私の負け
少しの間、お付き合いください。
「あなたなんて、絶対に好きにならない!」
そう宣言して、二ヶ月半後。
私は負けた。
最初に出会ったときは、なんて嫌な奴だろうと思った。
学校内で一番人気があるだか何だか知らないが、女の子がいつもまわりにいて、それを当たり前のような顔をしていて。
自分に群がってくる子には優しいらしく、それはそれはうんざりするほど奴はモテた。
まあ、そんな奴も学校に一人や二人いても不思議ではない。
漫画や小説ではよく見かけるが、だからこそ良いのであって、身近にあるのは勘弁して欲しい、なんて騒がしい塊を見かけては思っていた。
それが何の因果か知らないが、奴が私に目をつけてきた。
そして言ったのだ。「絶対に、お前は俺を好きになる」と。
なんて嫌な奴。なんて高慢。ありえない、と私は自信に満ちた奴の顔を睨みつけて、ふいと顔を背けて立ち去った。
いま思えば、もっと別の方法があったのかもしれない、と思う。
それからの奴はもう、うんざりするほどに私に構ってきた。
おかげで、私が奴の周りを囲む女子――いわゆるファンクラブだが――から受けた嫌がらせは数知れず。
奴を見てキャーキャーと騒ぐだけの、黄色い悲鳴要員とか呼ばれている女子たちはまだ良い。私を見てコソコソと囁く程度だ。
だがハーレム要員だとか呼ばれている取り巻きたちはさすがというべきか、格が違った。
正直言って転校できるものならしたかった。しかしそれでは敵前逃亡だ。
第一、私が望んだわけではないのに、なぜ嫌がらせを甘受せねばならないのだ。
それだけは私の変らぬ心だったから、絶対に奴にも、奴のハーレムの女どもにも屈するものかと言う、意地さえあった。
ただ、そんな心だけではやはりくじけそうな時もやって来る。
私が逃亡をせずに済んだのは、ひとえに二人の友人のおかげだ。
一人は私の親友で鈴木彩乃。もう一人は、一ヶ月前に家庭の事情で転校してしまった岡野智樹くん。
特に彩乃は、私が学校の半分以上の女子を敵に回しても、毅然とした態度で友達づきあいを続けてくれた。
何も言わなかったが、きっと彩乃も私ほどではないにしても、嫌がらせを受けたと思う。
そう思うと申し訳なくて、でも離れないでいてくれてありがたくて、いくら感謝してもしきれない。
私が謝るたび、彩乃は爽やかな笑顔を見せて言ってくれたのだ。
『あんたは負けちゃダメよ、加奈。あんな男にも、奴の女どもにもね』
今の私は彩乃に合わせる顔がない。
私は昨日、負けた。この二ヶ月半、奴に構われた結果、好きになってしまった。
彩乃へは言い訳はしない。ひとえに私の心が弱かった、それだけだ。
奴から時折掛けられた優しい言葉に、くじけそうだった心が少しだけ触れてしまった。
それを何事もなかったかのようにできるほど、私は強くなかった。それだけだ。
携帯の送信ボックスを見る。一番上に表示されている、昨日、奴へ送ったメール。
『――あなたが好きです。 加奈』
素っ気無い文章だと我ながら思う。でも、認めてしまった心だ。言い訳はしない、と潔く送った。
受信ボックスへと切り替える。送った十分後に届いた、奴からのメールが一番上。
『――知ってる』
なんて奴だ。好きになっても、そう思うのは変わらない。
奴はいわゆる俺様だ。周りがそれを許しているから、奴はつけ上がっている。
それを理解しながら、諸々経過して結局は私の負け。
ああ、何をグダグダと考えているのだろう。
明日から新学期。彩乃に合わせる顔はないとわかってはいても、登校すれば当然だが彩乃とも顔を合わせる。
とりあえず彩乃に平手打ちされても平気なように常に歯を食いしばっておこう。
叩かれても文句は言えない事を、私はしてしまったのだから。
「おはよ、加奈」
「お、おはよう……」
宿題ちゃんとやった? と笑いかけてくる彩乃に、私は頷きながらもその真っ直ぐな目を見れない。
その宿題も、奴に手伝ってもらったと言ったら早速殴られそうだったので、歯を食いしばらなければという一心だった。
「……どうしたの、加奈。夕べ寝てないの? 目の下隈が出来てるけど」
「そ、そうなの! 遅くまで起きてテレビ見てたら目が冴えて眠れなくてさぁ……」
「夏休みじゃないんだから、しっかりしなよ」
「き、肝に銘じます……」
「ほら、行こう」
私の肩を軽く叩いて、彩乃は爽やかな笑顔を向ける。
何て眩しい笑顔だろう。私には直視できる勇気などなかった。
あれ、と思ったのは、負けたと自覚して一週間してからだった。
構ってこないのだ、奴が。でも新学期の初日に、奴は見かけた。
その時は自信に満ちた笑顔をこちらに向けたが、話しかけてくることはなかった。
彩乃も居合わせていて、奴からかばうように私を自分の背中に隠れさせ、奴を睨みつけていたのはいつものことだったが。
ちなみに彩乃には、まだ負けたことを告げられずにいる。
叩かれて怒られるのが怖いからではない。友達としてもう付き合えないと言われることのほうが怖かった。
なにより、気恥ずかしさがあった。
特定の誰かを好きだと自覚するのは、かなり恥ずかしいことだと思い知った。
それでも、私の負けだ。
最低限のことはしなければならないと自分に言い聞かせて、メールを送った。
明日、一緒にお昼を食べませんか、とお誘いのメールだ。
奴は私に構ってくる間、ささやかな楽しみだった学校の中庭での彩乃とのお昼とガールズトークとやらの邪魔をことごとくして、あまつさえ私のお弁当の中身を一部かっさらっていくという所業をしでかしたのだ。
その私が、お昼の誘いのメールを打ち、奴へ送るとは。
恋って怖い。一人部屋でそんなことを呟いて、勉強机に頭を打ちつけて猛省した。
アホか、私は。
しかし返信は結局なかった。
彩乃との中庭でのお昼は変わらず続いている。
「そういや、あいつ新学期始まってから構ってこないじゃん」
そう言って彩乃は、彼女のお母さん特製のサンドウィッチを一口。私はどきりとして箸でつまんだプチトマトを危うく落とすところだった。
おお、危ない。トマトは私の大好物なのに、それを落とすなどありえない。
行儀が悪いが手で掴んで口に入れ、数度の咀嚼のうち飲み込みながら首をかしげた。
「あ、飽きたのかも?」
「お、それはいい。よし、加奈。放課後はお祝いカラオケしよう」
「嬉しいけど、カラオケはまた今度で。それに、もしかしたら油断させて何か仕掛けてくるのかも……」
とっさに口から出たのはでまかせだが、彩乃は私の言葉に何か考えるような表情をして頷いた。
「そうだね、奴ならやりかねない」
妙な納得もあるものだと思いながら、私はもう一つのプチトマトを口の中に放り込んだ。
私の中で、奴に負けたことで生まれた心が囁くのだ。
奴はメールを見ていないだけかもしれない、と。
しかしそれから数日を経るとさすがに首をかしげたし、不審にも思った。
メールをあれから三通送ったものの、返信はなかった。
電話を掛ける勇気は、まだ無い。
『――メール、届いていますか? 少し、話がしたいです。 加奈』
ドキドキと心臓が鳴っていた。
緊張してこんなメールを送る程度には、私は奴を好きで、ふと頭の隅でちらついている疑惑を直視するのが怖いのだろう。
だが結局、朝になっても返信はなかった。
彩乃とはメールよりも会話なので、受信ボックスの一番上には、奴からの一言メールが変わらずそこにあった。
大事なものではなかったのだ。忘れ物など、それほど大事なものではなかった。
戻るべきではなかった。そう思ったが、でも、とも思う。
戻ってよかったのかもしれない。おかげで、疑問は解決したのだから。
なんのことはない。私は奴を好きになり、そして奴は飽きた。それだけだ。
しかも、奴の中で私は"彼女"と言う分類ではなかった。
友達に愉快そうに話す声。
自信たっぷりに、お前は俺を好きになると言ったあの声で、奴は私を嗤っていた。
「ありえねぇ。一気にウザくなった」
「お前のハーレム連中はその点おとなしいよなぁ」
「当たり前だろ。俺が嫌だって言ってることをあいつらはしねぇし。今まで彼女気取りでメールしてきた奴なんて一人もいねぇのに」
「うわ、サイテー。あれだけ構われたら自分が彼女になったんだって思うだろ、フツー」
「間違ってもねぇよ、あんな面白くもかわいくもねぇ女」
「周りにいた女と違うとか言ったのどの口だよ」
「ウルセーよ。おとなしそうで楽だと思ったら結構メンドかったし、でもまあいいやって思ってたけどさすがにこのメールはウゼー」
相変わらずヒデーなお前、と笑う奴の友人たち。
理解せざるを得なかった。
飽きた、と言うのも間違いか。奴はただ、私を自分のハーレム要員だとか黄色い悲鳴要員にしたかっただけなのだ。
私が、彩乃のようにクラスメイトから何かと頼られるような性格でもなければ、美人でもないから。
奴に関わるまでは、クラスメイト以外の生徒は私のことなど知らなかった。
それが奴に構われるようになってからは、私はごく普通のそこら辺にいる女子生徒から、みんなの注目が集まる場所へ連れ出されてしまった。
なぜ奴が私に構ったか、その本当の理由が今、ようやくわかった。
普通の私が、自分を見て黄色い悲鳴を上げないことも、媚を売ってハーレムに加わりたいと言わなかったのも、許せなかっただけなのだ。
お前は俺の周りにいる女とは違う、なんて奴は言っていた。
それもそのはず。そこらにいる普通の女子と違い、彼に熱を上げることをしなかったのはたぶん私だけだ。
教室に置いてあった忘れ物を手に、彩乃が待っているはずの校門へ向かう。
生徒の姿はほとんどない。遠くから、グラウンドで練習する野球部の声が聞こえるだけだ。
足元を見ながら歩く。足取りが、今にも止まりそうだ。もつれて転んだらカッコ悪いなぁと思っていると、彩乃の声。
「加奈、早く行かないと駅前の……」
急かす声がふいに途切れた。
なんだろうと顔を上げると、彩乃が驚いたように目を見張った。
あれ、なんでぼやけているんだろうと思ったときには、彩乃がこちらへと駆けつけ、私の肩を掴んだ。
「加奈、どうしたの、ねえ加奈!?」
「彩乃……」
頬を伝う感覚に、ああ、と思いながら彩乃に抱きつく。
思わず泣いてしまった。その程度には、私は奴を好きだったのだ。
事情を訊きたいからと彩乃の家に連行された。
説明の間、私は泣きっぱなし。なんてみっともない、と思ったが、涙はなかなか止まらなかった。
その程度には奴が好きなのだと思い知らされて、余計に悲しくなった所為もあるかもしれない。
そして、私から全てを白状させた彩乃が、静かに立ち上がる。
思わず目をつぶって歯を食いしばる。叩かれる覚悟は出来ていたが、いざとなるとやはり本音はちょっと怖かった。
しかし、これといった衝撃もない。
あれ、と思いながら目をそっと開けると、彩乃は立ち上がったまま両の拳を握り締めて、歯を食いしばっていた。
「あや、の……」
私の声に、彩乃はハッとする。そうして、ちょっとだけぎこちない笑みを浮かべると、座り込んだ。
大きく息を吐く。その動作だけで叩かれたような気分になった。
「ごめんね、彩乃。私、負けちゃって……」
「加奈、それはもういいよ」
「え?」
思わず俯けていた顔を上げると、彩乃は強張った表情のまま私を見返す。
その表情に、再び顔を俯けた。
叩かれなかったけれど、もう友達は辞めようって言われたらどうしよう。
「加奈。ねえ、加奈。あんた、あいつを好き?」
彩乃の言葉に、私は肩を揺らすという大げさな反応をしてしまった。
それだけで彩乃は何かわかったのだろうか。
はあと大きく息を吐き、いいよ言わなくて、と小さく呟く。
彩乃が失望している。
当然だろう。好きにならない宣言をしたくせに、負けたのだ。
しかもそのあげく、私はみっともない勘違いをしていたのだから。
奴と付き合うことになってしまった、などという勘違いを。
絶交、という言葉が頭をよぎる。仕方ないことだとわかっているのに、胸が痛む。
「……ねえ、加奈。あんたはどうしたいの。あいつのハーレム要員にでもなる?」
彩乃がちょっとだけ皮肉そうな声で問いかけてくる。思わず首を横に強く振っていた。
そう、良かった、と彩乃が呟く。
「もし頷いてたらビンタしてやろうかと……」
彩乃はいつもの爽やかな笑顔を見せる。
ああ本気だなと、今しがたまでちょっとぐちゃぐちゃだった気持ちが急に冷えたような気がした。
「でも、ちょうどいいじゃない。あいつはあんたを黄色い悲鳴要員としてもお断りみたいだし」
「そう、だね」
直接ではないにしても、ウザいと言われた。奴はウザいのを嫌うのだ。
ふと、奴自身が特定の誰かに執拗に構うのはウザいということにならないのだろうか、と疑問に思ったが、ああそうだ、奴は俺様だったと変に納得した。
自分がされるのは嫌で、自分がするのは問題ない、ということだ。
なんて奴だろう。改めてそう思った。
「加奈、悔しいかもしれないけど、このままおとなしくしておいたほうがいいよ。下手に仕返しとかして、あいつの女がまた近づいてくるのは嫌でしょ?」
彩乃の言葉に、それはもう強く首を縦に振った。
そうだ。俺様な性格の奴が、私を目障りに思って自分の取り巻きに嫌がらせを指示しないと、誰が断言できるだろう。
元より仕返しと言う発想はなかったが。
彩乃の言うとおり、今の状態のままが良いのだ。奴にウザいと思われていて、かつ奴の女たちが近づいてこない距離。
「もしかしたら、あいつの女たちも知ってるかもしれないしね。加奈があいつに負けたって。仲間意識持って近づいてくるかどうかだけが心配なんだけど……」
私も彩乃も、揃って腕を組んで考え中な表情をしていた時だった。
二人の携帯が揃って鳴り始めた。共にメールの着信だ。
何事かとそれぞれに携帯を開く。
お互いに顔を上げて、思わずと言う形で笑ってしまった。
「岡野って面倒くさがりだよね、結構」
彩乃がからからと笑いながら携帯画面を見せてくる。私も彩乃に見せながら頷いた。
私と彩乃のメールアドレスが並んでいた。
差出人は、前学期に転校してしまった岡野智樹くん。
文面は一斉送信なので同じだ。
『――今度、遊びに行く。 智樹』
久しぶりのメールだというのにその簡素さに、だが彼らしいと二人で笑った。




