第10話 消えた問い
どうして人はまっすぐ進めないのだろうか。いつだってよそ見して、寄り道をして、気づけば思った通りの道を歩めていない。
きっと人は片眼の生き物なのだ。もしかしたら片耳かもしれないけど。だからまっすぐ歩けないのだ。だから探すのだろう。自分の片眼になってくれる人を。きっと二人で三つの眼を使って、またその人が誰かの眼を求めて、そうやってつながっていくのだろう。
だから人は独りで生きていけないのだろう。だから人を求めるのだろう。
ふらふらと歩いて、自分の眼になってくれる人に会えて、そしてやっと人はまっすぐ歩くことができるのだろう。
晴れ渡る空が見渡す限りに広がっている。人によって管理された緑は風に揺らされ、その首を左右に振る。人工的に作られた自然でも、都会に住む人々には十分なものだ。この町でもかなり大きめの部類に入る公園。
そこで悠斗はぼんやりとベンチに座ったまま空を眺めていた。直接受ければ熱い日光も、優しい木陰が遮ってくれる。木々の間から見える空を白い雲が漂っている。白と青のコントラスト。それは一枚の絵のようで美しい。無理に美を求めなくても、世界には美がこんなにもあふれている。そんなことすら気づかなかったのだろう、神は。自分だって気づいていなかった。いや、忘れていた。心の汚さばかり見て、それ以外にはないと思ってしまっていた。人と違って自然は美しい。本当の美は求めて手に入るものではない。当たり前のように転がっているのだ。
「隣、いいかい?」
悠斗はちらりと声の主に視線を向けた。そこに立っていたのは一人の男性だった。赤褐色のスーツをルーズに身に纏い、赤いネクタイを適当に結んだだけの服装。しかしそれを身に纏う人物は飾りなどいらぬほど美しい顔をしていた。光の加減によっては黒にも見える紺色の髪は男性にしては長く、肩まである。長い睫毛と象牙のような白い肌。高い身長から生み出される長い影が、木陰の隙間から通り抜けていた光すら悠斗から奪う。
「勝手にどうぞ。予約は入ってないんでな」
そう言って悠斗は視線をそらし、今度は正面を見た。男は「それでは遠慮無く」と言って、悠斗の隣にゆっくりと腰を下ろした。そして当たり前のように言葉を紡ぐ。
「妹が迷惑をかけたね」
「まったくだ。あまり甘やかすな」
「他人のこと言っていられるのかい? 自分だって自分の子供を甘やかしてるくせに」
「可愛がるのと甘やかすのは別だ。お前は躾がなってない」
「もう今更無理だよ」
「それもそうだ」
鳥が空を横切った。子供達が笑いながら目の前を通り過ぎていく。しかし二人にはそれもただの背景としか見えていない。しばし沈黙が続く。
「それで? お前はどうするんだ? オーディンに言われて来たんじゃないのか? それとも妹の敵討ちか?」
沈黙を破ったのは悠斗だった。もしそうなら今すぐ殺すとでも言い出しそうな雰囲気だ。しかし相手はそのどちらも否定する。
「違うよ、今回はこの間できなかった挨拶と詫びを言いに来ただけ」
この間とは、先日彼の妹が起こした事件のことである。
悠斗達の眼の前でフレイヤは姿を消した。実達は驚いていたが悠斗は気にせず、気を失ったヘルを抱えたフェンリルを伴って帰って行った。
悠斗の傷は一番ひどく、普通の人間よりも回復能力がある身体でもすぐには癒えなかった。一週間経った今でもまだ服の下から包帯をのぞかせている。
ヘルは翌日には眼を覚ましたが、ようやくベッドから出ることができるようになった。
フェンリルは父以上の回復速度で傷を治し、いまでは少し跡を残しているだけである。
実達三人は軽傷だったが、ヘルの力を受けたのが悪かったらしく、二・三日熱を出したらしい。しかし今ではすっかり回復しているとの連絡が悠斗の元に来た。
連絡が来たとき、心のどこかで安心している自分に悠斗は驚き、苛立った。あの一件で突き放すつもりだったのに、ちっともうまくいっていない。それどころか彼等の心配をしている。自分らしくない思いに戸惑いを隠せなかった。
なぜ彼らの心配をしている。もう何も関係ないはずだ。自分から縁を切ったんだ。なのになぜだ。
あの時もそうだ。なぜかばった。放っておけばよかったのだ。なのになぜだ。思考するよりも身体が動いた。そうなれば後から理由を付けても何の説得力もない。勝手に身体が動いた。そうとしか言いようがない。今までの自分としては考えられないことだ。家族以外の者のためにそんなことするなど、神だった頃からはまず考えられない行為だ。自分らしくもない。
しかしああしなければ、今頃自分は後悔していただろうということがわかっていた。彼らの屍を前にして思うこと、それは大切な人を失ったあの時のものに似ている。彼女と彼らを比べるなどあり得ない。しかしこの想いはそう、《悲しみ》というものだろう。もうあのような想いをするのはごめんだ。未だに消えていないその想いは、彼女への愛情と共に浮かび上がってくるモノ。
「どうした?」
男は心配そうに悠斗の顔をのぞき込んだ。
「何でもない」
敵にまで心配されたらおしまいだ。
「そうには見えないけど・・・、そういえば君が一緒にいた人たちはどうだい?」
「別に・・・」
「別にって・・・具合はどうか訊いたんだけど・・・」
「・・・もう元気だと」
「そう、それなら良いんだけど」
言い終わってから悠斗は後悔していた。自分の心中の一部を見られた気がしたからだ。男はそれに気づいているのかいないのか――いや、間違いなく気づいている――、優しげな微笑みで言った。通りがかった女子高生達がキャーっと何か叫んでいるようだが、そこは無視する。
「彼ら、君の家族なんだろ?」
どうしてそんなこと知っているんだと訊きたくなるが、そこは神様はすごいからだということで置いておく。
「俺のじゃない。『大杉悠斗』のだ。俺とあいつらは最初から何も関係ない」
それはどこか自分自身に言い聞かせるような言葉だ。
自分で断ち切ったはずの縁を、まだ失いたくないと握りしめている。その糸の先にもう何も繋がっていなくても、確かに繋がっていた証を捨てきれないでいる。無意識にそうしている自分がとてもかっこわるくて、惨めに思えてしまう。こんな自分、自分じゃない。そう叫んでいる自分がいるのに、どこかに未練がましく切れた糸を握っている自分がいる。矛盾している。わかっているのにできない。
悠斗の心中に気づいているのか、男は微笑みを絶やさない。
「でも『大杉悠斗』は最初からいない。なら『大杉悠斗』として生きた時間は君のものだろう? 関係ないはずない。彼等の家族は君だ」
悠斗の息が一瞬止まった。
『兄弟』を奪った。『家族』を壊した。それが『悠斗』の罪状。
『希望』を奪った。『世界』を壊した。それが『ロキ』の罪状。
どちらも自分。どちらも自分の罪。それを償おうと思ったことはない。いくら責められようとも、そんなものは自分を傷つけはしない。そう思っていた。罪の重さにツブされることなど無いと思っていた。しかしあの時、始の言った言葉が今も心に突き刺さっている。その存在すら許さない、ならば最初からなければよかった。
そもそも自分はどこから来て、どこへ行くのか。どこへ行けば、彼女に会えるのだろう―――。
「意地を張る必要は無いんじゃないか? 絆を求めることの何が悪いと言う? 人肌恋しくたってかまわないじゃないか。プライドばかり護っていると、他の大切なものを無くしてしまうよ」
まるでこちらの心を見透かしているような言いぐさだ。しかしそれを笑って捨てることができない。もう気づいているのだ、自分の本心に。それを認めたくないだけなのだ。高すぎるプライドがそれを邪魔する。
何かを捨てなければ護れないものもある。一つのものだけしか見ていなければ、他のものを失ってしまう。そんなこと、よくわかっているのに―――。
「さて、僕はそろそろ行くとするか」
そう言って男は腰を上げ、立ち上がった。
「帰るのか?」
「いや、しばらく人間界にいるつもりだよ。神界に帰るよりもこっちの方が楽しそうだしね」
明るい調子で言う彼には、さっきまでの真剣な雰囲気はもう見えない。
「神としての使命より娯楽を選ぶのか? そんなんだから女にうつつを抜かし死ぬことになるんだ、フレイ」
悠斗の厳しい言葉もフレイは笑って受け流した。
豊饒神フレイ。女神フレイヤの兄で、父や妹と共にアースガルドに移ったヴァン神である。 最高位の豊饒神である彼は、見初めた女性・ゲルドを手に入れるために従者・スキールニルを説得に向かわせた。スキールニルは彼女と父親を説得するために贈り物をするが、彼は間違えてフレイより護身用に預かっていた宝剣を渡してしまう。
そのためにラグナロクの際、彼は鹿の角で戦うしかなく、結果命を落とすこととなる。
「まあ、済んだことは仕方がない。やり直せるわけでもないんだし」
「やり直すか・・・できるはずないよな・・・」
「? 何か言ったかい?」
「いや、何でもない」
過去はやり直せない。それは真理だ。たとえ神であろうとも。
しかし何かが引っかかった。今の人間世界、そして神界は神々の黄昏以前と違う姿だ。だがバルドルが蘇らせた世界は人間界も神界も同じ世界にあるはずのものだった。それはまったく同じ世界を作り直すということではないか? そしてなぜミッドガルドは神々の支配下から離れた世界となったのか。どこかが間違った? 何が原因だった? そもそもなぜ同じ世界を再び創造する必要があった?
過去をやり直す? 誰が何のために?
何か大切なことを忘れてはいないか?
そこに答えが、あるはず―――――。
《―――考えるな―――》
「神としての使命より娯楽を選ぶのか? そんなんだから女にうつつを抜かし死ぬことになるんだ、フレイ」
悠斗の厳しい言葉もフレイは笑って受け流した。
「まあ、済んだことは仕方がない。やり直せるわけでもないんだし」
「それもそうだな」
そこで会話は終わり、フレイは手を振って去っていった。悠斗はそれに答えることもない。そして自分自身も立ち上がり、帰路に着いた。
先ほどまであった疑問は既に無く、それを考えるに至った工程も最初から無かった。
世界は静かに時を刻む。流れる運命を知るものはいない。
「お帰り、悠斗!」
家の扉を開けて悠斗が聞いた第一声だった。
そして目の前にいたのは血の繋がった偽りの弟だった。
「ほら、早く上がって。ご飯の用意できてるから」
なぜか自分の家に上がることを勧められなければならないのか。
そもそもなぜここにいるはずのない人間がいるのか。
思考している間に悠斗は実に引っ張られる形で部屋に押し込まれた。
「あ、お帰り」
「お帰り・・・」
キッチンにはいるはずのない人間その2・その3がいた。
眉間にしわを寄せている悠斗に気付かないのか、その2はテーブルに作ったばかりの昼食を並べていく。ご飯に味噌汁、鶏の唐揚げ、サラダ、刺身、酢の物。さらにデザートのつもりかグレープフルーツまである。
部屋の入り口で立ったまま動かない悠斗を見て、その2・桜は不思議そうに言った。
「どうしたの? 悠斗好き嫌いあったの?」
メニューに異論はない。ここで何か言いたいとすれば、なぜお前達がここにいるかということであり、なぜ昼食を作っているのかということだ。
「お帰りなさいませ」
丁寧に父親を迎えた息子に、悠斗はようやくここに来てからずっとあった疑問をぶつける。
「ただいま。フェンリル、今の状況がなぜ作られたかを説明してくれないか?」
父親の眉間にあるしわの数が増えていることに気付いている息子は、やはり丁寧に説明する。
「父上が出かけられてすぐ後、昼食の材料を持った三人がいらっしゃり、昼食の準備はまだかとお訊きになり、「そうです」と答えると、「では作りましょう」とおっしゃられ、調理にかかられて三十分ほど後に完成。それから現在に至ります」
状況の過程は説明された。だが肝心の知りたい部分には到達していない。
「そうか、ありがとう」
フェンリルもそれ以上知らないのだ。悠斗はリビングで今朝届けられた新聞を読んでいるその3こと年下の兄に向かった。
「・・・なぜここにいる?」
悠斗の質問に年下の兄・始は簡潔に答える。
「どうせろくなものを食ってないだろうから飯を作りに来てやっただけだ。あと全快祝いだ」
単純明快な答えである。その答えが納得するものかは別として。
「まだ関わるつもりか? 俺と神々の争いに」
もう二度と関わらせないためにわざわざ自分と神の戦いに連れて行った。それで懲りたかと思った。だが――――。
「別に北欧神とおまえの喧嘩につきあうつもりはない。ただ俺たちは弟に関わっているだけだ」
悠斗は驚きで何も言えなかった。
ふとキッチンから笑い声が聞こえた。桜と娘が楽しそうに昼食の準備をしている。実はつまみ食いをしようとして桜に怒られている。家族の風景だ。二度と戻らないと思っていたものがそこにあった。
それを眺めていた悠斗に始は年長者のように言い聞かせた。
「おまえがどんなに俺たちから離れても、最初から繋がっていなかったとしても、俺たちが兄弟として過ごしたことに変わりはない」
振り返った悠斗に、始はさらに続けた。
「元々おまえは兄弟もいないんだろ。だったら別に俺たちが兄弟でもかまわないだろ?」 瞬くことさえ忘れている悠斗を見ることもせず、始は新聞で顔を隠してしまった。どうやらさすがに恥ずかしかったらしい。
「・・・俺を許すのか?」
ようやく口を開いた悠斗に、始は赤くなった顔を新聞の隙間からわずかに見せた。
「・・・兄弟じゃなかったらな。最初から兄弟なんだから怒る理由もないだろ」
また顔を隠した兄に、悠斗は笑いをとめることはできなかった。
笑う悠斗を恥ずかしそうに見ている始と、複雑そうに、しかしどこかほっとした顔で見ているフェンリル。
心の底から笑える日など二度と来ないと思っていた。彼女を失った日からずっとそう思っていた。
「ほら悠斗、早く座って。ご飯冷めちゃうよ!」
自分を手招きする実。既に座って自分を待っているヘルと桜。そこには自分の居場所があった。
「ああ、今行く」
絆がないなら作れば良い。どんなに細く短くても良いから。
第2章【罪人は鎖を引きずり歩く】終了です。




