第21話 答え求める迷い人達
暗い夏がやって来る。厳しい冬がやって来る。
大いなる冬が世界を包み、二度と夏は訪れない。
寒さと飢えが大地を襲い、人々の屍が大地を覆い尽くす。
ヨトゥンヘイムで一羽、アースガルドで一羽、ニヴルヘイムで一羽、雄鳥が鳴く。
月と太陽は二匹の狼に飲み込まれ、星々は天から墜ちる。
咎人の呪縛は解き放たれ、黒狼は鎖を引きちぎる。
冥界より死者が船に乗り憎き神の地へ向かう。
角笛は一度きりの役目を果たすかのように、神々に世界の終焉を知らせる。
神の時代の終わり、それを“神々の黄昏”と呼ぶ。
始まりがどこにあったのか、歯車が狂ったのはいつなのか、それすら考える暇もない。 最初から予定された動きを取らない歯車がそのままでいられるはずがなかったのかもしれない。この平穏がつかの間とわかりつつも、その終わりを見ぬふりをしていた。
ならばこれは自分の愚かさが招いたことなのだろう。
両手に抱える宝物。これだけは失わないと誓ったのに。あの日の喪失感を忘れたこともなかったはずなのに。
しかし新たに抱えようとすれば腕の中の物はポロポロとこぼれていく。拾ってはこぼし、拾ってはこぼし。そんなことを何度繰り返したのだろう。
自分は優れているとおごっていたのかもしれない。抱える物が増えても抱えきれると、自惚れていたのかもしれない。
早く気付くべきだったのだ。どんなものにも終わりがあるということを。人であろうと神であろうと抱えられるものには限度があることを。そして一度失ったものは二度と戻ってこないのだということを。
旅行から帰って以来、悠斗は鏡を見るたびに考え込む。
実の様子は以前と何も変わらない。誰も頼んでいないのに遊びに来て、時に土産を持って平日休日関係なくやってくる。
忘れようとしているのに忘れられない。あの日の実の顔を。
そしてそれを思い出すたびに何かを忘れているような気分になる。それはきっと大切なこと。思い出せたなら何かが変わるのだろうか。
しかし思い出そうとするたびに頭が痛くなり思考を停止する。これに似た状態は神だった頃にもあった。
それは既視感に近かった。デジャブというものだろうか。
以前にも見たことがあるような光景。次にするべきことが台本に書かれているかのように進められる。その状況にどこか気持ちが悪くなり、やめようとしたこともあった。なのに周囲や自分の身体が自分の意思を裏切り動く。まるで糸に絡め取られた操り人形のように。
あの時の実の顔。いつも自分が見ている顔。なのにどこか別のところで見たことがあるような気がする。
「そんなはず、ない」
自分に言い聞かせるように悠斗は口に出した。
彼には血の繋がった兄弟もなく、両親もとうにいない。そして子ども達も父親である彼とはまったく違う顔だ。そして血の繋がりこそあれど、その関係を失った人間の兄弟。覚醒を始めた頃から遺伝子上の繋がりも無意味なものとなっていた。
もはやこの顔や身体は人間の両親から受け継いだものではない。この魂も肉体も既に大杉悠斗のものではない。
だから、彼と同じ顔の者など会ったことがないはずだ。
だが胸の内にくすぶる不快感は消えない。まるで悪い物でも食べたような気分だ。
「まだ俺を解放する気はないというのか」
誰が、とは言わない。それを呼ぶ固有名詞があるとすれば、それは
「何度でも抗ってやるさ。これ以上何も奪わせはしない」
聞いているかもわからない相手への宣戦布告。
その名は、運命。
ガシャーンと何かが割れる音が部屋に届いた。
その音が先ほど父の入っていった洗面所であることに気付き、フェンリルはすぐに向かおうとした。
しかしすぐに出てきた父の姿に足を止める。
「どうされたんですか」
息子がそう訊くのも当然だ。眼の前にいる父の右手からは血が出ている。何かを殴った跡だ。
「何でもない。すまん、散らかした。片付けておいてくれ。少し外に出て来る」
それだけ言って悠斗は血の出る拳をそのままに部屋を出て行った。すぐに玄関の重い戸が閉まる音がした。
フェンリルは納得できないが仕方がなく洗面所に向かう。そこには割れて役割を果たさなくなった鏡と、破片に紛れて点々と血がこぼれていた。それが誰のものなのかも、何があったのかもだいたい想像できる。しかしなぜ彼がそうしたのか、その理由がわからなかった。
おそらく彼は苛ついた末に鏡を殴った。そういうことなのだろう。しかしの苛つきの原因がまったくつかめなかった。
旅行から帰って以来、父の様子はおかしかった。
以前までの余裕のある態度とは打って変わり、時折思考に耽り、声をかけても気付かないことがある。ぼんやりとしているかと思えば、突然苛立ち厳しい顔になる。
あの旅行で何かあったのだろうか。フェンリルに思い当たることはない。直接訊いても見た。しかし父は「何でもない」と言うだけで何も教えてはくれなかった。
父が子ども達に隠し事をするようになったのはいつからだっただろう。
いや、する必要がなかった。自分達には言葉を交わさずとも通じる絆があったから。血だけは繋がっても絆はなかった正妻の息子達とは違う。たとえどんな時であっても互いを思い合い、その行動すべてが互いのためとなる。黄昏に染まるあの日までそうであった。そしてこれからもそうであると信じていた。たとえ人の身に姿を変えても、心は決して変わらない。大切なものは何一つ変わりはしない。自分達はいつであろうと父の宝であり、他の者に代わることはできない存在だと信じていた。
しかし人間界に来てから、正確には一度袂を別った兄弟と和解してから、悠斗はそれまで持たなかった感情を表していくようになった。それは決して自分には理解できず、父とどんどん離れていく気さえした。
悠斗は心配するなと言ってくれるが、それでもフェンリルの不安は消えなかった。
父に自分達以外の家族がいる。その状況が許せなかった。
父の考えていることが、悩みがわからなくなっていた。以前なら訊かずともわかったのに。自分の知る父でなくなってしまうのではないかとさえ思った。
父を変えたのは間違いなくあの兄弟なのだろう。血の繋がりなどほとんど意味を持たない。なのに自分達に似た絆を持つ。
この感情はなんだろうか。いなくなってしまえばいいとさえ思うこの感情は。
邪神の息子である自分がたかが人間に張り合おうとするなどあっていいはずがない。だからこの感情は気のせいでしかないはずだ。そう考えてきた。
しかし最近の父の様子を見ながらその感情が徐々にふくれあがり確固たるものへと変わろうとしている。
そんなとき父の言葉が蘇ってくる。
『フェンリル、お前は俺の自慢の息子だが、何も完璧である必要はない』
『お前がたとえそれをみっともないと思っても、それがお前の真実だ。それを受け入れられない方がもっとかっこうわるいことだ』
これが、真実なのだろうか。否定しようとしながらも、否定することが父の言葉を否定することに繋がる気がしてはっきりと答えが出せずにいた。
そこは誰も信仰しない神の地。忘れ去られ、ただ存在するだけの場所。
アースガルド。かつて繁栄を極めた神の地である。
人間界が切り離され、人にあがめ奉られるはずの神はその信仰者を失い、神という称号だけが呼ばれることのない名札のようにぶら下がっている。しかしそれでも神は存在する。たとえ人が何を思うとも、何を信じようとも、彼らは存在する。
ミーミルの泉、知識の泉とも呼ばれるその畔に広いつばの帽子を被った男が立っている。顔の半分を隠す帽子はなぜか、なくなった片眼を隠すためである。復活を遂げても片眼は戻ってこなかった。代償として支払われたものは得た報酬を返さない限り返ってこない。そして彼自身それを返す気はない。だから眼はそのままだ。
隻眼の男、彼こそが北欧神を統べる主神・オーディンである。
彼は今一人、泉の畔に立っている。そこには他の神々も彼が普段連れ歩いている二羽のカラスもいない。彼は一人でここに来た。
実はそこにはもう一人いた。いや、それは一人と数えて良いのだろうか。
なぜなら彼には物を掴む手がなければ歩くための足もない。それどこか心臓もない。ないものを挙げればキリがない。日本の有名な文学作品で耳をなくした男の話があるが、彼は耳こそあれど、首から下にあるはずのものが何もない。
もっとわかりやすく言おう。彼は首から上しかないのだ。頭だけだ。頭だけの男が泉にいる。正確には泉の中央にある大樹の根にからみつかれている。
彼はこの泉の唯一の住人・ミーミルである。
ミーミルはアース神族とヴァン神族の和平協定の際、ヴァン神族によって首を切られる。知識が豊富で賢かったミーミルが死ぬことを惜しんだオーディンによって首だけは助けられ、このミーミルの泉からオーディンに知恵を与える存在となった。
ミーミルは優れない顔の主神に言葉を与える。
「主よ、我らがアース神族の長たる方が、何故そのような浮かない顔をされるのか」
自分からは口を開かなかったオーディンも、長年の相談者の言葉に応えないわけがない。
「ミーミルよ、私はこれから何を成すべきなのか悩んでいる」
「神が迷えば人も迷う。主よ、あなたほどの者を悩ます状況とは我らを裏切りし邪神についてか」
やはり彼は今何が起こっているのか教えずともわかっている。知識の泉に浸かり続けた彼は知識の神をうわまるほどの知識を有している。
「そうだ、我が子や同志たちは彼を罰するべきだと彼の地へ飛び立とうとする。私が止めても聞きはしないだろう。いや、私は止めることも命ずることもしていない。ただ見ているだけだ。それは私がそれを正しいか正しくないかわからないからだ。ミーミルよ、お前にはその答えがわかるだろうか」
本来なら裏切り者を抹殺せよと命令を下すのは自分の役目だ。それは主神として当然のことだ。しかしそれは感情に動かされた行為ではないだろうか。戦いを繰り返し血を流すことは本当に正しいことなのだろうか。
ミーミルは答える。
「主よ、今邪神を殺そうとすることは感情に踊らされる愚の行為。これは罰ではなく復讐に過ぎず。そして憎しみは新たな憎しみを生む。これを繰り返すこと真の愚。世界を統べる者ならそれを断ち切ることこそ今すべきこと」
首は感情を表さない。ただ事実のみを語る。
「しかし彼の者を討たぬもあなたの感情より生まれし行動。かつての情に流され義務を怠ること、それも愚」
復讐に走ることも情に流され許すことも感情より生まれた愚の行為。なら正しきこととは?
「主よ、たとえ神であろうと心に動かされる者は必ず失敗を犯す。そしてどんな行為にも間違いが存在する。故にあなたが望む正解は存在しない」
「では私はどうすればいい?」
「我は首。生と死の間にあるもの。知恵の一部。しかし知恵はすべての答えをもつものにあらず。知識は素材でしかなく、すべての真理を導くのはそれを使いし者だけ」
長い間知恵の泉に使っていた彼はもはや自分自身が知恵の一部となっている。既に人格は失われ、ただ辞書のように知識を与える存在と化している。
「やはり、他人に頼ってはいけないということか。そうだな、最後に決めるのは私自身だ」
憎しみよりも悲しみがそこにあった。なぜ、と彼に問いかけた。最後に彼と交わした言葉となったそれは、答えられることはなかった。
今も自分はその答えを求めているのだろうか。
オーディンはぐるりと周囲を見渡す。
復活しても何一つ変わらなかった場所。そこはかつて彼と出会った場所でもあった。今は一人しかいない。
『おもしろいな、お前。神とはこうも強欲なものか』
片眼をミーミルの泉に捧げ知識を得た。七日七夜ユグドラシルに首を吊り死の世界に足を踏み入れたことによりルーン文字を得た。そんな自分をずっと見ていた者に気付いたのは、その声だった。
死んでまでさらなる力を手に入れようとした自分を面白そうに眺めていた。
本来なら警戒しなければならない巨人族の男。美しい容姿と何かを企むような不適な笑いが、なぜか嫌いではなかった。
『お前は力、俺は退屈を紛らわす為の娯楽。欲するものは違えど利害は一致している』
種族の確執もプライドも関係ないと、ただ何も縛られずに生きるその様が羨ましいとさえ思った。今までにないタイプの者だったというのもあっただろう。他の神々に非難されることをわかりつつも、彼を迎え入れた。
最後に傍にいるのは彼だと信じていた。
しかし今、神は一人。邪神は遠き地に。
友よ、我が義兄弟よ、今お前は何をしている。何を考えている。
もう一度会いたい。たとえ二度と修復できない関係だとしても、殺し合うだけの再会であっても。
あの日の答えを聞けるなら。
いよいよ核心へと向かいます。
第五章【黒狼が哭いた夜、彼の代わりに雨が泣いた】




