第六話 初任務②
街とスラム街を隔てる、ひび割れた塀を越えた瞬間――空気はまるで別物に変わった。
乾いた埃に、微かに甘い血の匂いが鼻を刺激した。
昼間のうちにスラム街に足を踏み入れていたが、入り組んだ通路を抜け、警戒を重ねながら進んだせいで、オークション会場に辿り着けたのは夕暮れ近くだった。
「本当に、この階段を降りるんですか?」
オークション会場――地下へ続く階段は、井戸の底みたいに暗くて深い。
一歩がおもりをつけられたように重い。
「大丈夫。私が絶対に君を五体満足で生還させるから」
隣のオリヴィアさんが、黒曜石の仮面をつけたまま口元で笑った。
安心しろと言われたはずなのに、なぜか背中に冷たいものが這い上がる。
踏み出せない僕を見て、背後から声が落ちてきた。
「帰るんだろう?」
黒のローブを揺らし、リンさんが先に階段を下りていく。
その動きは音もなく滑らかで、一瞬だけ人間じゃないものに見えた。
紫色の瞳が振り返り、挑発するように細められる。
……そうだ。帰るためだ。それに奴隷は、よくない。人間の本質を歪める。……そう“考えるべき”だ。
怖いのは確か。だけどここで立ち止まっていたら、何も変わらない。
「えぇい、どうにでもなれ」
覚悟を押し出すように、一歩を踏み出した。
階段に足を置いた瞬間、ひんやりした空気が肺を満たす。
血と湿った土の匂いが胸をざわつかせる。懐かしい――それも、なぜか“心地よい”と感じるほどに。理由は分からない。
でも今は思い出さなくていい。
暗闇が深くなる。
やがて、ざわめきが地の底からにじむように響いてきた。
――ここが、闇オークション。
人も未来も、値札で競り落とされる場所。
階段を下りきった先、世界はまた表情を変える。
明かりが複数灯された広間。石壁は磨かれ、赤い絨毯が床に敷かれている。
壁際の椅子には、仮面をつけた来客たちが静かに腰かけていた。視線だけが、こちらに鋭く向けられる。
その眼差しには声がない。でも、確かに何かを量っていた。
正面のカウンターには黒服の係員が控えている。書類を整えるその手つきが、妙に丁寧で――逆に、不気味だ。
「書状はお持ちですか?」
「持っていない」
リンさんの短い返答に、係員の手が止まる。沈黙が落ちる。
数人の視線がこちらに集まり始め、僕は無意識にオリヴィアさんのローブの端を掴んでいた。
「それでは、次に虹が出る日付はご存知ですか?」
(虹……暗号か? それとも合言葉……?)
「いいえ」
「では、良い情報と悪い情報、どちらをお持ちで?」
「悪い情報。真っ赤に染まるトマトについて」
帳簿が静かに閉じられる。その音が、やけに大きく感じられた。
係員の視線が、ほんの一瞬、僕をかすめる。
「確認が取れました。ようこそお越しくださいました、桜のお方」
礼儀正しい笑み。けれどそこには、温度がない。
「どうぞ。素敵な夜をお過ごしください」
その“素敵”に何が込められているのか――
考えないようにして、僕はまた一歩、足を進めた。
場内が暗転し、拍手と共にスポットライトが降りる。
黒服をまとった司会者が、ゆっくりと舞台の中央に立つ。声は滑らかで、感情の起伏はない。
「ご来場ありがとうございます。皆さまの夜が価値あるものとなりますよう、努めさせていただきます」
舞台中央、黒布に覆われた檻に光が当たる。
静かに、布が剥がされた。
現れたのは――金髪の、小さなエルフの少年。
目隠し、拘束具、そして血の滲んだ足。
その姿を見た瞬間、足を動かさなければならないと思った。それを――――
「ダメだよ」
「オリヴィアさん……」
低く、諭すような声が止める。
仮面の奥、あの澄んだ水色の瞳が、静かにこちらを見ていた。僕の中の“衝動”を、まるで最初から知っていたかのように。
「どう、して……」
この人なら、あのとき倒れていた僕を助けてくれたこの人なら、目の前の小さな命に目を背を向けない。そう思っていたのに。
「唇、噛まないほうがいい」
「今はそんなこと、どうでも――」
彼女の指が、僕の唇にふれる。
驚くほど、あたたかい指先だった。
そして――――
「よくない」
僕とは反対の言葉を紡ぐ。
「君に、自分で自分を傷つけてほしくない。たとえ、それが歯を食いしばるだけのことだったとしても痛みに、慣れてほしくない」
静かに息を吸って、続ける。
「私は約束した。君を守るって」
仮面の奥、水色の瞳が、僕を真っ直ぐに射抜く。
機械的な無機質さなんて、そこにはない。心が確かにあった。だからこそ、余計に分からなかった。どうしてそのあたたかさで助けようとしないのか。
「今は私を信じて」
短く、でも強い言葉。
その目に込められた光をなぜか直視することはできなかった。
代わりに、ただ、静かに頷いた。
その瞬間だけは――足を止める理由が、確かにできた。
それから間もなくして。
「……ターゲットが移動した。行くよ」
オリヴィアさんが耳打ちする。リンさんとは別れ、僕たちは再び動き出した。
石造りの廊下を静かに進む。
目標は護衛に化けている冒険者。くすんだ茶色い髪に、中肉中背の男の人間。年は三十半ばといったところだった。
「ターゲットは東通路を抜けて、裏口の方に向かってる。間違いない」
オリヴィアさんが淡々と告げる。通路を歩く客人に紛れ込みながら一切の迷いなく進む。周りに何も違和感も印象も持たせないような己の気配の操り方に感心する。
「このまま尾行する。無理に仕掛けるのは、まだ早い」
「わかりました」
即答した自分に、一瞬だけぞっとした。
そう思った、そのときだった。
視界の端に何かを捉えた。
それは一瞬。数メートル先の曲がり角を曲がった長身の男。僕たちと同じように黒いローブを羽織っていた。
(……今の)
心臓が跳ねた。脳が即座に否定を始める。
(そんなわけない。いるはずない。ここに、レオナがいるわけが――)
でも、確かに見覚えのあるものだった。特徴的な黒髪。見えたのは一瞬だったけれど目の前にいた男の髪は光に当たって青みががった黒髪になっていた。そして時折見せる無駄のないあの歩き方。
疑いようがなかった。
「……っ、すみません、ちょっと!!」
言葉が口からこぼれると同時に、手前の角で曲がろうとしているオリヴィアさんを置いて走っていた。
「リアン君、待っ――」
オリヴィアさんの制止が背後から聞こえたが、すでに遅い。僕はすでに次の角を曲がっていた。
進むごとに、冷えた空気、ツンと鼻を突く薬品と鉄の臭いが強まる。それでも足は止まらなかった。
(どこに行った?)
視界の先、地下通路は細く、いくつかの扉と分岐に分かれている。扉の一つが、わずかに閉まりかけていた。
僕は勢いのままに扉へと手を伸ばした。
ギィ……という金属の軋みが、やけに大きく響く。
――誰か、いる。
その確信とともに、一歩足を踏み込んだところで何かを踏んだ感触。
それは黒いローブだった。拾い上げるとまだ温もりが残っている。
これは僕がさっき見たものとほぼ同じ大きさ。
そして、この部屋には見渡す限り僕の後ろを除いて扉はない。
(やっぱりここにいる)
そう確信したとき、カチリという音が耳朶を叩く。
気づいたときにはもう遅い。
銃口が僕の頭の真横に突きつけられていた。
「そこまでだ」
低く、けれど確かに聞き覚えのある声。
リアンの瞳が揺れる。
「……レオナ、だよな……?」
その問いの答えはない。だが、鋭い灰色の眼光が向けられていることは確かだろう。
「邪魔するなら今、殺す」
「……」
「まだ生きたいと思うならこのまま消えろ」
その音に感情はなく、無機質な宣告だけがそこにはあった。
「……一つだけ、聞かせて」
返答はない。それでも僕は言葉を紡ぐ。
「レオナは嘘、つかないよね?」
銃口を突きつけられたときよりも、その言葉のほうが震えていた。
どうしてその問いをしたのか、自分でもわからない。
でも、聞かなければいけない気がした。
レオナが、わずかに口を開きかけた、そのとき――
「リアン君!!」
オリヴィアさんの声が通路を震わせた。
レオナは銃口を下ろし、姿を消そうとする。
「待って……!」
腕を掴もうとした――だが掴めたのは、ただの空気だけだった。