第22話 一万年目の真実
珍しく自分からやってきた知人――友人と呼ぶとはげしく怒る――はいつにも増して不機嫌な顔を向けてくれた。
「どうしたんだい?」
思わずそう尋ねてしまうほど。
しかしそんな気遣いや疑問などに応える気もなく、彼は同じベンチに腰掛ける。三十センチほど離れているのが何とも彼らしい。
元々彼は自分を好んではいない。そんなことは百も承知だ。だがこれほど不機嫌な顔を見るのは一体いつ以来だろうか。
悠斗は膝に片肘を立て、隣に立つ自分になど目もくれず、明後日の方向を睨みつけている。別にそっちに何かがあるわけではない。ただ単に自分と視線を交わしたくないだけだろう。
だがそれほど不機嫌な彼がわざわざ会いに来るなどよほどの理由があるのだろう。
「本当にどうしたんだい。私に何か用があったんじゃないのかい?」
フレイが尋ねても、悠斗はしばらく何も言い出さない。本当にどこかを睨みつけているだけだ。まるでここではない、どこかにいる誰かを睨みつけるかのように。
悠斗はようやく口を開いたのはフレイが諦めため息を吐く一秒前のことだった。
「俺は何をすべきなんだろうな」
とても彼らしくない言葉にフレイは再び驚かされる。
「本当にどうしたんだい。今日の君は何か様子が変だが」
「おまえに変と呼ばれる筋合いはない」
いや、彼らしさは健在か。
「ならどうしたんだい」
「正直するべきことがわからない」
そう、わからないのだ。
ラグナロクの後、傷ついた身体と魂を癒すためこの世界に来た。まずは身体を癒し、散り散りになった子供たちを見つけ、やってきた刺客を撃退していった。
だが、するべきことがわからない。
「自分でもおかしなことを言っているのはわかってる。だが、俺はこの世界に来て何をするべきなのか、最近になって考え始めた」
運命や使命と言った他人に決定された人生を全うする生き方は悠斗が最も嫌う生き方だ。だからするべきことなど考えたこともない。自分の人生は常に自分が選んできた。そこに計画性はない。
なのに、今激しく何かをしなければならないという感覚に襲われている。しなければ悪いことが起きるような。虫の知らせのような警告。
悠斗はこの感覚を以前一度だけ感じたことがある。
それはまだ彼が神の座にいた時のこと。彼が神の座を追われ、捕縛される直前だ。
そのとき感じた感覚は二つ。そしてその二つは相対するものだった。
一つは○○をせよ、という命令のようなもの。
もう一つはしなければならない、いや、してはならないという虫の知らせのようなもの。
今感じているのは後者の感覚。前者の感覚はない。
「あのとき俺は後者の方を選んだ。理由はわからないが、警告のようなものを感じた。それに従えば取り返しのつかないことになってしまうと」
だが結局その未来が変わったのかどうかはわからない。きっと結果は変わっていない。なぜああなったのか未だにわからない。だから誰にも言ってはこなかった。息子たちにさえ。自分さえ信じられなかったのだから。
「今回はどうなんだろうな。俺に予知能力のたぐいはないはずだが、今俺は重大な選択を迫られているような気がする」
自分の未来を変えるような選択。それなのにどうすればいいのか具体的な選択が見つからない。
「俺は息子たちとずっとこの世界で幸せに生きていければそれでいいと思っていた。これ以上神の復讐や使命に関わるのはごめんだとな」
「まあそれはわからなくはないね」
フレイもそのあたりが悠斗に似ている。使命よりも快楽を求める。実に自分の欲望に忠実で素直な正確と言えよう。
だからこそ悠斗は話せた。今まで誰にも言えなかったことを。信用しているからじゃない。今のうちに誰かに言わなければならないと思ったからだ。そしてその相手は息子たちでも人間でも、他の神々でも駄目だ。使命より情や快楽を重んじ、中立に近い立場である彼でないと。
フレイもそれは理解しているのだろう。だからわざわざ自分を話し相手に選んだ理由を問いはしない。
「ここで選択肢を間違えれば俺はきっと再び何かを失う。これは予感ではなく俺の直感だ」
「なら君が以前行った選択肢はどういったものだったんだい?」
「さっき言ったとおりだ。何もしなかった」
そう、何もしなかった。するべきことを放棄し、何も見なかった聞かなかった。
誰の命令なのかはわからない。誰からの警告なのかもわからない。だが、その正体すら考える気にならないほどの使命感がそこにあった。まるで自分はそのために生まれたかのように。
それに対し後者の警告は弱く、しかし暖かかった。寝ぼけて聞く話のようにおぼろげでありながら、そこには悠斗への愛情が感じられた。本当に自分の身を心配して言ってくれているのだという意志が感じられた。だからそちらを取った。
「命令の内容も覚えていない。いや、最初からわかっていなかった。まるで身体が勝手に知っているような感覚だ。自分のことなのに他人事のような気分だった」
そしてすべてが終わってから確信する。自分に命令する誰かは最初からあの結末を望んでいたのだと。
「誰だい、それは」
「それはまだわかっていない。考えようとすればかき消されるかのようにその意志がなくなってしまう。フレイ」
悠斗はそれまでにないほどまじめな顔でフレイを見据える。
「今日話したことをおまえは忘れてしまうかもしれない。きっと俺がこれから話すことは俺たちを操ろうとする何かの意志に反する行為だろう。そして俺の反抗はそれに対して微々たるものかもしれない。だが、この真実を持ち失わなかったことが俺の反抗の成果だと思っている」
「突然どうしたんだい。一体何の話を」
「たとえおまえが忘れさせられても、俺にとってただの自己満足でしかなくても、こうすることに意味があると思いおまえに話す」
「だから一体何を」
「俺は、バルドルを殺していない」
すべての音が、声が、世界から消えた。
ただ呆然と、今聞いた言葉が聞き間違いであると思って、しかし告白者の真摯な顔がそれを否定していて、何を信じればいい。だから呆然とするしかない。
「ロキ……君は、今何を言ったのかわかっているのか」
「わかっている」
その真実が神々が信じてきたすべてを否定することになっても。
悠斗は内心、ほっとしていた。いつかのように自分たちの会話はなかったことにされてしまうのではないかと危惧していたからだ。
悠斗は気づいていた。今まで自分たちに何度も干渉し、真実から遠ざけようとしていた何かの存在を。それに悟られず行動することは容易ではない。なぜならその何かはまるで天から自分たちを見下ろすかのように、すべてを監視している。そう、まるで神のように。
神が天から見下ろされるなどふざけた話だ。しかしどんなに否定しようともそれは確かに存在する。
今こうして行動できるのは彼らの背後にある木々。それを挟んで背を向け合うようにベンチに座っている彼の娘のおかげだ。本当ならこんな無茶はさせたくなかったのだが、それでもしなければならない。そして彼女も喜んで応じてくれた。
何を話しているのかは彼女は知らない。聞いている余裕もない。母より受け継いだ力、それをフルに活用し、何者かの目から悠斗達を隠しているのだから。
こうして何事もないということは成功しているのだろう。ヘルは何の事情も訊かず協力してくれた。その気持ちに応えるためにも、このチャンスを逃すわけにはいかない。
「フレイ、おまえ達神々が自分たちすら操る何かの意志の存在を認めたくないことは百も承知だ。しかし、事実は受け入れなければ先には進めない」
悠斗自身、あの出来事がなければここまで信じなかっただろう。いや、あの時さえ気のせいで済まされてしまいそうなほど、小さな疑心だった。
それがはっきりしてきたのはこの世界に来てから。その存在を強く感じるようになった。四六時中自分を監視する眼。異分子である自分をどうにかしたいという意志。初めてそれにはっきりと対抗する意志を持った。
これはその始まり。
「夢の中で歩くような、そんな感じだった」
希望の神・バルドル。大神オーディンの息子であり、すべての神々の希望。彼さえいればアースガルドは安泰。平和は永遠のものであると信じられていた。
しかしある日、運命の神ノルンが下した預言は残酷なものであった。バルドルの死である。
彼の母・フリッグは彼を死なせまいと、世界中のすべての生物・無生物に彼を傷つけないことを約束させた。これによりいかなる武器も彼を傷つけることはできなくなり、決して死なない神となった。
ただ一つ、若すぎて契約できなかったヤドリギを除いて。
これの存在を知ったロキは、皆に愛されたバルドルに嫉妬し、そのヤドリギを手に入れた。そして盲目の神ヘズにこれを投げさせた。
何者も傷つけることのできなかったバルドルをヤドリギは貫き、バルドルは死んでしまう。
これによりロキは神々から罰せられることとなる。
「命令に従わず家からも出なかったはずの俺は、夢の中でバルドルの前にいた。そしてヘズに彼を殺すためのヤドリギを手渡していた」
まるで他人事のようにその様子を見ていた。身体だけが彼の意志を置いて動いているような気分でもあった。
「そしてバルドルは死んだ。そのときのヤドリギを手に持った感触、ヘズに言った台詞、すべて覚えている。本当に自分がしたかのように」
目を覚ませばバルドルの死の知らせが飛んできた。自分はやっていない、そうは言えなかった。まるで無意識に彼を殺しに行ったかのように、記憶は鮮明だったのだから。本当に自分が殺していないと言い切ることができなかった。
だから一旦、姿を隠した。女の巨人族に化けた。
するとロキの正体を知らないフリッグからバルドルのために涙を流してくれと頼まれた。どうやら冥界へ行ったバルドルを生き返らせる条件としてヘルが出したのが「世界中のすべてが彼のために泣くこと」だったらしい。
だが――――、
「俺はバルドルが嫌いだった。死んでくれて喜ぶほどにな」
すべてに愛されることを約束された存在。それをひけらかしたわけではないが、彼の苦労も知らない精神はそれを知る者にとって憎いことこの上ない。恵まれた者は恵まれなかった者の苦しみを知らない。彼は愛されることしか知らなかった。
ロキにとってはただ存在するだけで愛される彼の存在は何よりも許し難いものだった。
嫉妬と言われてもかまわない。逆恨みだと言われてもかまわない。苦しみも何も知らず、知ろうとさえしないきれいすぎる神が嫌いだった。
「そんな俺が、バルドルのために泣けるはずがない」
結果はもちろん分かりきっていたこと。バルドルは蘇らなかった。神々はロキを非難し、彼の気持ちなどまったく理解しなかった。そしてロキ自身、あの不可解な出来事を誰にも相談できなかった。
「オオカミ少年と一緒だ。嘘つきは誰にも信じてもらえない。俺にはあの時血を分けた子供達以外、誰も味方がいなかった。そして信用できなかった」
そう、血よりも強い絆でつながれていたはずの義兄弟さえも。
フレイはしばし何も言うことができなかった。普段口が開けば次から次へと言葉を並べる彼でさえ、何も言えなくなるほど衝撃的な事実だったから。
もちろん信じる必要などない。自分たちを裏切った邪神を、欺瞞の神を信じる方がどうかしている。なのに、今フレイはそれを笑って一蹴することができない。
彼の見たことがないほどの真摯な眼が、信じてもらえないと思っても言わずにはいられなかった彼の行動が、それを嘘だと思わせなかった。
これは真実。数千年、いや一万年目にして語られた真実。
「笑いたければ笑っていいんだぞ」
最初から期待はしていない。しかし、
「笑わないよ。こんな場面で笑うほど僕は道化ではない」
意外な答えに今度は悠斗が驚かされる。
「おまえに笑う以外の顔があったことの方が驚きだ」
「ひどいなあ。これでもまじめな時はあるんだよ」
数千年に一回くらいなら。味方にはならないかもしれないが理解者にはなれる。秘密の共有者。
「ところで子供達や彼らには話していないのかい?」
「ああ、言ったところで心配させると思ってな」
もっとも父親を信仰している長男にはそれが逆効果となりそうだが。ところでなぜその話にあの人間の兄弟達まで入るのかがいささか疑問であるが…。
「他の神々にも話してみるかい?」
「いや、無駄だな。信じてもらえるわけがないし、証拠もない。言い逃れにしか聞こえないだろう」
「まあ、それもそうだね」
最初から信じるという選択肢がないのだから当然と言えば当然だ。
「オーディン様も?」
その名前を口にすれば怒るかと思ったが、意外にも悠斗は起こりもせず、むしろ考え込む始末だ。
本当にこの二人の関係は理解できない。黄昏以前から、彼らの関係は周囲に理解されないものだった。主神が巨人族を仲間に入れ、さらには義兄弟となった時、アースガルド中が震撼したものだ。
信頼しているのかそうでないのか。想いを通じ合っているのか嫌っているのか、まったく判断ができない。今も他の神々の意見も聞かず、報復もしない。そしてもう一人も恨み言一つ言わない。本当にどういう関係なのだろうか。
その答えは本人らだけが知ること。答えは神すらも知らず。
案外神というのは無能なのかもしれない。




