第13話 咎人たちの再会
その怪物は海に捨てられた。邪神の父と巨人族の母を持つ彼は巨大な蛇の姿をしていた。神々は彼を他の兄妹と同様、親から引き離し、兄は鎖で繋がれ地中深くに、妹は光のない死者の国・ヘルに、そして彼自身を暗く冷たい海に捨てた。
海に落とされた彼は次第に成長し、世界を取り巻くほどの大蛇となった。
ラグナロクの際、彼は父達と共に神へと戦を仕掛けるが、雷神・トールとの死闘の末、相打ちという形で命を落とす。
その彼の名は―――。
「ミドガルズオルム、またの名をヨルムンガンドか」
三人目の子供の登場に、始はもはや驚きもしない。むしろすっきりする。二人まで登場すれば三人目が登場するのはお決まりだろう。ただそれを望んだことはないが・・・。
また騒がしくなるなと考えながら、始はもはや傍観を決め込んでいる。
「紹介をする手間が省けるな」
悠斗もかなり気楽そうだ。自分の腕の中で泣いている息子の頭をよしよしとなでているが、自分の正面から発せられる強い視線には気付いていた。
「お久しぶりですね、ミドガルズオルム」
冷たく、しかし威圧感あふれた言葉が少年の背に刺さった。
ミドガルズオルムは泣くのも忘れ、後ろを振り向く勇気もないまま、固まっている。
しかしそんなこと気にも留めず、というかしてくれるはずもなく、兄は久方ぶりに会った弟に優しく声をかける。
「どうしましたオルム。久しぶりに会えたというのに、兄には再会の言葉もかけてくれないのですか?」
夏の暑さがまだ少し残る今日の気温が、数度下がった気がした。弟の顔を流れる汗は熱さの為ではないだろう。
実達は初めて見るフェンリルの姿に、彼が怪物だったことを思い出し、口を挟むこともできずに凍り付いていた。
悠斗も少し気の毒に思ったが、下手にかばえば自分も巻き添えを食らうのをわかっていたので、これも教育だと長男にまかせることにした。
長男が怒ると一番怖いことをよく知っているからである。
次男に残酷にも後ろを向くよう促す父。次男も諦めたような、しかし恐怖が張り付いた顔をゆっくりと、おそるおそる後ろへ向ける。
そこには予想通り、冷血な魔王がほほえんでいた。
「お、お久しぶりです・・・お兄様」
その声は身体と共に震えていたが、だからといって情けをかけてくれるような相手でもない。
「本当に久しぶりですね。私もこの十数年探し続けましたがまったく見つからないのでとても心配していたんですよ
(訳/十数年も今まで何してたんだ。人に迷惑かけやがって、出てくるならもっと早くに来いってんだ。肝心なときにいないでこの役立たずが)」
気のせいか、言っていることと違うものが聞こえたような・・・。
フェンリルがほほえんでいるというのも珍しいことなのだが――彼は家族以外に愛想を振りまかない――それを好奇心から見続けようとする人間は誰もいなかった。始は傍観を決め込んだまま近くの塀に寄りかかり話が終わるのを待っているし、無責任な父親は巻き込まれないよう、息子達からこっそりと離れていった。実と桜は衣替えもしていない夏服から見える二の腕に鳥肌を立てていた。
もちろん一番気の毒なのは魔王の前に立たされている哀れな囚人なのだが、誰もそれを助けようとする者はこの場にいなかった。
「えっと・・・ごめんなさい」
まず言い訳もせずに謝罪したのは最善の選択肢だったのだが、残念ながらそれで怒りが収まるのなら苦労はいらない。
「オルム、ごめんで済めば警察はいらないって言葉、知ってますか?」
「・・・・・・・」
もはや警察を通り越して死刑執行人自らやってきたような気分だ。
そもそも神やその息子が警察を気にするのかと思うが、ここでそれを突っ込む勇気のある者はいるはずもない。
ミドガルズオルムが魔王の説教から解放されたのはそれから三時間後のことだった。
高いところの方が風が強いというのは当たり前のことで、地上では髪を揺らすのがやっとだった風も、ここ屋上では髪だけではなく服さえ手にとって遊んでいる。
風に遊ばれうっとうしそうに前髪を横に流す悠斗は、自分の身体の変化について考えていた。
力のほとんどが全盛期に近くなっているというのに、それ以上近づこうとしない。まるでせき止められたダムのように。自分の力の回復に歯止めがかかっていることに悠斗は正直とまどっていた。何かが邪魔をしているような気がしてならなかった。
しかしそれを誰がするというのだろう。敵対する神々にそんな力があるはずもない。ましてや自分や彼女の意志でもない。ならば誰なのだろうか。
回復が遅いのは外見も同じだ。
黒い髪と同じ色の瞳は日本人である両親や兄弟と同じもので、彼本来の色ではない。肉体も高校生ほどの体格と身長しかない。悠斗の予想では今頃は既に外見の変化は終わっていたはずだ。
変化の遅行は悠斗自身の命にも関わることだ。戦闘力が特別高いわけでもない自分では、トールのような戦神に真っ向から向かっても勝機はない。
今まではまだ運が良かった。しかしこれから先、正面から神々と戦えば、悠斗の命はないだろう。
死ぬために蘇ったわけではない。ましてや償うためでもない。それは彼女の意志と、自分自身の願いのため。そのためには再び神々に刃を向けることも厭わない。
悠斗が思考に耽っていたのはそこまでだった。
屋上の重い戸を開ける音が彼の背後からした。彼の待ち人が来たのだ。いや、待たされていたのは彼の方だ。彼にしか気付かない合図により呼び出されたのだ。
悠斗は不思議にもそれを不快に思わなかった。いずれこうなることを予測していたからだ。神々と再び戦うことになれば、こうなることはわかっていた。
しかしそれが彼の行動を止めることはない。もう決めいていたからだ。あの日決めてしまったから。芝居じみた恋愛劇はもう終わりにしようと。これはただの愛憎劇なのだと。 屋上に新たな人影が生まれる。悠斗よりも背の低く細い、髪の長い女性。かつての悠斗の髪よりも濃く、光具合によっては茶髪にも見える金髪。北欧神の中には世界中にその名が轟くほど美しい髪を持った女神がいる。しかし彼女の髪はそこまで美しくない。象牙のような肌も、さらさらと流れる髪も、細長い指も、どんなに美しいと人が言おうとも、悠斗には響かない。彼自身が美しいからではない。彼は外見の美しさがたいした意味を持たないと知っていたからだ。
何年ぶりの再会かはわからない。神々にとって年月などほとんど感じるものではないからだ。それは神であった悠斗も同じだった。ここ十数年を長く感じたことはあるが、それよりも前の数百年、数千年を長いと感じたことはない。
しかしそれがどんなに長く感じようとも、短く感じようとも、今ここにあるのは懐かしさだ。それを感じる悠斗自身、不思議に思っていた。自分が懐かしいと感じることに。
それは彼女も同じなのだろう。悠斗を見る目には懐かしさがにじんでいる。そしてあるのは愛情と憎悪。いつしかそれが当たり前となっていた。
それを放っておいたのがそもそもの始まりだったのだろうか。しかしどんなに後悔しても、落ちてしまった砂を元の器に戻すことはできない。
神にはこんなにも不可能なことが多い。なのになぜ人は神を崇拝するのだろうか。救ってくれと祈るのだろうか。
救いを求めたのはどちらなのだろうか。
魔王の説教が終わる頃、すでに日は沈みつつあった。
哀れな弟は体中の水分を汗として流してしまったのか、干上がったミイラのようになっていた。
一方、怒りを静めた魔王こと兄は、ようやく満足したのか周囲を見渡し、自分の説教が思ったより長引いてしまったことに気付いた。
「せっかくの祭でしたのに、無駄に時間を使ってしまいましたね」
誰が使わせたんだとその場にいた全員が心の中で叫んだが、現実に響くことはなかった。「そろそろ一般客は帰る時間よ」
携帯に表示されている時刻を見て桜が言った。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
始の言葉を合図にそれぞれが帰宅準備を始める。
実と桜は一度教室に戻り、始は先に帰宅することにした。フェンリルはひからびた弟の首根っこをつかんで引きずるように帰って行く。
しかし実達に見送られ学校の門を出たところでフェンリルが立ち止まった。
「ところで・・・父上は?」
その場にいた全員が一瞬固まった。
本来いるべき人間・悠斗の姿がどこにもなかったのだ。
「今まで・・・いたよね?」
自信なさげな桜の言葉に、誰もが首を縦に振ればいいのか横に振ればいいのかわからなかった。そもそも最後に彼を見たのが何時なのかさえ誰一人覚えていないのだ。
「喫茶店を出たところまでは確かにいたよ」
「でもそのあといつまでいたんだっけ・・・」
考えられるとすればフェンリルの説教中に消えたということだが、誰一人今まで気付かなかったのはおかしな話だ。実達はともかく、そばにいるだけでその気配を察知できるフェンリルが気付かないのもおかしな話だ。
うんうんと皆がうなっているとき、フェンリルが実の方を見ていた。
「あの・・・何か?」
「少しじっとしていてください」
言われるままにその場で直立する実に、フェンリルはくんくんと鼻を近づけにおいを嗅いでいる。
そういえばあいつ狼だったんだよなとどこかのんきなことを考えている者もいたが、そんなことお構いなしにフェンリルは実の体中を嗅ぎ回る。そして背中まで来てその動きをぴたりと止めた。
「背筋を伸ばして、動かないでください」
フェンリルの指示に従う実の背中を見ていたフェンリルは、しばらく狙いを定め、思いっきり実の背中を叩いた。
バッシーーーーン!
すさまじい音がその場に響き、人の少なくなっていた校門にまだ残っていた人たちが、何事かと見に集まってきた。
「痛ったーーーーーー!」
音と同じくらい実の悲鳴が響いた。
「ちょっと、何するんだ!」
詰め寄ろうとする始に見向きもせず、フェンリルは地面から何かを拾い上げた。
「逸れ、何?」
見ればフェンリルの手の上には淡い光を放つ文字のようなものが浮かんでいた。
「これはルーンですね、もうほとんど消えかけてますが」
確かに手の上に浮かぶ文字はほとんどその形を失いつつあった。
「で? こんなものできるのは一人しかいないから誰がやったかは訊かないが、何でこんなものが実の背中に付いてるんだ?」
まだ怒りが収まらないのか、眉間に皺を寄せたままの始の姿があった。しかしフェンリルは誤るそぶりも見せない。
「付けたのは言うまでもなく父上でしょうね。今まで不在に気付かなかったのはこれのせいでしょう。彼に自分の存在感を映していたんでしょう。たぶんここに来た頃には付けられてましたよ。付けてすぐに消えれば私が気付くから、時間をかけてなじませていったんですね」
「そうだよ、これのせいで俺も最初間違えたんだよ」
フェンリルが淡々と説明する中、割り込むようにミドガルズオルムが会話に加わった。
確かに人間の姿をしているとはいえ、父親の気配を間違えるのも変な話だ。
しかしそれもフェンリルからすれば、言い訳にしか聞こえないわけだが。
「それはあなたの情けなさも原因の一つだと思いますよ。とにかくそんなことは放っておいて、父上はどこに行ってしまったのでしょうね?」
かなりひどいことを言っているようだが、ここでそれに反論している暇はない。優先すべき問題は悠斗だ。
「まさかまた神様とやらが来てるんじゃないだろうな?」
皆が危惧することを最初に言ったのは始だった。
「可能性は十分にありますが、しかし我々を置いていく必要もないでしょう」
確かに力が戻りきっていない悠斗が息子達を置いていくのも妙だ。たとえそれが心配させまいとした行為であったとしても、黙っていた方が心配するということを父親である悠斗がわからないはずもない。
ならば、息子達にも黙っておきたいことだと考えるのが適切だろう。
だが、彼が息子達にも隠したいこととは何だろうか。
しばらく考え込んでいたフェンリルの耳に、弟の愚痴が飛び込んできた。
「あ〜あ、せっかく苦労して会いに来たのに、父さんどこに行っちゃったんだよ。あいつらのこともまだ言ってないのに」
「あいつら? オルム、あいつらとは誰のことですか? 何があったんですか?」
聞き捨てならないとばかりに訊くフェンリルに、ミドガルズオルムは大きなため息をはいた。
「やっと訊いてくれた。俺だって何も遊んでた訳じゃないんだぜ? 父さん達を探そうとしたらいっつも邪魔してくる奴らがいたんだよ。今日はなぜか邪魔されなかったけど・・・」
「奴らって、誰ですか?」
「あいつらだよ。フェン兄も知ってるだろ? あのむかつく兄弟と母親」
そこでフェンリルも気付いた。悠斗が自分たちの前から姿を消した訳を、そして誰と一緒にいるのかを。
掌の中にあったルーンが握りつぶされた。
「オルム、父上を捜しますよ。おそらく彼らと一緒です」
「嘘!? マジ!?」
話しについて行けない実達を置いてけぼりに二人は校舎へと走り出す。ルーンが消えた今なら、悠斗の気配もわかる。
「おい、どうしたんだよ!?」
慌てて二人を追いかける実達と話している暇などない。そもそもこれは自分たち家族の問題だ。
いや、置いて行かれた現状では、自分たちはこの問題に関係ないと考えられたのかもしれない。確かに血のつながりこそあっても、彼らとの間に絆というものはなかった。むしろあったのは自分たちの父を奪うかもしれない憎らしい存在という認識だけ。
そしてその想いは、今実達に対して持っている名も知らない感情に似ているということを、フェンリルはまだ気付いていない。




