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第14話  断頭台のサロメ




 それは舞台の上で演じる劇のようなものだったと悠斗は思う。

 役者は役にはまると自分が見えなくなると言うが、自分たちの"劇"に感情なんてなかったと思う。ただ形だけがそこにあり、愛をささやく時間も、互いのぬくもりを求め合うこともなかった。

 ただそれでも自分たちは夫婦だった。それだけが事実。その事実だけが収まる場もないままふわふわと漂っていた。

 自分にとってはそれだけだった。そこに不満も不幸もないまま変わらぬ日々を送っていた。

 あの時までは―――。





 悠斗は腕の中の存在に対し、何の感情もなかった。燃えるような熱さも、凍てつくような冷たさもそこにはなかった。

 自分よりも小さく細い身体。柔らかく暖かなそれは確かに腕の中にある。しかし名にも感じない。自分が驚くほど何も感じなかったのだ。

 このまま放っておいてもいいのかもしれない。そんな考えが悠斗の中によぎった。しかし幕はいつか下ろさなければならない。観客もいない、役者だけが棒読みのセリフを並べるだけの劇だとしても、この劇は終わりにしなければならない。

 もうとうに終わっていたのだ。あの時、存在するだけだった夫婦の絆は切られたのだ。彼女自身によって。ならば終わらせるのは自分の役目だろう。カーテンコールすらない最終章。それは始まりと同じく、誰にも気付かれないまま終えるのだろう。

 ただ自分にできるのは一つだけ。閉幕のベルを鳴らすだけだ。



 秋の初めを告げる夕暮れの冷えた風が二人の髪を揺らしていた。夕日に照らされる二人の影は重なり合い一つとなって屋上の端まで伸びていた。

 抱き合う姿はまるで愛し合う恋人が互いのぬくもりで暖め合っているように見えるが、二人の心は決して温まっていない。その心の中にあるのは懐かしさと憎悪、そして一方には愛情、もう一方には虚無が広がっていた。

「どうした?」

 相手の髪に顔を埋めながら悠斗は言った。

「何もしないのか?」

 相手の女性は彼の背にまわした己の手を彼の背に食い込ませた。それでも悠斗には痛みもなかった。

 彼女は何も言わない。

「早くしたらどうだ」

 悠斗の声は秋の風よりも冷たく彼女の耳に響いた。手が一瞬震えた。それでも彼女は何もしない。背にまわされた銀色に光るナイフは行き場もなく夕日を映していた。

「じゃないと・・・」

 彼女の背にまわっていた悠斗の手が内側にまわされた。

「俺が殺してしまうよ」

 その言葉が彼女の耳に届いたときには、その背には夕日より紅い花が咲いていた。花の中央に紅く染まった手を生やして・・・。






 実達の目に飛び込んできたのは夕日を背にした一つの影だった。いや、重なり合って一つとなった影だった。

 抱き合う影の向こう側に彼等の探し人はいた。そしてその手前で抱かれているのが誰かはわからない。背格好から女性だとわかるが。

 夕日を背にした二人の顔は暗く見えにくかったが、女性の背にある何かだけははっきり見えた。

 手だ。紅く染まる手。聞こえるのは何かが地に落ちる水音。鼻に入ってくるのは鉄のにおい。見える色は紅だけ。

 沈黙だけがその場を支配していた。誰も動かない。思考も停まってしまった。ただ開け放たれた屋上への扉が風にあおられゆらゆらと揺れていた。

「あ・・・悠斗・・・?」

 ようやく実の口から言葉が出たのは、ここに来てから何分後だっただろうか。女性の髪に埋められていた悠斗の顔が上げられた。

 そして視界が割れた。夕日に亀裂が入り、ガラスが割れるような音が響いた。





「・・・あれ?」

 次の瞬間にはむせかえるような血のにおいも、夕日よりも紅い血もそこにはなかった。いるのは夕日を背に立つ悠斗と、その足下でうなだれている女性の姿だけだった。その背を貫いていた手はいつもと変わらぬ色をしていた。

「悠斗・・・?」

 実が双子の兄の名を呼んだときには、既に息子が父の元へと走り寄っていた。

「父上、大丈夫ですか?」

「お父さん、大丈夫?」

 息子達の心配に悠斗は全く無傷のまま答えた。

「大丈夫だよ。俺はな」

 そう言って足下でうなだれている女を見下ろした。女は青ざめた顔を地に向け、ぶるぶると震えていた。

「さっきのは・・・?」

 桜が言ったさっきのとは、つい先ほどまで彼らの目の前にあった光景のことだ。確かに彼らの前で、悠斗はこの女の身体を貫いた。しかし今この場には血の一滴すらない。

「あれは俺がルーンで見せた幻だ。幻と言っても五感全てを騙すものだから、ただの幻というわけでもないがな」

 悠斗はそう何でもないように言った。つまり先ほど刺された側は、下手をすればショック死すらありえたのだ。

 もっとも、悠斗にはそんなこと関係なかった。別に死んでもかまわなかった。自分が少しでも彼女を殺さないようにした方が不思議だった。一時は憎しみだけが彼女に対してあった。しかし今は何も感じない。ただ虚無だけが心の中に広がっていた。

「ところで、彼女は誰なんだ?」

 始には既に彼女が今までと同様、北欧神の一人であることが予測できていた。しかしそのことに今更驚かない。それにしても女の恨みをよく買っているなと心のどこかであきれていた。

 悠斗も今更彼女が神の一人であることを説明したりしない。

「名はシギュン。俺の妻だった女だ」

 これには始も含め、その場にいる人間皆が驚いた。平然としているのは悠斗とその息子達だけだ。




 その名は実達も北欧神話を調べたときに見たはずだ。

 邪神ロキの忠実な妻・シギュン。彼女は夫との間にナリとナルヴィという二人の息子をもうける。しかしロキには既に巨人族の愛人と、その間に三人の子供をもうけていた。それでもシギュンは彼の妻であり続けた。ロキがバルドルを死に追いやり、神々を敵に回しても、ロキを捕縛するため息子の一人を狼に変えられ、もう一人が殺されその腸でロキが縛られても、彼女は邪神の妻であり続けた。神々の黄昏まで拘束されたロキは、その頭上に毒蛇を置かれ、その口から滴る毒液に苦しめられるが、シギュンはその毒液を洗桶で受け止めていた。しかし桶が一杯になるとシギュンはそれを捨てに行かなければならず、その間に滴った毒液でロキは苦痛にもがく。それが地震になるのだという。




「俺ずっとそいつらに邪魔されてたんだよ。だからお父さん達を見つけるのこんなに遅くなったんだよ」

 次男の弁明に悠斗は耳を傾けていた。

「ということは愚息どもも人間界に来ているというわけか。まあ気配も感じないし、ここには来てなさそうだな」

 三人の子供達に対しての態度とずいぶん違うことだ。単純に血のつながりがあればいいわけではないのだろうか。

「今日邪魔しなかったのは・・・」

「俺に会うためだろ。オルムに気を取られている間にと思ったのか」

 悠斗が何を言っても、シギュンは動かなかった。やはりさっきのショックが大きかっただろう。

「ところで彼女は何しに来たんだ?」

 神話からすれば、彼女は今までの北欧神のような敵とは思えない。仮にも妻であった女性だ。なのに悠斗の態度は妻に対しても、味方に対してでもない。彼は先ほど彼女の身体を貫いていた。幻とはいえ、死んでもおかしくないことをしたのだから、彼が彼女の出現を好意的に考えているということはないだろう。

 始の質問に、悠斗はさも当然のように答えた。

「俺を殺しに来たんだろ」

 再びその場が凍り付いた。

 妻が夫を殺しに来る。そして夫はその前に妻を殺そうとする。一体どうすればそんなことになるのか。決して他人には理解できない問題がそこにはあった。ある意味絆とも呼べる血みどろな関係。

 どうしてそうなったのか。悠斗が語った過去は決して甘い恋愛話ではなかった。血と憎悪で築かれた愛憎劇。神々は血まみれの舞台で子供じみた愛憎劇を演じる。

 彼らの物語はそこから始まり、そこで終わりを決めていた。





少し短いですが切りがいいのでここで切りました。

次は少し過去の話となります。

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