第16話 カミサマの退屈処方
「やあ、こんにちは」
そう彼は笑顔で言った。
彼に向かい合って座る悠斗はいつもと変わらず何事もないかのように珈琲を飲んでいる。邪神の長男はその後ろでやはり無表情のまま立っており、妹はその後ろに隠れるようにして顔だけを覗かせている。次男に至っては部屋にすら入らずリビングの扉から様子を窺っている。
その光景を見回し、実は固まり始はため息を吐いた。笑顔で迎えるその客人が、普通の人間であるはずがない。人間離れした美貌と日本人にはありえない髪や目の色。そしてその顔は以前に会った誰かに似ている。
何よりこの家に普通の人間がやって来るはずもない。
なぜこんな状況となっているのか、誰も説明しないだろうが、話は二時間ほど前に戻る。
学園祭が終わると学校はその後に待ち受けるテストを前にうなだれる顔を上げることはできない。楽しかった祭やその準備が夢に現れてはシャボン玉のようにはじけて消えた。これでテンションの高い人間がいたら見てみたい。とにかく、祭の後には燃えかすが残るだけだ。
しかしそんな気分を味わっているのは学生だけで、それ以外の人間にとってはいつも通りの日常が目の前に存在する。大杉悠斗にとっての日常とは他人から見ればうらやましい限りで、いわば食っては寝、食っては寝を繰り返す日々だ。もちろん彼には常に命の危険にさらされているという事情もあるわけだが、そんなこと、一般人には関係ない。最も悠斗から言わせれば戸籍上死んでいる人間がどうやって学校や働きに行けるのだということだ。そういえば神様のお仕事って何だ。
一般人から見れば常と変わらない日常。悠斗にとっては緊張感が解けたつかの間の休息期間だ。先日の事件が嘘のような平和だ。
一般人から見ればうらやましい限りだが、悠斗にとっては退屈な時間でしかない。昔から退屈を嫌っていた。昔の自分からすれば数日なんて一瞬のことのように感じられた。とにかく神という者があまり余るほど持っているものが時間だ。時の呪縛にほとんど囚われない彼らは、その余った時間に何をしていたのか。悠斗からすれば不毛な時間消費にしか見えなかった。もちろん彼らは自分の役目を果たし、人間界を始めとする世界の統治や、巨人族との戦いを使命として行っていた。
しかし悠斗にとって時間の使い方はいかに退屈しないかだ。他人が慌てふためく姿は何度見ても飽きないものだ。時にそれが自分の身の危険に繋がることもあったが、遊びに危険はつきものだ。またそのスリルを味わうのも悪くない。他人も自分自身さえも、彼にとっては遊びの駒だ。そもそも神となったのだって退屈だったからだ。巨人族の中で過ごした退屈な時間。既に考えられる退屈しのぎはほとんど飽きた。強大な力も権力も彼の退屈を紛らわすことはない。そんなときに見つけた新しい遊び。こいつと一緒なら退屈しないと思った。だから神になった。
きっと退屈を感じていたのは自分だけではないのだろう。今、目の前にいる男もそうだ。
「しかし人間界は楽しいね。僕たちの百分の一も生きないのにこんなに娯楽を開発できるなんてすごいね」
「時間の感じ方が違うからだろ。人間からすれば数十年は充分長い」
する必要もない説明をするのは退屈だからだろう。
「いろんな所に行ったよ。ここ日本はもちろん、アメリカ、中国、フランス、イギリス、イタリア、インド、ロシア、ブラジル――」
「お前の観光記録を聞くために会ってるわけではないんだがな」
もっとも、よっぽど暇だから話を聞いているのだが。暇でなければとっくに帰っているところだ。
しかし相手は聞いてやいない。
「だけどやっぱり日本が一番楽しいね。ご飯はおいしいし。東京タワーにものぼったし、大阪でたこ焼きやお好み焼きも食べた。沖縄のひめゆりの塔や北海道のキタキツネ牧場にも行った。UFJやディズニーランドにも遊びに行った。でもやっぱり本場の方が良かったなぁ。お決まりの奈良・京都は見るものが多くて一日では見きれないね。金閣寺や清水寺はもちろん、東大寺はすばらしかったね。あと新撰組や義経ゆかりの場所も廻ったよ。明石海峡大橋から渦を見たり、神戸の中華街も行った。
他にもカラオケや遊園地、動物園、テーマパークにもいろいろ行った。京都の漫画ミュージアムにも行った。それに圧巻だったのは秋葉原だね。メイドや執事が迎えてくれる喫茶店があってね」
「いい加減にしないとそのよくしゃべる舌を抜いて犬のえさにするぞ」
ピタリとおしゃべりが止まった。
「これが世を統べる神の一人だなんて誰も想像しないだろうな」
これ呼ばわれした男は止まった口をもう一度動かし始めた。
「君だって元はそうだろ。それにせっかくの人間界を満喫しなければ来た意味がないじゃないか」
「お前は秋葉原に行きたいがために人間界に来たのか?」
「それもある」
それもあるのか……。
「だけど今特別忙しくもないんだよ。オーディン様は何も命令しないで君のこともほったらかしだ」
「…オーディンが?」
悠斗はこの日初めて男の話に真剣さを感じた。
「そう、先日のトールや僕の妹も、君の奥方だって自分の意志で君の所に行ったんだ。そしてそれをとがめることも何もしないんだ。ヘイムダルあたりが君に報復なりするべきだと言ってるがそれにも答えない。何を考えておられるのかさっぱりわからないよ」
それは悠斗自身も驚いた。確かに今までに来た神々は皆ロキに何らかの私情が交じった念を抱いていた。しかし妻はともかく、先の二人まで命令を受けてやってきたのではないということに驚きを隠せなかった。
なぜ、彼は自分を罰そうとしない?
悠斗の脳裏に初めて彼と出会った日の光景が横切った。
『おもしろいな、お前。神とはこうも強欲なものか』
『そなたは何を欲する? 名も知らぬ巨人族よ』
『お前は力、俺は退屈を紛らわす為の娯楽。欲するものは違えど利害は一致している』『そなたの名は?』
『俺は―――』
ユグドラシルの樹の下で行われた邂逅。自分の眼を対価に、そして死の淵に立ってまで力と知識を得た彼を、滑稽と思いながらも声をかけずにはいられなかった。
彼の傍にいればこの退屈な時間を終わりにしてくれるのではないかと直感した。今思えばそれが正しかったのかはわからない。後悔しているのかと訊かれたら、しているのかもしれないと答えるだろう。彼に会わなければ彼女を失うことはなかった。神に命を狙われる日々もなかったかもしれない。しかしあの出会いは偶然だったとも思えない。必然だったと今も昔も思えるのだ。
それがたとえ何かの意志であったとしても、その頃はかまわないと思えただろう。
何かの―――
《――忘れろ――》
「そう、先日のトールや僕の妹も、君の奥方だって自分の意志で君の所に行ったんだ。そしてそれをとがめることも何もしないんだ。ヘイムダルあたりが君に報復なりするべきだと言ってるがそれにも答えない。何を考えておられるのかさっぱりわからないよ」
「それでお前は暇をもてあまして観光か?」
一部に観光ではないものも混ざっているが。
「まあ、せっかくできた時間は有意義に使わなくてはね」
メイド喫茶で過ごす時間が有意義なのかは知らないが、とりあえず暇つぶしをすることには同感する悠斗だった。
かなり本心は嫌がってるが。
「ところで」
話を変える。
「今日、君のお宅にお邪魔してもいいかな? 話したいことがあるんだ。君だけでなく、君のご家族にも」
以上、回想終わり。
「それで、いったい何のようだ?」
始はこの神が嫌いらしい。というより北欧神全体に良い印象を持っていない。当然と言えば当然であるが。
「やだなあ、まずは挨拶でしょう。君たちと会うのは初めてなんだし」
「あんたの名前はだいたい想像がつくし、俺達の名前を教える義務も必要性もない」
かなり辛辣な言い方だ。
「僕はフレイ。この間君たちが会ったフレイヤの兄。豊饒を司る神です。妹がいろいろご迷惑をおかけして申し訳ない」
やはり他人の話など聞いちゃいない。
「……他人の都合を考えないところは妹そっくりですね」
「ああ、妹は美人だったろう? 妹に似ているのなら僕も美人ということかな」
毒舌も効いてやいない。
「それを言うなら妹に似ているのではなくて、妹が似ていると言うべきではないのか?」 悠斗のつっこみどころもおかしい。
「やだなあ、双子なんだからどっちでもいいんだよ」
もう帰りたい、心底そう思った始達だった。
「それで話とは何だ?」
悠斗がようやく本題を口に出す。というか話してさっさと帰れと言っている。
「ああ、そうだった。実は妹が迷惑をかけたお詫びがしたくてね」
「あの女の首を差し出してくれるのか?」
それ以外では許さないという意味だろうか。
「さすがにそれは無理だよ。お詫びはこれ」
そう言ってフレイが差し出したのは旅行券と観光ガイドブック。差し出す物もどこか妹に似ている。だからそこから嫌な感じがするのは仕方がないことだ。
「これは……?」
「旅行券」
それは見たらわかる。
「知る人ぞ知る秘境。温泉にご招待」
なぜ温泉? というかカミサマってどうやって金を手に入れているんだ?
様々なつっこみが一同の中に飛び出したが、実際につっこむ者はいなかった。しても無駄だとわかっているからだ。
「そういうわけで出発は明後日。連休だしちょうどいいだろ? 足は用意してあるし、費用もすべてこちら持ちだから心配しなくて良いよ」
すでに決定事項か。
「というわけで、ぶらり温泉ツアーへレッツゴー!」
どこで日本文化を覚えてきたんだこの男は。
そしてやはりそれをつっこむ者はいない。
とりあえず一同はぶらり温泉ツアーへ。ただし殺人事件も恋愛ドラマも起こらない。
しばらくシリアス続きだったのに対し、しばらくはのんびりとした雰囲気でいきたいと思います。
またこれが終わったらシリアス続きとなるでしょうが。
第四章 【短き平穏に身をゆだね】
開始です。




