座礁し続ける男
彼はそう、
いつだったかも忘れた。
昔からこの港町にいる。
俺は海辺の小屋に住んでいて、
そいつはずっと海から出て、
行こうとしていた。
ある日は手製のボートで。
ある日は漁船を借りて。
ある日は、何を思ったか泳いで。
理由は知らない。
聞いたこともない。
そもそも話したことがない。
俺はただ、見ていただけだ。
男はいつも、一心不乱だった。
何かに追われているみたいな顔で、
この港からの脱出を試みていた。
だが妙なことに、絶対に出られない。
水平線へ消える。
数日ほど経つ。
すると浜辺に横たわっている。
死んでいるのかと思えば、生きている。
目を覚まし、砂を払い、また海へ向かう。
それを何年も見ていた。
狂っているのかもしれない。
だが、狂っているだけでは、
説明のつかないこともある。
旅客船は普通に出ていく。
漁師の船も戻ってくる。
風も潮も彼以外には何もおかしくない。
まるで海だけが、
男を選んでいるみたいだった。
まあ、とりあえず今日も仕事へ行こう。
俺の仕事は港の見回りだ。
ロープの確認。
桟橋の補修。
流木拾い。
港町というのは退屈で、
退屈だからこそ色んなことに気づく。
男が海へ出る日には、決まって目が変わる。
熱病みたいな目だ。
その夜もそうだった。
外は荒れていた。
風が唸り、雨が小屋を叩いていた。
窓を見る。
男がいた。
ずぶ濡れで立っていた。
俺は何故だか戸を開けた。
男は黙って入ってきた。
潮の匂いと、古い魚網みたいな匂いがした。
椅子に座る。
俺は何だか親近感が湧いていた。
それは全く勝手だが、
ずっと彼を見ていたからだ。
「......なあ、君。何故ずっと海へ行くんだ?」
彼はゆっくりと顔をあげて俺を見た。
それは何だか、死人のようで、
それでもその瞳は、生きた人だった。
「あの、私はね、死にたいんです」
死にたい? 何故?
「訳を話します。
貴方は私を見守ってくれていた。
ずっと、静かに。だから、
聞いてくれませんか」
彼はこう言った。
ずっと昔、
俺がここへ越してきたくらいの頃。
この海で一人の女性が、
海難事故に遭い命を落とした。
その日の海は凪いでいて、
しかし何故か急に海が荒れ、
あっという間に海にのまれた。
そこから、彼はずっと海に行き、
そこで死のうとしていたらしい。
その人の元へ逝くために。
だが、何故か死ねない。
ずっと海に拒絶される。
こんなにも死にたいのに。
「何故なんでしょう。
私は死んでしまいたいのです。
なのに、なのに......。
私には死ぬことも、死のうとすることも
許されていないのでしょうか」
それは、何というか、そうだったのか......。
俺はずっとここを出たいとか、
乱心しているとか、
そういうことだと思っていた。
だが、それを聞いて納得した。
彼には何か、
強い意志のようなものを感じていたからだ。
「なあ、君。月並みで、つまらなくて、
それでも俺の意見を言うが、
君は、君を死なせたくない人がいる。
そうなんじゃないか?
少し考えてみてくれ。
何故死ねないのか。
海は君を守っている。俺はそう思う」
男は俯いた。
長い沈黙だった。
波の音だけがする。
「守っている……」
ぽつりと、男は繰り返した。
「私を……?」
俺は答えなかった。
答えなんて持っていなかった。
ただ、そう思っただけだ。
男は濡れた手を見ていた。
皺だらけの指先。
何度も櫂を握り、
何度も海へ出て、
何度も戻された手だった。
「......明日、海へ出ます」
「何故だ?」
「確かめるために」
そして次の日、彼は海へ来た。
俺は見守っていた。何かあった時のため、
救命浮輪ももってきた。
ざばざばと海へ入っていった。
そして、海の中へ。
数時間が経ち、彼は浜辺で寝そべっていた。
横へ座る。
「......で、どうだった?」
彼は体を起こして、
「帰れ。そう言われた気がしました。
生きてくれと。そして」
左手を見せた。
いつもつけていた薬指の指輪が、
無くなっている。
「とられました。海に。
これは......」
「君にはもう分かっているだろう」
俺は立ち上がって帰っていく。
「じゃあな。もう死のうとするなよ。
君の大切な人のためにも」
その人は去っていった。
私は、座って海を見ていた。
海は静かに波を寄せて、
返して、足元を濡らした。
あの日、私は助けられなかった。
何度も、何度も思った。
私が代わりに死ねばよかったと。
何度も、何度も泣いては泣いて、
そして海に出た。
最初は気晴らしか何かだった。
だが途中からは、一心不乱に。
もう死にたかった。
陸上では駄目だった。
海で死んで、
あの人のもとへ行きたかった。
だが、そうか。
そうだったんだな。
君が。
君が、そうだったんだ
それからの彼の行方は分からない。
彼が海へ来ることもなくなり、私は、
いつも通りに海へ祈り、仕事へ行く。




