第五話 初任務①
「……まだ夜か」
枕元の時計は、午前四時を示していた。窓の向こうはまだ群青色の闇に沈んでいて、淡い朝の光が差し込むには、あと一時間ほどかかりそうだった。
二度寝するには中途半端に目が冴えてしまった。ため息をひとつ落とし、ゆっくりと体を起こし、洗面所へと向かう。
洗面所の鏡には、ひどい顔が映っていた。金色の瞳は赤く濁り、涙の跡が頬に線を引いている。どこか他人の顔を見ているようだった。
「……情けないな」
呟いて、蛇口をひねる。冷たい水を両手に掬い、何度も顔にかけた。痛みで少しだけ意識が澄んでいく。けれど胸の奥は、まだ深い霧の中にあった。
「またあの夢か……」
八年前。記憶を失った。気づけば、知らない家で目を覚ましていた。知らない人たちが「家族だ」と言った。その頃、何度もあの夢を見た。中学生になってからは、すっかり遠ざかっていたはずなのに。今になってまた現れた。
(偶然……じゃない、よな)
偶然と片付けるには、あまりに重なりすぎている。小学生の頃に何度も感じた、体の奥からあふれる力。あの夢。⸻最近になって、それがまた戻ってきた。昨日見たオリヴィアさんの魔法も、何かを思い出させる。
(もし、夢で見た氷の世界が魔法で再現できるものなら……僕は、記憶を失う前にここにいたのかもしれない)
……それを確かめなければならない。
それが、この胸の霧を晴らす唯一の手がかりだと思う。
横にあるタオルで顔を拭き、昨日リンさんからもらった服に袖を通す。
(とりあえず、いつもの日課だ)
思考を切り替えるように、ベッドのそばに置いていた木刀を手に取る。昨日の帰りに建物の構造や施設の場所は教えてもらっている。僕は木刀を振れる庭園へと早足に向かった。
庭園には、誰もいない。そう思ったが、ガゼボのほうから人の声が微かに届いた。声というよりは透き通るような旋律だった。
(……歌? なんの曲だろう)
無心で木刀を振り回すつもりだった足が、思わず止まる。背を向けて庭園とつながる門の前から引き返そうとした、その時だった。
「……そこにいるの、誰?」
小さな声が、夜明け前の空気を震わせた。
ガゼボから門までの距離は五メートル以上ある。僕は、気配を完全に消していた。それなのに⸻
歌声はぴたりと止まり、ひどく静かな沈黙が落ちた。
僕は目を大きく見開いた。
「それで隠れているつもり?」
ガゼボから、小さな影が立ち上がった。さっきの透き通る声とは違う、少女らしい高い声。ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
朝露をはらんだ空気の中で、白い息が揺れる。金色の瞳に映るその姿が、少しずつ輪郭を帯びた。
艶のある灰色の長い髪。腰に届く髪はツインテールにまとめられ、漆黒のリボンが結ばれている。ゴスロリの服は歌声とは真逆の印象で、オリヴィアさんとはまた違う美しさがあった。何より、琥珀色の瞳が夜明けの光を孕んでいるように見えた。
「もう一度聞くけどそれで隠れていたつもり?」
訝しげに僕の顔を覗く彼女に思わず、僕は後ろへとたじろぐ。
「……別に隠れていたわけじゃ」
「そう? でも気配を消していたのは確かね」
探るように視線を重ねられ、胸の奥がざわりとした。言葉にできない既視感。ああ、これは……
(レオナに似てるんだ。あの時も、こんなふうに迷いを射抜く目をしていた……)
「……ごめん、驚かせたなら」
一拍遅れて、ふっと彼女は笑った。
「まあいいわ。こんな時間にここで誰かに会うなんて思わなかったから、こっちも驚いたし。⸻名前、教えてもらっても?」
「……リアン。君は?」
「ルナ。これからよろしくね」
ルナと名乗った少女は、言葉と一緒に白い指を伸ばす。握手かと思って手を差し出すと、その手が僕の手をつかんだ。
次の瞬間、ぐいと引き寄せられた。息がかかる距離。思わず後ろに下がると、ルナは同じだけ前へ出てくる。まるで、逃げ場を与えないように。
「あなた、よっぽど嘘が下手なのね。それに⸻隠し事がいっぱいあるみたいだわ」
胸がひどく跳ねた。顔が赤くなるより先に、心の奥を射抜かれた気がした。
この人は⸻野生だ。生き物の直感だけで、相手の皮を剥いでしまう。そう感じてしまうほどに背中がぞわりと震えた。
言い返そうとしても声が出ない。ルナはしばらく僕を見つめていたが、やがてその瞳にふっと柔らかな色を宿した。
「別に責めるつもりで言ったわけじゃないわ」
不意に、視線が和らいだ。さっきまで捕食者のようだった瞳が、急に人懐こい色を帯びる。
その変化に、息を呑んだ。
「誰だって隠し事があるものよ。ない人間の方が不気味だわ」
そっと手を放し、今度は指先だけが触れるように握る。それは、ようやく握手の形になった。
「私が話しかけたのはあなたに少し興味があったから」
「興味?」
「ええ」
ルナはふっと唇を緩める。琥珀色の瞳が優しく揺れる。
「昨日の試練。そしてあなたのこと、リンに少し聞いたわ。⸻初めてここへ来たんですって?」
「それは、まあ……」
「嘘よね?」
言葉が詰まる。視線を逸らすと、ルナはくすっと笑った。
「やっぱり、あなた。警戒心が強いハリネズミみたい」
「……っ、ハリネズミって……!!」
「気が向いたら話ぐらい聞いてあげる。他人だから言えることもあるでしょう?」
そう言ってルナは手を離し、夜明けの庭園を見渡した。
「それじゃ、また会いましょう。リアン」
(……やっぱり、君も人の心を簡単に揺さぶってくるんだな)
ルナの背中を、しばらく動けずに見送った。
僕は胸の奥にまだ残るざわめきを抑えきれないまま、木刀を握り直した。
無心のまま木刀を振ってるといつの間にか朝日が顔を照らすまで昇っていた。眩しさに思わず目を細める。
「そろそろ部屋に戻らないと」
みんなが起きるより数時間早く起きただけなのにすでに濃い一日を過ごしたように感じられる。
そもそもだ。
僕が一年間で女の子と話す量を二日間で体験したようなものだ。
うれしいような、疲れたようなで地味に神経がすり減った感じがする。
「はあ……」
木刀を杖のようにして寄りかかり、大きなため息を吐いていると、
「どうした、そんな大きなため息ついて」
「リンさん?!」
後ろから少し疲れが滲み出ているような声音が聞こえた。
昨日のリンさんも朝、少し疲れているような感じだった。リンさんは朝に弱い人なのか?
そんなことを思っていると、
「ちょうどよかった。これからリアンの部屋に行こうと思ってたんだ。行く手間が省けた」
「僕の部屋に、ですか?」
昨日のことを考えると仕事の話だろう。昨日の段階で詳しい仕事内容は教えてもらっていない。冒険者ギルドのことについては教えてもらったが試練のときのあの言葉を考えると僕が就職した先は冒険者ギルドと全く違う仕事なのだろうと思う。
「ああ、初仕事だ」
リンさんと共に食堂に向かう。昨日は別の部屋――おそらくリンさんの部屋で食べたし。
初めての食堂に少し心が躍る。
扉を開けると、色とりどりの種族たちがざわめいていた。ケモミミの者、鋭く尖った耳のエルフ、鱗の見える竜族、青い肌の水の精霊に、背中に羽根を持つ天使――昨日見た顔もいれば、初めて見る種族も混じっている。
それだけじゃない。あちこちで声が荒げられ、揉め事の兆しがはっきり見てとれる。
僕が首を傾げていると、隣にいるリンさんが大きなため息をはいたのが分かった。
「あいつらは新人だな」
「新人、ですか?」
新人なのに、騒ぎが起こしていることがピンと来ず、僕はさらに首をかしげた。
リンさんはそんな僕をちらりと見て、さらに説明を続けた。
「ここは種族の違いで揉めることがよくある。長くいる奴らは慣れてうまくやってるけど、新入りはまだ共生という言葉を正しく理解できないらしい」
そうか、揉めてるのは異国から来たばかりの連中か。
「大変ですね」
「慣れれば落ち着くさ……多分な」
そう言うリンの顔には、わずかな疲れが見えた。
二人して遠い目をしていたその時――リンの耳がわずかにぴくりと動いた。
「リン、こっち」
食堂の奥から聞こえる声に、彼はすっと顔を向けた。僕もつられて視線を追う。
視線の先には山盛りの盛り付けられた料理の数々。その上から飛び出している華奢な白い手。
(あれは絶対オリヴィアさんだ)
誰が見ても一目でわかる、その食欲。
それよりも驚くべきはリンさんだ。騒がしい食堂の中から、正確にオリヴィアさんの声だけを聞き取っていた。
(耳、いいんだな……)
リンさんが小さく笑いながら、「行くぞ」と言った。
僕は胸の中にざわめく期待と不安を抱えて、その後をついていった。
「今回の任務はある冒険者の捕縛とバックについてる者の暗殺だ」
オリヴィアさんの隣に座り、朝食であるトーストを口に入れていた僕はリンさんのあまりの物騒な発言にむせてしまった。
「はい、牛乳」
「ありがとうございます、オリヴィアさん」
「どういたしまして」
オリヴィアさんに背中をさすられながら、僕は牛乳をいっきに飲み干した。
「こんな人の多いところで話していい話ではない思いますっ!!」
僕は「はい」っと片手を上に上げながら、反対側に座っているリンさんに詰め寄った。
そんな僕とは対照的に、リンさんは真面目な顔をして「大丈夫だ」とぬかしている。
何がだ……っ!!
「一応俺とオリヴィア、そしてリアンの周辺には防音の結界が張ってある。それもオリヴィア特製の強固な防音結界だ」
「つまり、僕たちの声は外には聞こえない……?」
「そのとおりだ」
「よかった〜」
僕はほっと胸を撫で下ろす。新しい職場に来てそうそう警察のお尋ね者になるかと思った。…………あれ、何もよくなくないか?
「さて、改めてだが。今回の任務は俺たち三人で行う」
リンさんの言葉に、僕は姿勢を正す。
「その前に、ひとつだけ。僕が知っている“冒険者の任務”と違う気がするんですが……これはどういうことですか?」
「俺たちは冒険者じゃないからな」
あっさり返ってきた答えに、胸の中のモヤモヤが一気に無くなったと同時に頭を抱えたくなった。
(……やっぱりか!)
「俺たちは“裏冒険者ギルド”、通称“裏ギルド”のメンバーだ。表の冒険者ギルドと違い、ダンジョン探索や魔物討伐はほとんどやらない」
リンさんの声は静かだったが、その内容は先ほどから衝撃の連鎖だ。
目の前のトーストが急に遠い存在に感じられる。
「俺たちの主な仕事は、ギルド内の“浄化”だ。倫理に反する研究、禁忌魔法、存在してはならない技術の排除……それらが表立って処理できないなら、俺たちがやる」
「それって、警察の仕事も入ってますよね?」
「確かに重なる部分はある。だが、その警察自体が禁忌に手を染めていたとしたら?」
「…………あぁ」
もう言葉はいらなかった。
そうか、そういう存在なのか。表の正義が裁けない“黒”を処理する、裏の正義――それが裏ギルド。
いきなり知らないも同然の世界に来てそうそう裏側に足を踏み入れてしまったというわけだ。
再び頭を抱えたくなった。
「リアンが納得したところで、本題に入る」
リンさんはさらに続けた。
「今日、月に一度の“オークション”が開催される」
その単語に、背筋がすっと冷えた。
「そのオークションって……まさか」
「ああ。人身売買だ。リアンのために補足しておくと、この国にも奴隷制度は形式上存在している。だが、“冒険者”は身分を保証されているため、奴隷制度に関与してはいけない決まりになっている」
「つまり、その掟を破った冒険者がいて、捕縛するということですね……」
言いながらも、胸の奥に引っかかりが残る。
「では、暗殺というのは……?」
「今回の対象である冒険者は、それほど力も地位もあるわけではない。一人でオークションを開けるわけがないと断言できる。つまり、裏で支援している“大物”がいる」
そこまで言ったところで、リンさんの目が鋭さを増した。
「今回、裏ルートでそのオークションに出入りする人物のリストを入手した。その中に、禁忌魔法の使用疑惑で過去に処分されかけた者が含まれていた」
「じゃあ、まだ“黒”と確定したわけでは――」
「限りなく黒だ」
短く、はっきりとそう断言するリンさんの言葉に、僕は息を飲んだ。
空気が、ぴんと張り詰めた気がした。
この人は本気だ。迷いも、ためらいも、ない。
「……わかりました。僕が担当するのは?」
「冒険者の捕縛だ。暗殺は俺がやる」
さも当然のように言ってのけるリンさん。
「リンさんが……?」
「リンはこう見えて、暗殺者の里の長だからね」
隣のオリヴィアさんが、ケロッとした顔で口を挟んだ。
まるで、朝の天気予報でも語るかのような、軽やかな口調だった。
「へぇ~そうなんですね?!」
(──って、へぇ〜じゃないっ!!)
自分で口にした言葉に内心でツッコミを入れる。
だけど、それ以上何も言えなかった。
言葉を重ねるほど、今自分がいる場所が、元いた世界とはかけ離れていることを痛感するから。
人身売買、禁忌魔法、暗殺。そんなものが日常の一部のように語られる場所。
昨日まで、「元の世界に帰る方法」を探していた自分が、今ここにいて、これから“裏の任務”に加わるのだ。
まるで夢の中の出来事である。いや、夢の中の出来事であれ。
空になったカップを静かにテーブルに戻し、リンさんが席を立つ。
「出発は一時間後だ。支度を済ませて、正門前に集合だ」
いつも通りの、淡々とした声だった。
けれど、その言葉は口調に反して、妙に重く感じられた。これがただの“出勤”ではないと、無言で告げているかのような。
僕はまだ半分残っていたトーストを見下ろす。
バターが少し溶けて、皿の縁に小さな染みを作っていた。
(……食べきれそうにない)
緊張で胃が重く、喉の奥がきゅっと詰まっているのを感じる。こんな状態で、本当に誰かを捕まえに行けるのか。
「これ、任務中のおやつ」
隣でオリヴィアさんが、包み紙にくるんだサンドイッチを僕の前に差し出していた。
「きっと任務中にお腹空くから」
「……あ、ありがとうございます」
思わず受け取ってしまう僕。
いやいや、それ以前に。暗殺とか言ってるのにサンドイッチって、どういうテンションなんですかオリヴィアさん……
(そもそも任務中にお腹空くのはあなたぐらいだと思いますけどね?!)
でも、ちょっとだけ安心した。リンさんの冷たさとは違う、どこか人間味のあるやり取りだったから。
「それじゃ、私は毒と薬の確認をしてくるね〜」
オリヴィアさんはトレイを持って、軽い足取りで席を離れた。
その背中を見送りながら、僕は深く息を吐いた。
トーストの香ばしい匂いが、かすかに胸の中を通り過ぎていく。
(行くしかないか……)
世界の裏側。倫理の外にある「任務」。
今の僕にとって、それはまだよく分からない場所だけど――
けれど、行かなきゃいけない場所でもある。
決意を固めるように、椅子を押しのけて立ち上がった。
「すべては帰るためだ!!」
テーブルの上に残った冷えたトーストを勢いよく口に放り込み、僕は食堂を後にするのだった。