消去
見えない壁の向こう側。
時間が動き出すのを感じた。
タケルに助けられたという自覚のない幼い私が。
笑いながら、お母さんと手をつないで歩いていく。
タケルのことを知らずに、
そのまま遠ざかっていこうとしている。
私から、タケルの記憶が消えていた。
幼いころに助けられたという記憶が。
こうして今。
目の前でタケルに助けられたのを見たのに。
こうしてタケルは傷ついているのに。
今のあたしにはその記憶が、ない……。
何事もなかったかのように。
だけど。
この気持ちは、消えていない。
――――――涙が、止まらない。
このまま、枯れてなくなるまで泣いていたい……。
タケルと出会い。
触れ合って。
たとえ、会ってはならない運命だったとしても。
―――――― 愛して。
……愛したのに。
……愛、した……のに……。
タケルは……。
もう、どこにもいないの?
もう二度とあたしの名を呼ばないの……?
―――――― 死ねたら。
このまま、死ねたら。
……もう、二度と動かない、タケルを。
タケルを抱きしめたまま。……一緒に、死ねたら。
「馬鹿なことを考えるなよ。……それだけは僕が許さない」
少年が。
あたしの前に立ちふさがった。
「タケルは。自分の命すらかえりみず、あんたを助けたんだ。それを無駄にするのか?」
冷たい言葉。
……だけど。
あたしに、大事なことを思い出させてくれた。
……あたしは死ねない……。
タケルの死を無駄にしないために。
タケルの愛を、裏切らないために。
……痛い……。
……つらい、よ……。
この胸の張り裂けるような思いのまま……。
それでも。
生きなければならない、未来を思う。
「タケルは、僕が預かるよ。……このままここには放ってけないしね」
あたしの腕の中から。
タケルの身体が奪われる。
少年が確かめるようにタケルの顔をのぞいたあと。
タケルの身体を。
何もない空間の中に消してしまった。
「次は、あんたの番。……自分の時間の中に戻りな」
視線が、私へと向けられる。
その言葉が意味すること、は。
少年の手が、私に向けられて。
少年が、あたしから記憶を。
タケルに関するすべての記憶を。
……奪おうとしていた。
「すぐ楽になるよ。……タケルから頼まれてるんだ。あんたから自分の記憶をすべて消してやってくれと。あんたがつらい思いをしなくてもすむようにって。……まあ、本当は結果がどうだろうとあんたから記憶を消すつもりでいたけどね」
……タケルが……?
それだけは……いやっ……!
「お願いっ、消さないで! もう……つらいなんて思わない、死にたいなんて思わない……、だから、だから……」
もうあたしから何も奪わないで。
もうタケルに会えない、
もうタケルの声も聞けない、
それでも生きていかなきゃならないなら……。
せめて記憶だけでも。
あたしに、タケルを遺して……!
全身が支配されたように。
動けなくて。
声も出なくて。
ただ、涙だけが。
少年の手が、あたしの額に当てられて。
それでも。
それでもあたしは。
目を見開いて、残された唯一の抵抗を。
忘れない!
絶対に、忘れない!!!
忘れない……っ!!!




