婚約破棄された悪役令嬢、幸せだった思い出を振り返って……
扉を閉める。
喧噪が遠のいた。
カツン……
ヒールがテラスを叩く。星々の煌めきが聞こえそうなほどの静寂に、無機質な音が響いた。
ルシアン様の手が離れた。
彼は星に興味を示す様子もなく、月明りに輝く手すりを掴んだ。
振り返る。陰っていた表情が、光に照らされた。
「君との婚約を、破棄する」
その瞬間、屋敷内でのパーティーのざわめきが、私の鼓膜に響いた。
彼は私の瞳を探るように見つめた。どのような反応をするのか、観察している。私は、そのように受け取った。
「理由を、お聞きしても構いませんか?」
「理由? 自分の胸に聞いてみたまえ」
顎を突き出し、私を見下ろす。
軽蔑する目だった。
ああ、そうか、彼は知ってしまったのだ、と私は自分の推測が正しかったのだと確信した。
視界が、揺らいだ。滲み出すものを堪えようと、ゆっくりと瞼を閉じた。
彼の反応はもっともだ。
私は自分の行動を振り返った。星空の元、私の鼓動を速めたのは、一階から轟く音楽と笑い声だった。
本日は彼の妹君シャルロット様の誕生パーティーだ。間もなく主役が登場し、盛り上がりはピークを迎える。
その直前のタイミングでわざわざ私を呼び出すとしたら……
「シャルロット様、のことでしょうか?」
「いくら、私とシャルロットが仲のいい兄妹だからと言って、嫉妬にしては少々やりすぎではないか」
「そのこと、ですか……」
聡明なシャルロット様は勘が鋭い。彼が私に抱く感情と、私が彼に抱く感情の差異をすぐに見破った。
昔から、社交界でも仲睦まじいことで有名なご兄妹だ。シャルロット様と、彼の距離が近くなるほど、私の行動に楔を打ち込まれ、想いを否定される危険性が大きくなる。
だから、それとなく、彼にはシャルロット様の言動には信頼が置けないことを示唆し、社交界では彼女の不用意な振る舞いをわざと指摘し、彼女の評判を落とすように仕向けた。
それが私の幸せに繋がるのだと信じていたから。
「もう二度と、私たち兄妹には近づかないでくれ」
私は手すり越しに星を眺めていた。
風が強く吹いた。強風で叩きつけられた扉の音が響き、私は身を強張らせた。
彼の姿は、そこにはもうなかった。
しばらくして、階下から主役の登場を祝う拍手が聞こえてきた。
何て心地の良い音なんだろう。拍手の波に身を委ねて、星の煌めきに心を預けた。強めの風が、私の頭を撫でるように通り過ぎて行った。
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私の誕生日を祝う盛大な拍手の中で、あなたの拍手は一際大きく私の耳で木霊した。
私はそのリズムに置いて行かれないように、心を躍らせ、ステップを踏み、並んだ笑顔に向かって頭を下げる。
そんな一連の流れにあっても、あなたの視界からは外れないようにしていた。
恋という感覚すらない。そんな年ごろだった。
「行こうよ」
タイミングを見計らって、あなたは私の手を引いた。大広間から階段を上り、あなたはテラスの扉を開き、優しく私を招き入れてくれた。
手すりまで二人で並んで歩いた。この日は満天に広がった星々が、私たちの視線を招くように煌めいていた。
「あ、光った」
あなたの指先を見た。私が輝く星を見つけると、あなたは眩しく笑った。
忙しく二人で星を探しては笑った。もうすでに私たちが一緒にいることは自然だった。
会える機会なんてほとんどなかった。
でも、一年のうち、確実に会える日が二回ある。
私の誕生日と、あなたの誕生日。
自分の誕生日が待ち遠しかったのは、私が生まれた日をみんなが祝ってくれるからでも、プレゼントが貰えるからでもなかった……
「ヴィクトリア、あれだよ」
お互いの誕生日はいつも晴れていた。あなたはテラスから仰ぐ星空が好きで、覚えてきた星を私に教えてくれた。
小さな指が星空を流れる川に沿って、宙に緩やかな線を辿る。羽衣のように柔らかそうな帯が星空を二つに裂いて、白く輝いていた。
今日教えてくれたのは、輝く星々の両岸で、足踏みするように、そっと見つめ合う二つの星だった。
白っぽい星と、青白い色をした星、あなたが教えてくれた。
「一年に一回しか会えないんだって」
説明してくれるあなたの顔が哀しそうだったのは、私の勝手な思い込みなのだろうか?
「私たちは、二回だよ」
私の誕生日、そしてあなたの誕生日。
「あっ、そっか」
苦笑いして髪に触れる。
二回会えるだけ、星たちよりはマシだった。
次の年も次の年も、私たちは二人きりでテラスに出た。
やがて成長し、心も体も大人に近づいた頃には、私たちは確かに恋に落ちていた。
そして、次の年は雨だった。
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そういえば、あの時以来見ていなかった。
思わず手を伸ばしていた。
星たちは、あの時と変わらず、暗闇を鮮やかに輝かせている。
私が引き合わせてあげたい。
突き上げた手の中に、星が隠れた。
星の光が、暗闇に滲む。
今なら誰もいない。少しくらいなら……
私は白手袋を摘まんで外した。瞼を閉じた。溢れたものが頬を伝う。吹き付けた風が、すぐに乾かしてしまう。
この屋敷のテラスに来ることは、もう二度とないのだろう。
私は星空に背を向けて、扉を閉めた。
さよなら。
うつむいて口元を押さえた。
足早に階段を下りる。
この感情に心を任せてしまってはダメだ。できるだけ平静さを装って、皆さまの間をすり抜けて、外へ出よう。
幸い、広間は誕生パーティーの最中だ。お酒も入り、賑やかに談笑している。私の表情など誰も気に止めないだろう。
そもそも、婚約破棄のことを知っている人と言えば、私と……
足元に人影が立った。
ルシアン様がワイングラスを片手に私を見下ろしていた。頭上から足首まで、眉根を寄せてゆっくりと視線を移す。その目は昨日までとは、打って変わって冷たい目だった。
よほどシャルロット様のことを大事に思われているのだろう。私がしでかしたことを決して許すまい、その目からは強い意思を感じた。
私は彼の隣を無言で通り抜け、外へ向かう。
扉を開ける。廊下に出て、閉まる寸前に、近くの人影の手を掴んで引き寄せた。
人目を気にして抗うかと思ったが、一緒になって早足で、いや、駆け出すくらいの勢いで私たちは歩いた。
庭園に出る。
その途端、堪えていた笑いを我慢できなくなった。口から手を離すと、声が零れた。
手を繋いだまま、小さく笑い続け、噴水の傍まで来ると、ようやく私はティオルを見上げた。
「ヴィクトリア?」
「うまくいったよ」
「もうこれで、僕たちに障害はないんだね」
「うん!」
返事をする声が弾んだことに驚いた。
私は、こんな明るい声を出せるんだ。
早く、とせかしながら、私はベンチまで手を引き座った。
久々に二人で見上げた星空は、今までで一番澄んでいた。
少し強めの風が吹く。きっと目が乾いたんだ。だからこんなに目が潤むんだ。鼻を鳴らし、声を出さないように唇を引き絞った。腿の上で拳を結んだ。肩が震えた。
あなたは、そっと私の瞼を拭ってくれた。
初めて会ったときから、あなたはずっと優しい。
微笑みかけるティオルを見て、自分がしたことは間違っていなかったと思った。哀しみの涙を喜びに変え、これからも私はこの道を歩き続ける。
笑顔を返そうとすると、屋敷の扉が開いた。
屋敷内の光が溢れ、暗闇にルシアン様の姿を描いた。彼は首を左右に巡らせ、庭園を見渡した。
ベンチに座る私たちを見つけると、一歩進み出る。
「どういうことだ?」
「私たちが恋仲であったことは、ご存じだったはずでは?」
腰を上げたティオルを制して、私は立ち上がった。
二人の仲を知っていながら、強引に割り込み、実家の力を後ろ盾に婚約まで迫ったのは自分ではないか。
おかげで、婚約破棄という事実を勝ち取るまで、私がどれだけの苦労を強いられたか彼には知る由もない。
シャルロット様くらいだ。婚約から現在に至るまで、私の想いが何ら変化していないことを看破したのは。
結婚を早めようとする素振りがあったため、危険を冒して予定を早め、彼女の評判を貶めた。
ルシアン様は瞳に怒りを携えて首を振る。
「そのことではない」
違う?
となると、知ったのは、あちらの方か。
彼が私に想いを抱き、実家の力で婚約を締結させたのならば。できるだけ火の粉を小さくするために、彼から婚約破棄を申し出るように仕向けるには……
私が嫌われ、彼の恋心を打ち砕くなら、即効性がある。
時間はかかるが実家の力を削ぐ選択肢もある。
確実性を求めるならば、両方手がけておくべきだろう。
シャルロット様をそしったことで前者の目的は達成された。その結果が今夜の婚約破棄だ。今頃問いただしてくるのなら……
「そちら、でしたか」
まあ、そちら、と言っても、「どれ」のことかは私には分からないけれど。
「そちらとはどういうことだ!」
「さて、どちらでしょう?」
私にも分からない。
なるべく足がつかないように動いたつもりだけど、どこからか私に辿り着いて彼の耳に入った、ということだろう。
経済的信用を棄損させ、彼の実家の支持基盤切り崩しを図り、シャルロット様の信頼低下に乗じて、家全体の悪評を流す。ルシアン様に対抗できるよう、拮抗勢力の庇護下に入る。
時間さえ確保できれば、もう二度とこちらにバカげたことを言い出せないように、私たち自身も力を蓄えることができる。
既に種は蒔いた。逃れらない。これからもあなた達は力を失い続ける。
「ねえ、ルシアン様……これからは、権力で私たちをどうにかできると思うのはおやめくださいね」
これは忠告だ。
あなたの、そのくだらない欲求のために、これ以上犠牲者が増えないように。
増えたとしても、その報いは全てご自分に返ってきますよ。
私が、お渡しします。
「さきほどの、テラスでの所業、あれがどのような意味を持つのか、お分かりですか?」
勝手に婚約を成立させておいて、私が仕向けたこととはいえ、あんなきれいな星の下で、蔑むように見下すなんて。
「いったい、何を言っている? そんなことより……」
私は白手袋を叩きつけた。彼に触れられた手袋などいらない。
彼の話はどうでも良かった。答えは決まっている。「全ては私の仕業です」だ。
「あなたは私の思い出を踏みにじった」
私とティオルが何年もかけて積み上げてきた思い出を、あなたの視線と言葉が全て崩してしまった。
輝く星空を汚泥の如く塗り潰され、慙愧の涙を堪えた私の屈辱が理解できるのか。
鍵を掛けて、心の奥底にしまい込んでいた宝石箱なのに。
あなたはそれを取り上げて、ドブに投げ捨てたんだ。
「報いは受けてもらいますよ」
この気持ちだけは想定外だった。
それだけ私にとって、ティオルと眺めた星空は神聖なものだったんだ。
私は手のひらで目頭を押さえた。風に煽られていると、額の熱が少しずつ引いていった。
そうだ、彼の疑問に答えないと。
「お察しの通り、全て私が仕組んだことです。あなたから、婚約の破棄を申し出ていただくためです」
「とんでもない、悪女だな。君は……」
人の幸せを壊しておいて、よくそんな戯言を言えたものだ。
望まぬ婚約をさせられ、一生心を監獄に閉じ込められるところだった。
絶望しかなかった。
なりふり構わず、目的だけは冷静に見据えた。
「気持ちを縛り付けるだけの人生なんてまっぴらです。幸せのためなら、喜んで悪役にだってなれますわ」
そういって私は微笑んだ。
きっと彼に向けた笑顔の中で一番のものだっただろう。
ルシアンは扉に背をぶつけ、膝を崩した。
「そして、これは始まりです。忘れないで、ルシアン……」
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