第17話 不安は湯気にかき消されて
白いワゴンカーが高速道路を走る。運転手は旅の発案者である豊饒神。同乗しているのは二十にも満たない未成年が七人。
それなりの広さをもつ車の中を占める割合は男女比率が六対二。人間・神・人外が四・二・三の割合となっている。
とりあえずこの車はレンタカーなのか自家用車なのかとか、運転免許をどうやって取ったのか、そもそも免許を持っているのかを問う者はいない。不毛だからだ。
とにかく神が二人と人間が四人、人外が三人で温泉へ向かっている。それだけわかればいい。わかる必要もない気がするが……。
元々発案者以外乗り気ではない旅だ。車内が最初から良好な雰囲気ではなかったのも当たり前。
しかし人間というものは適応力に優れているというか、単純というか、だんだん旅らしくなってくると、乗り気になってくるらしい。
何しろ保護者同伴でない旅行は初めてだ。鬼の居ぬ間に、ではなく親の居ぬ間にしたいことはたくさんある。そもそも旅行など一年に一度行ければ良い方だ。なんだかんだ言っても、旅行は嬉しいものだ。しかも旅費は発案者持ち。楽しまなければ損というものだろう。
旅費が一体どこから出てきているかとは誰も突っ込まない。それこそ神の御技ということにしておく。
トラブルもなく、止まることを忘れたかのように車は走り続ける。正確な行き先は聞いていないが、秘境というのだから山奥かどこかなのだろう。
今朝、予告通り現れたフレイに押し込まれるように車に乗りそれから既に三時間。途中に休憩を挟み昼食をとる。
目的地にはまだ到着しない。
他の車を追い抜き、追い越される様子をぼんやりと眺めていた悠斗の所へ、始が後ろの座席から乗り出して来た。
「おい、あの男は信用できるのか?」
これは北欧神達の仕掛けた罠ではないかと、始は疑っていた。
何しろこの数ヶ月足らずの間に出会った神々との三度の出会いは、どれも決して良い思い出にはならなかった。北欧神というだけで悠斗達の敵と言ってもかまわないくらい、彼らは暴力的で、敵意に満ちていた。
だから突然現れたこの陽気な男を信用できるかと言えば、できないと答える。
しかし悠斗の態度は意外にものんきなものだった。
「心配するな。こいつは元々神の使命だとかを重んじるタイプではないし、恨み言を延々と抱えるような陰険でもない。単純に現状を楽しむことだけを考えているだけだ」
第一この年中春のようなこの男に他人を騙し通すような演技ができるはずもないと、悠斗は言った。
それで良いのかと聞く始に、悠斗は良いんだと答える。
すると、よほど耳が良いのか、地獄耳なのか、運転席からフレイが会話に乗り出してきた。
「そんなに警戒しなくてもいいよ。トール達はずいぶんと彼のことを憎んでるみたいだけど、僕はあんまり人を恨むようなことはしないし、だいたい僕が死んだのはほとんど自業自得だったしね」
フレイの死に様は北欧神話に語られているものとそう変わりはないと悠斗も言っていた。にしても仮にも神がこんなにお気楽でいいのかと疑問視するところだ。
フレイは今まで会った神々とはまったく違ったタイプで、悠斗を見るなり殺気を表した連中とはずいぶんな違いだ。
人間界に来たのもほとんど観光のためではないかと思うほどだ。そしてその予想はおそらく当たっているのだろうと口にせずとも思っていた。
そんなフレイに警戒する必要もないと言わんばかりに、悠斗も気楽なものだ。この旅行も決して乗り気ではなかったが、本当に嫌なら相手を殺してでも拒否するだろう。それをしないのは、悠斗なりの理由があるのかもしれない。
「ほらほら、せっかくの旅行なんだから深く考え込まない。もっと気楽に楽しいことだけ考えればいいよ。君達の言葉でもあるじゃないか。友は道連れ旅は情けって」
「「…?」」
その場にいた人間全員の頭の上にクエスチョンマークが出た。
「フレイ……それを言うなら旅は道連れ世は情けだ」
「あれ? おかしいな」
微妙に間違っている。
「無駄に中途半端な知識を披露しようとするのがお前の欠点だ」
ついでに使い方も微妙に違う。
「まあ、気にしない気にしない。とにかく楽しめればいいのさ」
誰か、この男の口を縫い止めてはくれないだろうか。
とにかく車は行く。まだ見ぬ温泉へ。
目的地に到着したのは一同が出発してから五時間ほど経った頃だ。
コンビニすら見あたらない田舎景色、そのさらに山の中に温泉はあった。
このような秘境に来る人間は少ないのか、悠斗達以外に客は見えなかった。フレイの話だと、ここはそれなりに歴史ある民家を民宿にしたのもで、建物自体も既に百年以上前に建てられたものらしい。泊まれる客の数も限られており、完全予約制の宿だということだ。
元々はそれなりの資産家が別荘として買い取ったものらしく、温泉もその時掘られたそうだ。
「まあまあ、こんな遠いところまでよく来て下さりました。どうぞゆっくしていってくださいね」
宿を経営する老夫婦に暖かく迎えられ、一同はそれぞれの部屋に入った。
民家を元にしているだけあって、宿全体が旅館と言うよりも田舎の家に泊まりに来たような雰囲気に満ちている。
都会ではなかなか味わうことができない雰囲気に、長旅の疲れを癒された。
「あ〜気持ちいい。来て良かった」
畳の上をゴロゴロと寝転がりながら、実は満足そうに言った。
窓の外には日本らしさを表す庭が広がり、夕日と共にねぐらへ帰る鳥たちの鳴き声が聞こえる。
「まあ、確かに良い宿ではあるな」
荷物の整理をしながら始も同意した。
二人とフレイがいる部屋の隣では襖をはさんで悠斗とその息子フェンリル、ミドガルズオルムがいた。まあ、部屋割りに文句は言えない。一つの部屋に三人寝るのがやっとだ。そしてフェンリルはやたら父以外の北欧神を嫌っている。
ちなみに壁をはさんだ隣の部屋には桜とヘルがいる。父や兄達と別れることに不満を表していたヘルだったが、寝るとき以外は一緒にいたらいいと父に説得され、現在に至っている。
今は皆、荷物を整理して各々くつろいでいるところだ。
「じゃあ、せっかくだし温泉に入ってくるか」
荷物を整理し終えた始は、浴衣とタオルを実に手渡す。
「うん。悠斗達は?」
「入らなきゃ何しに来たことになるんだ?」
温泉に来て温泉に入らなければ意味がない。
「悠斗ー。温泉に行こう!」
襖越しに声を掛けるが、向こう側からは誰の返事もない。それどころか人の気配すらない。
「…あれ?」
「あちらの三人ならとっくの昔に部屋を出たよ」
自身の浴衣とタオル――始は用意してくれなかった――を手に抱え、そう言い残してフレイもさっさと部屋を出て行った。
「いつのまに…」
道理で静かだと思った。先に温泉へ向かったのだろうか?
結局三人で温泉に向かう。
小さい旅館でありながら、ここには二つの温泉がある。一つは数人が入れる露天風呂――といっても四・五人が入れる程度のもの。もう一つは一人か二人が入れるくらいの大きさの屋内小浴場。何でもここを別荘として使っていた資産家の妻が、二つの風呂を使い分けて入っていたらしい。
悠斗の気に入ったところはそこで、娘のことを考えると他人と一緒に入れるわけにはいかなかった。しかしせっかく来たのだから温泉を味わってもらいたい。そんな中、今回の温泉は都合が良かったのだ。
屋内小浴場をヘルに使わせ、悠斗達は露天風呂に向かう。もちろん実達は放っておいてだ。
屋外に設置された露天風呂は雨の日でも入れるように屋根が設置されている。
風呂にゆっくりと入る習慣を持つのは日本人くらいだというが、そう悪くないと悠斗は思っている。
今にも泳ぎそうなところを兄にたしなめられ大人しくしている次男と、それを見張る長男。家族みんなで旅行なんて神だった頃には考えられない光景だ。
神は一々旅行なんて行かない。それにまだ彼女が生きていた頃は、彼らを神々の目の届く場所には連れて行けなかった。そして家族が引き離された後は、彼らはそこから動くことさえできなくなった。
「たまには、こういうのも悪くないな」
神々から追われる立場となってからは、日常に緊張がついて回るようになった。どんなに余裕を見せていても、心のどこかが警戒していた。
だから、今回のような旅行は良い息抜きとなったかもしれない。感謝するつもりはないが、まあそれなりの礼をあの豊穣神にしてやってもいいかもしれない。
「父上、良いのですか?」
温泉気分を味わっていた悠斗に、息子が訪ねた。
「何がだ?」
「あの兄弟のことです。無理矢理にでも離れた方が良かったのでは?」
「今更だ。たいしたデメリットにもならない」
「しかし、足手まといになる可能性があります」
この間のように、と不安げに見える長男に、悠斗は正面から向き合った。
「そう心配しなくてもいい。その時は俺が責任を取る」
「なぜそんなにあの人間達にこだわるのですか? 父上らしくもない」
そう、以前の彼なら不利益になるものは切って捨てていた。家族以外に誰かを守ろうなどとしたことはなかった。この人間界に来てから変化しつつある父に、フェンリルは不安を覚えていた。
「フェンリル、お前が心配することではない。俺はそこまで弱くない」
「ですが」
「フェンリル」
さらに言おうとする息子の言葉を悠斗は遮った。
「俺にもまだわからないことがある。わからないまま途中で放り投げては永遠にわからないままだ」
いまだに心に残る空白。それを埋めるものは見つからず、また存在しないと考えている。しかし今あの頃にはなくて、今はある何かが空白の痛みを和らげている。それを何と呼ぶのかはわからない。
だが、それを決して煩わしいと思うことはなかった。
「もう少し待ってくれ。俺自身、まだ答えが出ていないんだ」
それしか言うことができなかった。そしてそう言われてしまえばこの忠実な息子は反論することはないということもわかっている。
ずるいと言われるかもしれない。だが、今はその忠誠心に甘えてしまうしかなかった。人間界に来てから自分が自分で思っていた以上に不器用で万能ではないことに気付かされた。
だから気付かなかったのだ。あの頃も、そして今も。迫り来る未来に待ち受ける悲劇に。
「わかりました…。父上がそう言うのなら」
思った通りフェンリルはそれ以上追求しなかった。
それは彼自身が気付いていない感情をさらに大きくするものだということに、二人は気付いていない。
そしてそれが引き起こすさらなる悲劇にも、この親子は気付いていない。
「あー! やっぱりいた」
遅れてやってきた実達が、先に行ってしまった悠斗達に薄情だと文句を言う。ミドガルズオルムは兄の目を逃れ、いつの間にか温泉での水泳を楽しんでいる。
弟を叱る兄の声が降ったのはその後すぐ。
まだ彼らは安らぎの時間に浸っていた。




