官も弁護士もいない審判に用意されるのは処刑の一つのみ。
黒がさらなる黒に染まる。漆黒の闇に飲み込まれる。
鎖から解かれた獣の行く末は、最初から決まっているのかもしれない。




