M少年
これから書く文章は、特に何かしら意味があるというわけではない。ふと、数年前の出来事を思い出したので書き連ねただけだ。
そこに意味があるかないかは分からない。ただ、事実を書いたまでで、それ以上の意味はない。そもそも、意味を求めるほうがおかしいだろう。
数年前、私はとある塾の講師のバイトをしていた。
それは結構大手の塾で、先生と生徒が1対1、あるいは1対2という形で指導するのを売りにしていた。分かりやすく言えば、家庭教師に来てもらう代わりに塾で個室を与えられ、そこで教師に指導してもらう、という按配だ。
私は大学に入ってすぐにバイトを探し、そしてその塾に雇われた。
その塾は大手だけあってそこかしこに支店があった。私の住んでいる駅から2駅ほどのところにも支店はあり、私はてっきりそこで働くのだと思っていた。しかし実際は、電車で30分ほど離れた所の支店で働く形となった。
別段、その塾に不満があったわけではない。
服装はスーツでないといけないだとか、報告書を毎回書かなければいけないだとか、そういったこまごまとしたルールはあったものの、授業内容は個人の裁量に任されていたし、時給もそこそこ良かった。もっとも、生徒の親が塾に払う額は講師の時給のおよそ2倍だと後で知ったが、別にその事についても文句を言う気はなかった。
私はその塾で、真面目に働いた。
「バイト」というものが初めての経験であり、「講師」というものをやるのも初めてだった。初めて自分の力でお金を稼ぐという行為そのものに夢中になっていた。
今、客観的に考えると、私は、かなり「使える」講師だったのではないかと思う。苦手な歴史以外はどんな教科でも教えたし、相手が幼稚園児だろうが浪人生だろうが教えるべき事はちゃんと教えた。
私は、いわば十徳ナイフのようなものだった。あまり高度な事は出来ないが、そこそこの事なら出来た。そういう意味において、「使える」講師だったと思う。
そんな中で、私はおよそ2年間働いた。
そしてM少年には1年間数学を教えた。
当時M少年は中学2年で、バスケ部に所属していた。頭はいつも丸刈りで、私より背が高かった。
彼の中学は塾から遠く、彼はわざわざバスを使ってまで塾に通っていた。そのためか、部活が長びくためか、授業に遅れる事も多かった。私は独り、ブースの中で、手持ち無沙汰に参考書のページをパラパラとめくったり、他のブースから聞こえる他の講師の指導を、ぼんやりと聞いたりしていた。
私は塾の他の講師について、特に関心を持たなかった。話し掛ける事も話し掛けられる事も少なかった。他の講師は他の講師で仲良く談笑しているものもいたが、私はそういった雑談をする事もなく、ただ事務的な連絡だけは口に出し、その他には口を開く事はなかった。仲良く談笑している講師たちを見ると、逆に鬱陶しく感じる事もあった。
そうなった理由の1つには、その塾が講師どうしの私語を禁じていた事がある。塾の方針として、講師がバイト学生だという事を、生徒やその親に悟られてはいけないというものがあった。
ある時生徒に、「先生はどこの大学?」などという質問をされた事もある。しかし塾の規則として、「自らの大学名、年齢、住所などを生徒に教えてはいけない」というものがあったので、私はその手の質問が来るたびに、笑ってごまかしたり、話をはぐらかしたり、適当な嘘をついたりした。
もう1つには、塾を、塾で身を粉にして働く講師を、ある意味見下していた事がある。
私と同じ大学で、同じ学部だという講師が1人いた。私の考えとして、普通の大学生ならば、あくまでも自分の学業を第一に考え、大学の授業がない日だけ指導をするべきだと思うが、彼はほぼ毎日、塾の授業の始まりから終わりまで塾にいた。
それは、どう考えても真面目に大学生活を送っている人間の時間配分ではあり得なかった。彼は、優先順位として、明らかに塾を大学の上に置いていた。
私は彼を嫌悪した。そして、その影響からか、塾に入る時間が多い講師全てを彼と同類と決めつけ、同様に嫌悪した。
そして、私の塾に対する考えは少しずつ変わってきた。塾で生徒を指導するのに、全力で取り組むという形を捨て去った。
有り体に言えば、適当に手を抜くという事を覚えたのだ。
私の指導方針として、「面白くなければ勉強ではない」というものがあった。塾に来る子供は、大抵があまり勉強が好きではない子供達だった。彼らは何とかして、塾での時間を勉強以外の事に費やそうとしていた。そのため、授業に入る前にまず、生徒の心を勉強するという行為に向けさせる必要があった。
それは私にとって、さして苦労するような事ではなかった。生徒の心をまず私に向けさせ、その上で、授業を展開していけばよかった。方法はいくらでもあった。世間話(と、言っても子供の事だから、ゲームやテレビの話に終始したが)を授業の始めに数分間して、それから授業を行う。途中で生徒が飽きてきそうになったら、また世間話をする。大体はこのパターンで良かった。
むしろ、私にとっては、授業をする事より世間話をする事の方が好きだった。彼等には彼等の世界があり、その世界は私がすでに通り過ぎた世界だった。私は、ある種の郷愁を覚えながら、生徒の話に興味深く耳を傾けた。
そういう風な授業形態を取るようになると、他の講師の授業方法が気になった。そうしてよく観察してみると、人それぞれの授業形態があった。
私のように世間話を重要な行為として捉えて、それを中心として授業を行っている講師はあまりいなかった。ほとんどが、世間話をほんの導入程度に用い、そして、生徒の好むと好まざるとに関わらず、それから授業を進めていた。
もっとも、途中で休憩し、また生徒と世間話をする、という講師もいた。しかし私の指導法と決定的に違うのは、生徒との対話を楽しんでいない、という事だった。
そして、私と全く違うタイプの授業を行っている講師がいた。
その男(仮にKとする)は、ある有名私立大学の学生だった。いつもきちんとスーツを着こなし、はきはきと明瞭に喋った。いわば、学級委員や生徒会長になるようなタイプだった。
Kの授業は全く容赦がなかった。生徒は私語をする事も許されず、与えられた問題を黙々と解いていた。確かに、真面目に勉強をしようと塾に通っている生徒にとって、Kの授業は至上のものだったろう。生徒の意志とKの授業との歯車がガッチリと組み合わさった時、それは素晴らしい成果を生み出した。
それによって、塾内でのKの権力は強かった。社員も、他の講師も、Kには逆らおうとはしなかった。確かにKの言う事は理に叶っていたし、Kの授業は塾や生徒にとって理想的なものである事は間違いなかった。誰もあえて異を唱えようとはしなかった。唱えた所で、一般的見地からしてKの方が正しかった。
しかし、生徒の中には、真面目に勉強をしようという者は少なかった。と、言うよりも、親に強制されて嫌々ながら塾に通っている者が大半だったろう。
そんな生徒はKの担当から外され、私やその他の「適当に手を抜いている」講師にあてがわれた。それはまるでKとKの担当する生徒がエリートで、私や私の担当する生徒が落ちこぼれのような印象をもたらした。
私はKが好きではなかった。その授業形態が好きではなかった。Kが塾で指導する時間が多く、学校より塾を上に考えているとう事実もその気持ちに拍車をかけた。
しかし、その気持ちを表立って出す事はなかった。出した所で、別段自分に有利な展開になるとは思えなかったし、塾内で奇妙な軋轢が生じ、自分にとって塾が居辛くなる結果になる事は目に見えていた。私はできるだけKに近づかないようにしていた。近づいても何の得にもならないと悟っていたからである。
M少年は、もちろん真面目な生徒ではなかった。と言うよりも、私が担当した中で1、2を争うほど不真面目な生徒だった。授業を脱線しようといつも隙を伺っており、私は脱線しそうになる授業を立て直す事に必死だった。
Kを学級委員だとしたら、M少年はクラスに1人はいるお調子者だった。そして、おそらくは学校で弱い立場にいると思われた。そういう雰囲気というものは、自然と所作に現われるものだ。KとM少年はまるで水と油のような関係であり、当然、M少年がKの授業を受けることはなかった。
しかし私はM少年が嫌いだったわけではない。むしろM少年の事を好いていた。
確かに授業を進めていく上では、やりにくい事この上なかったが、彼のひょうきんな態度は見ていて面白かったし、ほとんど彼から自発的に発せられる世間話も興味をそそられた。それは彼らの年代にしか味わえぬ、様々な「遊び」の話であり、そういった話は聞いていて面白く、半ば単純なルーチンワークと化していた私の授業に、ちょっとしたアクセントを加えてくれた。
そう、M少年とは、ある意味で「いい関係」が保たれていた。それはもしくは「類は友を呼ぶ」というものかもしれなかった。私も中学時代、M少年のような生徒だったからだ。私もM少年と同様に、勉強するより遊ぶ方が好きな、クラスに1人はいるお調子者だった。
そんなM少年との関係は、割合うまくいっていた。M少年も私になついていたし、私もM少年と談笑するのが楽しかった。2人の関係は教師と生徒と言うより、年の差がある友達同士といった方が適切だった。
しかし、事件は起こった。
その日は、ちょうど私のブースとKのブースが隣同士だった。私の担当するM少年は、例の如く時間になっても現われず、私は隣室のKの授業を聞くともなしに聞いていた。
15分ほど遅れてM少年がやって来た。
「先生ゴメン。バスに間に合わなくってさ」
「いいから座れよ。全く。宿題やった?」
「うん。途中までは」
「途中までって?全部やってないの?」
「うん。つーか、宿題多すぎだよ」
「そんな事ないって。普通だよ普通」
M少年との会話はいつもこんな感じだった。しかしいつもと違うのは、遅れて来たM少年の気分が妙に昂ぶっていて、いつもより私語が多い事だった。
私はそこでその事を注意すべきだったのかもしれない。叱るべきだったのかもしれない。しかし私はそうしなかった。(まあ、これくらい、いいだろう)という気持ちがあった。
授業はなかなか進まなかった。M少年がことごとく話の腰を折るため、そこかしこで授業が分断されるのだった。
私はそれでもいいと思っていた。こういうパターンは初めてではなかった。多分M少年はその日あまり勉強したくなかったのだろう。もしくは学校で何かがあって、それで興奮していたのかもしれない。そういう場合は、いつもより多めに世間話に時間を割いてやるのがいい。私はそれが最善策だと考えていた。
M少年の声は次第に大きくなっていった。私はさすがにやんわりと注意したが、彼の心はその注意を聞き入れるほど冷静ではなかった。
すると、突然ブースの壁が叩かれた。
バンバン!
「うるさいぞ!静かにしろ!」
Kだった。
これには私も驚いた。Kは社員でもなんでもなく、私と同じ一講師なのである。その一講師に怒られるとは、全く予期せぬ出来事であった。M少年も全く予期していなかったのだろう。目を丸くして驚いていた。
「先生、あれ、オレ等の事かな?」
「ああ。そうかもな」
みるみるうちに、M少年の表情が暗くなった。彼は、ほとんど泣き出しそうなくらいしおれていった。
思えば、M少年はその日学校でいやな事があったのかもしれない。その反動で塾で明るく振舞っていたのかもしれない。よくある事だ。私にもそういう経験がある。
しかし、M少年は塾でも叱られる結果になった。彼はその後ずっとうつむいて、ほとんど言葉を発しなかった。
今思えば、私はそこでKに反論すべきだったのかもしれない。私には私の授業形態があり、M少年はその中にいた。確かに塾というのは勉強を教える場所だが、それ以前に、人と人とが出会う場所である。M少年は塾を1つのよりどころとしていたのかもしれない。私と一緒にいる空間が、1つの安息所だったのかもしれない。
そんな場所が、Kの一言により全く別の現実的な場所へと変わった。安息所は、もはや安息を得られる場所ではなかった。そんな時、M少年はどこへ行けばいいというのだろう?
結果として私はKに反論しなかった。反論していればおそらくケンカ腰になっただろうし、話はさらにもつれ、塾を辞めさせられる結果になったかもしれない。実際、授業が終わって私を見るKの目は敵意に満ちていた。
しかし、私は何もしなかった。敵意のまなざしをそらし、黙々と自分の作業に没頭した。
ああ、私はあの時、Kと対決すべきだったのだ。
M少年を「友人」と考えていたのならば、そこで反論すべきだったのだ。
そうすれば、M少年のあんな悲しい表情を見る事はなかっただろう。M少年に、あんな辛い思いをさせる事はなかっただろう。
私は、M少年を守ってやる事が出来なかった。友人を守ってやる事が出来なかった。その自分のふがいなさを、今はただ、腹だたしく思う。
M少年は次の授業の時には、元の快活な少年に戻っていた。しかしそれはあくまで表面的なもので、内面的には以前とはどこか違っている印象を私に与えた。
思春期というものは難しい。きっとM少年はM少年なりにKの言葉に影響されたのだろう。しかしそれは、どう考えてもマイナスにしか作用していないようだった。欠点を直すというより長所をなくす結果になっているように思われた。
結局、私は塾を辞める最後の日まで、Kと対決する事はなかった。
M少年は私が塾を辞めると聞いて、少し悲しい顔をしていた。そんなM少年に、私は自宅の電話番号を教えた。これは塾では厳重に禁じられている事だったが、もはや塾を辞める事を決めた私には、何の迷いもなかった。
それからもう何年も経つ。
私はその後、もはや塾でバイトする事なく、大学を卒業した。
M少年からは一度だけ電話があった。内容は覚えていない。確か塾でよく話していたようなたわいない話だったと思う。
今、M少年は何をしているのだろう?
私の記憶が正しければ、彼は今年で二十歳になる。
あの日の出来事は彼の心の中で、どのように位置付けられているのだろうか?
あの日の出来事が彼にとって深い傷になっていない事を祈りつつ、私はここで筆を置く。
いつの日か、1人の大人同士として、彼と語る機会があれば・・・。
作者より
これを書いたのは2年半ぐらい前なんですけど、それからもM少年には会ってません。
でも、今さら会えませんよね。
感想、お待ちしています。