否定と肯定
ボサボサになった髪を直すように首を振る一つの影。
暗がりの中を灯す青い炎で生み出される影に不気味さはなく、この寒さを打ち消す温かさもない。幻想的に映るわけでもなく、ただ、影ができているだけ。
だけど、私には笑っているように見えた。
ただの、なんてことのない影のはずなのに……。
隣りにいた人は何かを察したのか、こう呟いた。
「今回は早かったな」
意味がわからなかった。私が愚か者だからだろうか、それとも新参者だからなのか。もしくは、その人だから分かるのか。
不思議に思いながらも、私は檻の中から祈るように両の手をつなぎ、目を瞑った。
こんなことに意味なんかありはしないと頭の中で自嘲しながら。
それでも、聖職者たちの真似事をやめなかったのは、そう言わなければと言う焦燥感が記憶のないこの身をおそったから。
『あの影の子が幸せを見つけられますように』
影が困ったように笑った気がした。
◆◇◆◇
裁判の後、自室へと戻っていたクリスティーナはライのことを考えていた。
今までの家来の中でも長くいると同時に、私の息子であるライ。
飽き性で傲慢なクリスティーナにとっては珍しく、特別な存在になっていた。
ライのことを考えると自然と口角が上がるくらいに、クリスティーナはライを愛していた。
「そろそろライの誕生日が来る。任務とは別に褒賞を与えなくてはな。何がいいか……」
クリスティーナは雑誌『子供に喜ばれる母親の行動ベスト50』を読みながら一人笑っていた。引き出しの中に今まで渡しきれていなかったプレゼントがあるにも関わらず、クリスティーナは今年もプレゼントを用意しようと奮闘していた。
そんなとき、背後から自身の名を呼ぶ声が耳朶に届いた。
「クリスティーナ様……!!」
自室にノックもせず侵入してきた家来にクリスティーナは心底不快そうな顔を浮かべ、目の前の鏡越しに家来へ睨みをきかせた。
だが、緊急事態で余裕のなかった家来はクリスティーナの機嫌などお構いなしに息を切らしながら言葉を紡ぐ。
「黒髪の男の侵入を許してしまいました……!! 我々では手に負えず、何卒お力添えを給わりたく――――」
「黒髪の男とは今、お前の後ろに立つ者のことか?」
「後ろ……ぎいやぁ?!」
盛大に腰を抜かした家来はガクガクと震えながら、クリスティーナに助けを求める視線を送る。
しかし、クリスティーナは助けない。それどころかクリスティーナは家来をその場で燃やし尽くそうと、権限を使用する始末だった。
「おいたがすぎるな」
「侵入者をここまで案内する役立たずの家来を助けるなんて物好きがいたものよな」
蔑みの含んだ声で挑発するクリスティーナにアランは困ったように苦笑しながら事実を告げる。
「俺相手だししょうがないだろ? それに侵入者扱いとは人聞きの悪い」
「不法侵入、タメ口。そして、我の邪魔をしたこと。貴様は、先程から万死に値することしている自覚はあるか?」
「この紙を見ても同じことが言える?」
「それは……!!」
クリスティーナは目を大きく見開くと、後ろを振り返った。そしてアランの手にある契約書を忌々しそうに睨みつけた。
アランの手にあるのは、前の冥界の主と交わしたであろう一枚の契約書。
クリスティーナが冥界の主となった瞬間に破棄され、すべてなくなっていたと思っていた紙切れ。
ただの契約書であればまだよかった。冥界の主の権限でそんなものすぐに破棄できる。
だが、この男が持つ契約書だけはクリスティーナにも破棄ができなかった。この契約書は今もなお己ではない冥界の主の権限が付与され、守られている。契約内容の効力を弱めることができたとしても自分のものではない契約を完全に消すことは不可能。
「まだすべて破棄されていなかったとはな」
欺いて手に入れた冥界の主という玉座。
手に入れたと思ったそれは不完全な玉座であったことが判明し、冷静でいられるはずがない。
欺き、見下していた相手に欺かれていたというのはクリスティーナにとって屈辱以外のなにものでもなかった。
「あの男の痕跡が残ってるだけでも腸煮えくり返るというのに一部の権限まで残っているなど……。殺すだけでは足りぬ。我を欺いたこと、後悔させてやろう」
「盛り上がってるところ悪いけど、本題に入らせてもらう」
「なっ……!?」
先ほどアランに守られたクリスティーナの家来はアランの背に隠れながら、さらにガタガタと脚を震わせるのだった。
◆◇◆◇
「ここが出口だ」
そう言った老人の体が一瞬こわばる。それを見たレオナは訝しげに老人を見た。
「どうした?」
「なんでもない。少し、外が騒がしいと思っただけだ」
「外、ですか?」
僕は言葉の意味が分からず、聞き返す。外とは地上のことだと言うことは分かるが、騒がしいとはどういう意味なのだろうか?
「私にも詳しくは分からん。権限が奪われていなかったら教えてやれたのだがな」
「動きだしたんだろうよ」
「レオナは分かるの?」
「心当たりあるだろう?」
「心当たりって……」
答えられない僕に、レオナは呆れたようにため息をつくと、ヒントを口にした。
「ヴァリテイターの本部を破壊しただろ?」
「うん。だけどこれに何の関係が? というか、なんでレオナがそのこと知っているの?」
「本当に、分からないのか?」
「普通に教えてよ」
「抜かったってことだよ。お前達が破壊したのはヴァリテイターの表層に過ぎない。ヴァリテイターの核である、本来のボスを倒していないから、報復がきているってことだ」
「何言ってるんだよ。だってボスは、ヴァリテイターを滅ぼすのが目的だって言って――」
「そんなわけないだろう? あの男がそんなこと言うはずがない。誰かと協力するようなたまじゃねぇよ。あの男は――――」
言いかけたところで爆撃が轟く。音が一瞬鳴り止むと同時に壁にいくつもの魔法陣が浮かび上がった。
「気づかれたか」
「気づかれたって?」
「伏せろ…………っ!!」
「……っ!!」
言葉と同時に頭を抑えられる。
何をするんだと。
喉まででかかっていた言葉は、己にかかる鮮血を見て別の言葉へと変貌を遂げた。
「……なんでかばったんだよ」
自分でも情けないと思う声が耳を通り抜ける。
放たれる寸前まで魔力を一切感じさせずに発動したそれは、レオナの腹を貫通していた。
見に覚えるのある光景。
忘れたくても忘れられない感触。
生温かいそれは僕の体を赤く染め続けることをやめない。
僕は震える手でレオナの胸ぐらを掴み、そして――――
「なんでかばったか聞いてんだよ!!」
烈火のごとき憤激をレオナにぶつけた。
「答えろ!!」
場が静まり返る。
答えは返ってこない。
傷を抑えながら、口を閉ざしているレオナは俯いているだけだ。
答えが返ってこないことを悟った僕は、胸ぐらを放し、おじいさんへ話しかける。
僕は回復魔法を使えない。だから、今頼みの綱は目の前の元冥界の主だけだ。
「少し、離れてもらえるか」
「お願いします」
おじいさんはレオナに触れると、杖を持つもう片方の手で床を叩いた。
杖の真下に先ほどのものととてもよく似た魔法陣が浮かび上がる。
「おじいさん」
「なんだ?」
「レオナを頼みます」
僕はそれだけ言い残し、もと来た道を走り抜けた。
後ろでレオナの止める声が聞こえたが、僕は聞こえないふりをして後ろを振り返らなかった。
リアンの姿が見えなくなるまで見送った元冥界の主は、次にレオナに向き直ると、回復魔法を解除した。
「結界がきれるのは当分先だ。隠匿の魔法も気持ち程度に発動させているから当分の間追撃は来ないと見ていい。それに、あちらはそれどころではなくなったようだしな」
「……」
「結界を張るのが遅れて悪かった」
「別に責めてるわけじゃない。あんたは何も悪くないだろ。俺の警戒心が緩んでいただけの話だ」
再び沈黙が訪れる。
元冥界の主はレオナが話せる状態であることを耳でも確かめると、意を決したように尋ねた。
「いくつか聞きたいことがある」
「なんだ?」
「どうしてあのとき理由を言わなかった? 貴様はあの子と会話することを避けているように見える。そしてもう一つ。その程度の傷なら己ですぐに回復できただろ?」
その口調はどこか責めているようであった。
うつむいていたレオナは冥界の主を一瞬視界にいれると、すぐに再び地へと視線を落とした。その様はどこか憐れみが含んでいるように見える。
「師匠に免じて一度だけ見せてやる。よく目を凝らすことだ」
レオナは己にかけた能力の出力を最低限まで下げる。
言われたとおりに目を凝らしていた元冥界の主はレオナの状態に言葉を失いかけた。
「なぜ、生きている?」
目を見開き、驚愕の声を上げる元冥界の主にレオナは苦笑して答える。
「生きてるんだから生きてるとしか言いようがないだろ。今ので見えただろうが、魔力も生命力も回復しきれてない。答えになっただろう」
「そうだな。だが、一つ目の問いには答えていない」
「……別にたいした理由じゃない」
そう、たいした理由はない。俺のプライドと意地の問題だ。
「昔の話だ。散々、人であることも、夢を持つことも否定してきた俺が、今になって人として扱い、夢を持つことを肯定しているなんざ、言えるわけがない。だから意地でもあいつの前では口にしない。怪物ではなく、人として認めていることも、夢が叶えばいいと思っていることも絶対に言わない。リアンにとっての俺は否定する存在でいい。あのときの約束を果たすためにも」
「そうか。余計なことを聞いてしまったな。ただの若人の喧嘩ぐらいにしか思っていなかったのだ。許せ」
「別に。リアンにこのことと俺のあの能力について話さないのならそれでいい。あいつは俺のことに気づいてない。だから、気づかないなら気づかないままの方がいい。夢を見せたくはないんでね」
「約束しよう。私の名に誓ってリアンにこのことを私からは話さないと」
「ああ、それでいい。世話になったな」
「行くのか?」
「ああ。リアンを連れ戻さないとな。じいさんは隠れてな。これ以上、冥界の主の権限を奪われれば、こちらが不利になる」
レオナの言葉に老人はしばし目を伏せ、考え込むと、
「……いいや、私も行く」
返答する。
「俺はあんたを守っている余裕はない」
「言われなくても分かっている。それに今、クリスティーナから権限を奪えるのは私だけだ」
「今度は騙されるなよ」
「…………分かっている」
レオナは即答しなかった老人を胡乱げに見る。
「大丈夫だ」
レオナは一抹の不安を覚えたが、ずっと気にしてもいられない。
レオナ達はリアンが走っていた方向へと足を進めるのだった。