メアリーの憂鬱 後編
突然、私が軟禁されているチャートリー城にお忍びでやって来て、会食を催したエリザベス。
供されたのは、何を思ったのかスコットランドの庶民料理ハギス。
ハギスを黙々と食べ進めていた彼女が、突然こう切り出した。
「スロックモートン事件というのを覚えていますか?」
覚えているも何も、一昨年の話だろう? スロックモートンという男がスペインの後ろ盾で企てたという、エリザベス暗殺の陰謀事件。
「ええ、もちろん覚えております」
「その事件にあなたも関与していたのではないかと疑っている者たちがいましてね」
そうらしいな。エリザベスを暗殺して、私を擁立する計画だったのだとか。
言っておくが、私は直接関与してはいない。スペインやフランスが勝手に企てたことだ。
けど、その一件のおかげで、私への監視はますます厳しいものになってしまった。
「特に、サー・フランシス=ウォルシンガムなどは、何とか関与の証拠を掴もうと躍起になっています」
「ああ、あの黒ずくめのいかれピューリタンですか」
エリザベスの秘書長官で、国中に諜報網を張り巡らし、女王暗殺計画を何度も阻止してきたと言われている男。
熱狂的プロテスタントで、カトリックを目の敵にしている。
有能であるのは間違いないが、いかにも陰険そうな顔つきで、色黒な上に黒い服ばかり着ているものだから、悪魔の弟子にしか見えないんだよな。
「そう、いか……」
同意しかけて、エリザベスは一つ咳払いをし、声音を改めた。
「彼は有能で忠誠心篤い人物です。侮辱するのはおよしなさい」
「失礼いたしました」
一応謝っておく。
が、エリザベス自身も、あの男を好いてはいないのだろう。それでも、内心で嫌いながらも使いこなしているという点については、賞賛すべきなのだろうと思う。
それに引き換え私の人事は、人物に対する好悪が露骨に出てしまっていたからなぁ。
今更反省しても、もう遅いかもしれないが。
「単刀直入に言います。私はあなたを断頭台に送りたいとは思っていません」
面と向かってそのようなことを言われると、さすがにびくっとしてしまう。
その言葉はこの女の本心なのだろうか? けれど、私を始末してしまいたいと思っているのなら、わざわざ警告する必要もないはずだし、その機会だってこれまで何度もあった。やはり本気で言っているのか。
「陛下のご寛恕には、心より感謝しております」
社交辞令ではあるが、実際、本来ならとっくに処刑されていてもおかしくない、ということくらいは私も承知している。ちょっとくらいは感謝しているよ。
私が殊勝げに頭を下げると、エリザベスは鷹揚に頷き、言葉を続けた。
「プロテスタントとカトリックの争いも、いい加減終わりにしたいですしね」
ああ、その点は全面的に同意だ。
そりゃあ、私自身プロテスタントは嫌いだし、改宗させられるくらいなら死んだ方がましだと思ってはいる。
けれど、だからと言って、フランスの元姑や、エリザベスの異母姉みたいに、プロテスタントは皆殺しだ、みたいなのも勘弁願いたい。
スコットランドでは両者の醜い争いにうんざりさせられてきたし、それはエリザベスも同じなのだろう。
「私ももうすぐ五十の坂を越えます。もう、結婚して跡継ぎを産める望みもないでしょう。そうなると、テューダー家の血を引く王位継承権者はごくわずか。あなたか、あなたの息子であるスコットランド王ジェームズ陛下くらいしかいません」
エリザベスはそこで言葉を区切り、私の目をじっと見つめて言った。
「あらためて言います。レディ・メアリー。私に忠誠を誓ってはくれませんか? そうしてくれるなら、あなたの息子にイングランドの王冠を被らせると約束しましょう」
エリザベス本人の口からそう聞かされて、さすがに驚いた。
それは前々からわかっていたことではある。しかし、エリザベスにも非公式な愛人はいるという話だし、隠し子の噂もあったから、どうせどこからともなく「王位継承権者」とやらが現れて、息子にお鉢が回ってくることはないだろう――。漠然とそう思っていたのだ。
私がスコットランドを逐われた時、あの子はまだ一歳。きっと私の顔も覚えてはいないだろう。
先年には家臣の城に監禁され、ようやく救い出される、といった事件もあったと聞いている。苦労ばかりかけて本当に申し訳ない限りだ。
思い起こせば、フランスに渡った私は、周囲の人間から、あなたこそが真のイングランド女王だなどと言い聞かされてきた。
実際、テューダー家の血脈からいえば、エリザベスよりも私の方がずっと毛並みは良い。
それですっかりその気になっていた時期もあったのだけれど……。
結局、それに振り回される人生だった。
もし、私が有しているのがスコットランドの王位継承権だけだったなら、もっと別の人生もあり得たのだろうか。
けどそれもこれも、もう今となってはどうでもよいことだ。
ジェームズがイングランド王になる、という話も、嬉しくはあるが、もう一つピンと来ない。
今はただ、あの子に逢いたい。その思いだけだ。
私は椅子から降りてその場に跪き、辛気……もとい、エリザベス陛下に誓いを立てた。
「陛下に永遠の忠誠を誓います。今後、不逞の輩を側に近付けたなどと良からぬ噂を立てられるようなことの決して無いよう、身を慎むことをお約束いたしましょう」
その言葉を聞いて、エリザベスも安心したような表情を浮かべた。もちろん、だからと言って私への警戒を全面的に解いてしまうほど、甘い女ではないだろうが。
エリザベスに促され、私は椅子に座り直して、食事を再開した。
ハギスの野趣あふれる味わいに、ふとスコットランドのことを思い出す。
エディンバラ近郊の森で狩猟に興じたことは、あの国での数少ない楽しい思い出の一つだ。
ジェームズと一緒に狩りが出来たら、どんなに楽しいだろう。
ふと、そんなことを考えた。
食事会を終え、エリザベスは帰って行った。
私に忠誠を誓わせて、満足したのだろうか。
それとも、内心では相変わらず警戒しているのだろうか。
けれど、悪意を持って私を陥れようと企んでいる様子ではなかった。
少なくとも、私の処刑を回避したいというのは本心なのだろうと思う。
私を喜ばせようと、わざわざスコットランド料理を用意してくれた心遣いにも――いささか的外れではあったけれど――、素直に感謝するとしよう。
椅子に腰掛け、そんなことをとりとめもなく考えていると、侍女に声を掛けられた。
「レディ、ビール樽が搬入されました。スコットランドからのものです」
その言葉を聞いて、私は椅子からそそくさと立ち上がり、ビール樽の中身――油紙で包まれた手紙を受け取った。
昨年、私信のやり取りを禁じられて以来の、外部との通信手段だ。
暗号文で書かれたそれは、息子ジェームズからのもの。密かに根回ししていた案件への回答だろう。
エリザベスのおかげで、ちょうどあの子のことを考えていたところだった。きっと色よい返事に違いない。
この話が上手く進めば、あの子を傍で守ってあげることも出来るようになるだろう――。
弾む心を抑えながら、私は暗号文を解読していった。