第15話 愛なき世界より愛を込めて
どうして夫婦になったのかなんて覚えてはいない。気づいたらそうだった。そうなるべくしてなっていたのだ。それが誰かの意志であろうと俺には関係なかった。『夫婦』という名のレッテルを貼られた二人がそこにいた。ただそれだけだ。
ロキは神となってからも巨人族の国・ウトガルドへと通っていた。そもそも彼は巨人族を両親に持つ異端の神だった。彼はその頃から一人の女性と心を通わし合い、神となってからも会いに行った。それはシギュンという妻を持ってからも変わりなかった。
彼にとって『妻』は愛情によって築かれた関係ではなかったし、たとえ子供ができてもその関係に変化があることはなかった。常に暖かくも冷たくもない鎖が二人を結びつけていた。それは相手も同じだと思っていた。だが、違った―――。
鏡のように磨かれた大理石の床を、汚すのもかまわずロキは歩いていた。カツカツとブーツは彼の心境を語るように荒々しい音を立てていた。歩くよりも速く、しかし走らず怒りをその背に背負い、ロキは止められるのも聞かず廊下を進む。
彼がここにいることは間違ったことではない。神の一人であり主神の義兄弟である彼がこの宮殿に足を踏み入れることは許される行為だ。しかしこの日は違った。突然の思いも寄らない彼の来訪に宮殿の使用人達は慌て、入られては困るが止めることができない有様だった。ロキはそんな使用人達に目も向けず、ただ一つの目的地へ進んでいた。
ドン!
重厚な扉が一気に音を立てて開かれた。
中にいた者達は突然の来訪者に驚き、ただ一人だけがその中で平静を保っていた。そんな彼らなど眼中にも留めず、ロキは部屋の中央へと向かう。
人がゆうに数十人入れるほど広いその部屋で、神々に囲まれているのは黒い獣だった。鎖に繋がれた獣は彼の姿を見つけると、それまでの興奮を消し去り、しかし申し訳なさそうな瞳をした。
ロキはそんな獣を優しく撫で、その呪縛である鎖を引きちぎろうとした。しかし鎖は細く脆そうに見えるにも拘わらず、まったくちぎれる気配を見せない。ロキはすぐにこの鎖がただの鎖ではないことに気づいた。そしてこの場でそれを何とかすることもできないのもわかった。
「どういうつもりだ」
今まで獣の方しか見なかった彼が、ようやく周囲へと声を掛けた。いや、正確にはこの場でただ一人平静を保つ、この宮殿の主にだ。
声を掛けられた人物はやはり落ち着いた調子で答えた。
「見ての通りだ。そなたの息子を捕縛した。他の子達もそれぞれ別の場所へと捨てた。その息子もこれからニヴルヘイムへ送るつもりだ」
「答えになっていない。俺はなぜこんな事をするのかと訊いたんだ」
ピリピリとした空気がその場に張り詰めていた。それを見守る神々は、その空気がいつ破裂しまいかとおびえていた。それでも彼だけは静かだった。
「貴方の息子が将来オーディン様を殺すとノルンが予言しました」
周囲にいた神の一人、ヘイムダルが代わりに答えた。
ノルンとは人や神の運命を司る三人の女神である。長女ウルズは過去と運命を、次女ヴェルザンディーは現在と必然を、そして三女スクルドは未来と存在を司る。
彼女たちの予言は絶対であり、それは神に対しても同様である。
「だからといって父親である俺に何も言わずにか? 主神ともあろうものが殺されるのが恐くて礼儀を守る暇もないくらい動揺しているのか」
それでも彼は黙って義兄弟の辛辣な言葉を聞いていた。また代わりにヘイムダルが言った。
「言ったところで貴方がおとなしく息子を渡すわけないでしょう。それよりもロキ、貴方が巨人族と繋がりがあることに問題があるのです」
確かにヘイムダルの言うとおりだ。神ともあろう者が、巨人族との間に子供をもうけるなどあってはならないことだ。神々への裏切り行為だ。
だからこそロキは今まで彼女との関係を誰にも明かさなかった。言えば子供達は捕縛され、彼女もどうなるかわからないからだ。しかし彼が明かさないうちに事はいつの間にか進んでしまっていた。
「貴方にも何らかの罰が必要です。それともこの場で息子を殺すことができますか?」
できるはずがなかった。そんなこと自分が死ぬよりも辛い。
何も言い返せなくなったロキをたたみかけようとするヘイムダルを止める者がいた。
「ヘイムダル、そのへんにしておけ」
主にそう言われればどうしようもない。ヘイムダルはおとなしく引き下がった。
ようやくロキとの対話を始めるこの人物こそ、アース神を統括する主神・オーディンである。
「我が義兄弟、そなたの子らを黙って連れ去ったこと、またそなたと関係を持つ巨人族の女を傷つけたことはわびよう。しかし私がそなたの息子に殺されるのを避けるのも、またそなたの息子に神殺しの罪を背負わさずに済むのもこの方法しかなかった」
「結局死ぬのが怖いか。それが運命ならそれに身を任せるのがお前達神のやり方じゃなかったのか?」
運命にあらがうのは川の流れに逆らうようなもの。あらがえばそれだけその身は傷つき、先へすら進まなくなる。ならば自分が上流でせき止める岩となろう。汚れた水を濾過するように流れてくる石や流木は自分がその身で受け止めよう。そして川下にいる仲間達に穏やかな流れを与えよう。
そう言っていたのはお前だろう。ならばここで死という名の流木を身に受けるのは当然ではないか。その流木を胸に刺し、それでもなお不幸をせき止める岩となればいい。俺はそれを岸から眺め、気が向いたときにお前のために花を添えよう。そうあの時言ったはずだ。
しかしお前はもうそんな花では満足できないのか。川下で他の者と同様幸せの海に浸かりたいのか。そのために俺や俺の子供達を代わりの岩とするつもりなのか。
しかしそんな叫びの前で、あの時と変わらない姿で義兄弟は言った。
「予言とは未来のためにあるものだ。より良い未来を手にするため今を動かす。私が死んでは巨人族が好機とばかりにこの地へ攻め入り、世界は破滅へと向かうだろう」
「そんな大義名分が通じると思っているのか」
「そなたには通じまい。しかしこれは神々全ての同意の下に行われたことだ」
そう言われればロキは黙るしかない。生まれはどうであれ、今彼はアース神の一人である。ロキは決して他人の都合のために自分の意志を曲げたりはしない男だが、今ここで神々すべてを敵に回すのが得策ではないこともわかる頭の優れた者でもあった。もしここで自分がこれ以上神々に敵意を抱かせれば、自分だけではなく子供達の命もないだろう。彼の力が強大なものであっても、自分一人で神々に勝てるはずもない。結局ここは彼に従うしかないのだ。
握りしめられた拳がぶるぶる震え、掌に刺さった爪が皮膚を突き破り血が流れていた。「そなたが巨人族と関係を持っていたことは罪に問うまい。すでに子と引き離されたそなたに罰は必要なかろう」
そう言ってオーディンは義兄弟の脇をすり抜け、部屋を出て行った。他の神々もどこか不満げではあったが、しかしそれに黙って従い部屋を出た。
息子と二人部屋に残されたロキは、心配する息子の顔すら見ることができず、怒りと憎しみ、そして自分の無力さを呪う気持ちで心がいっぱいだった。
そんな彼の後ろに彼女が立ったのはどれだけの時間が経ってからだっただろうか。もしかしたらほとんど時間など経っていなかったのかもしれない。しかしロキにはそんなことを考える心の隙間さえなかった。
彼を労るように近づいた彼女の顔を見たとき、ロキは悟った。この事態の立役者の正体に。
今までロキと巨人族の関係に気付く者はいなかった。スパイではないかと当初は疑われもしたが、それでも巨人族との間に子供を設けていることは誰も知るはずはなかった。ならばなぜこのような事態となったのか。
ロキの度重なるウトガルドへの遠出、真に愛する女性の存在、その彼女との間にできた愛しい子供達。その存在に気付きえる者がただ一人いる。長年彼に付き添い、彼の行き先も言わぬ旅の出発を見送ってきた一人の女性。夫婦という名の関係にある者。彼女なら気付いてもおかしくはない。
そして同時に気付くのは彼女の中にあり彼にはない想い。それは愛、そして嫉妬。ロキには他人の心を読むような力はないが、そんなものなくとも彼を見る彼女の顔がすべてを物語っていた。
そんな彼女を見たロキの中に生まれたのは憎悪、そして何ものにも勝る哀れみ。
それは彼が神々に捕らえられ、鎖に繋がれた彼を世話する間も変わらぬもの。
二人の絆は『夫婦』というもの以外に確かに強い鎖で縛られた。愛と憎悪の鎖。
それが今、断ち切られようとしていた。
「以上だ。つまらない話だろう」
今、大杉悠斗が語り終える。しかし誰も口を開かない。
ようはそういうことだ。夫の愛人に嫉妬した妻がその愛人を陥れるために神々に密告した。ただそれだけだ。人の間にも行われるつまらない愛憎模様。ようはそれだけの話だ。今時フィクションでもノンフィクションでも語り尽くされた題材。
しかしこの二人にとってはそれだけのことでは済まなかった。こうして殺し合いに発展するまでの愛憎。
だが悠斗の心は冷めていた。かつて心を支配した憎しみは姿を消し、残ったのは哀れみ。
悠斗は自分の足下でうなだれているかつての妻に言った。
「シギュン、俺はなぜお前が俺を愛したのかすらわからない。そして今お前に憎しみすらない」
それまでうつむいていたシギュンが、初めて顔を上げた。それは驚いているような顔で。
「どうして? 私はあなたの愛する女を殺したのに」
「ならば俺も訊こう。なぜ彼女を殺した? 彼女がいなくなったところで俺がお前を愛するわけないだろ」
それはこの長い年月、考えてきたこと。その答えがようやく出される。
「わかっていたわ。あの女がいなくなったところであなたは私を愛してはくれない。それでも私はあなたと繋がっていたかった。形だけではなく、特別なつながりを持っていたかった。あなたのそばにいるのが私でありたかった」
そのためなら憎まれても構わない。殺されても、殺してもかまわない。彼の隣に立つのは自分でありたい。常に自分のことを思っていてほしい。たとえそれが憎しみであってもかまわない。
ロキには、悠斗には理解できない感情だった。決して報われない想いを抱くことの無意味さ、そして自分を愛した故の哀れみ。今更彼女が自分を愛した理由など知る気もない。ただ愛した故の結末。それ以上を欲してしまったが故の破滅。
ならば、今こそこの愛憎劇に閉幕の鐘を鳴らす時。
「シギュン」
ただ一言、悠斗は妻の名を呼んだ。おそらくこれが最後となることを知っていて。
「お前が俺にとって忠実な妻であったこと、そして俺が捕縛された時俺のそばにあり続けたこと、それには感謝している。たとえそれすらもお前の意図したことだとしてもだ」
悠斗は知っていた。彼が捕縛された時、それを止めようともしなかったのは彼のそばにあり続けるという願いを叶えるためだと。そのために何も知らない息子が殺されるのも承知していたことも。ただ夫のそばにあり続けるという願いのために彼女がどれだけの犠牲を払ったかなどわかりはしない。それでもこれ以上彼女を責めることはしない。
「シギュン、俺がお前を愛することはない。そして罰しもしない。強いて言うならこれが俺の罰だ。俺はもうお前に何の感情も持たない。お前の願いが叶うことは永久にない」
呆然とする妻であった女の横を通り過ぎ、屋上を後にする悠斗。彼はただ一言、妻であった女にすべての終わりを告げる。
「さらばだシギュン。我が忠実な妻よ」
最後に過去形で言わなかったのは彼女への最初で最後の配慮かもしれない。
階段を下りていく悠斗に続き実達もその場を後にする。後ろから聞こえたのがシギュンの鳴き声なのか、それとも風の音だったのかはわからない。
こうして愛憎劇は幕を下ろす。拍手も歓声もない劇は静かに終わりを告げた・・・。
「どうしたの、お父様?」
家に帰った悠斗はほとんど口を開かなかった。そんな父を心配し、娘が近寄る。
「何でもないよ」
ヘルにはシギュンのことを話さなかった。今更母の死の真相など知らせたところで彼女の心を傷つけるだけだ。
心配する娘の頭を優しくなでる。その髪には今日学園祭で買ってきた手製の髪飾りがあった。
「それよりもお茶が飲みたいな。入れてくれるか?」
そう悠斗が言うとヘルはまかせてと台所に姿を消した。
ヘルが台所に向かうのを見送ると、悠斗は彼の向かい側のソファに座る息子に向かい合った。
「不満か、フェンリル」
「父上が決めたことなら従います。しかしなぜあの女を殺さなかったのですか?」
自分たちを引き離し、母の死ぬ原因を作った女。母は神々に連れ去られそうになった自分たちを助けようとし傷つけられ、その傷が元で亡くなった。本来なら決して許されざる存在だ。なのに父は殺さなかった。
「俺も不思議だな。なぜ殺さなかったのか」
ふむとあごに手を添え、悠斗は言った。
「人は時間が経てば変わるものだというが、俺も変わったのか」
神であった頃には考えもつかないことだ。もし自分たちが最初から人であったのなら、あのような形で分かたれることはなかったかもしれないと、悠斗はもう二度と会わぬであろう妻と、何千年経とうとも忘れることはない義兄弟を思った。しかし所詮は夢物語。自分がこのようなことを考えることもおかしい。
ただ今はしばし昔の夢を見よう。二度と見ることはないであろう夢を心に刻みつける。 狼と化したナルヴィが悲しみの咆哮を響かせたあの日から、二人で見た世界の終わりまでの日々を。
第3章【舞台の上で子供じみた愛憎劇を演じる】終了です。
ようやくこの話が書けたかと自分に感心しています。




