第三話 試練
部屋に漂う香ばしい匂いが、緊張で張り詰めていた胸の奥をわずかに緩めた。
テーブルに並んだ皿は、拍子抜けするほど普通の朝食だった。
白い陶器の皿に盛られたオムライスは、柔らかそうに波打つ黄色い膜で覆われている。
スプーンでそっとすくうと、卵がとろりと溶け、湯気と一緒に優しい香りが立ち上った。
「……うまい」
ひと口食べただけで、空っぽだった胃が温かく満たされていく。
ケチャップの甘酸っぱさと、ふわふわの卵の甘みが舌に広がった。
危うく、この世界に来ていることを忘れそうになる。
「リンさんは、食べないんですか?」
スプーンを置いて問いかけると、リンはわずかに視線を伏せた。
「朝は……いつも食べていないんだ」
短く答えた声の奥に、かすかな影が見えた気がした。
けれど、踏み込む勇気はなかった。
食べ終えた皿を片付けると、リンは振り返り、真剣な目でこちらを見つめてきた。
「リアン。これからどうするつもりだ?」
隣ではオリヴィアが、何事もない顔でリンに膝枕をされている。
その姿があまりに当たり前のように見えて、逆に頭が追いつかなかった。
「……できれば、元の世界に帰りたいです。でも、無理なら……」
言葉が喉で絡まった。
この世界で、自分の足で生きるしかない。
知らない街で、家も金もなく野垂れ死にするのだけは嫌だった。
「家なし無一文は……勘弁です」
本音が、情けないほど素直に漏れた。
リンは苦笑とも同情ともつかない顔で小さくうなずく。
「就職先に希望があれば、できるだけ尊重したいと思っている。……とはいえ、ここでどんな仕事があるか分からないか」
「はい……おっしゃる通りで」
返事をしながら、胸がひりつく。
不甲斐なさと安堵が入り混じって、やりきれない気持ちが込み上げた。
……まだ高校二年生だ。
何もできなくて当たり前だと、無理に自分に言い聞かせるしかなかった。
「どうするか……」
リンが深く息を吐いたその時、これまで黙っていたオリヴィアがゆっくり顔をあげた。
薄い色の瞳が、真っ直ぐ僕を射抜く。
「私が拾ってきたから、私が面倒を見る。私たちと同じ職場が、都合がいい」
真剣な声。
嘘も遠慮も混ざっていない。
視線が絡んだだけで、胸がぎゅっと苦しくなる。
「猫じゃないんだから……もう少し言い方を考えろよ」
リンが呆れたようにため息を吐いた。
オリヴィアは小首を傾げ、何がいけなかったのか分からない顔をする。
(これって、もしかして就職先が決まったってことか……?)
「リアン。お前の意思を聞かせてほしい」
「……二人がよければ、よろしくお願いします」
とにかく、今はこの手を掴むしかないと思った。
レーフ国の首都エルデフォリア。
地平の先まで石造りの建物が並び、金属と香辛料の匂いが混ざる風が吹く。
冒険者の都と呼ばれるこの街は、あちこちで荷を積む人々の掛け声や、魔導具を試す音が響いている。
きらめく旗が通りに翻り、まるで祭りのような熱気に包まれていた。
……ここが、これから僕が生きる場所だ。
まだ試験も終わっていないのに、緊張感も忘れ、街の風景に目が釘付けになる。
「そんなにめずらしいか?」
「それはもちろん」
僕はすかさず、縦に力強く首を振った。
男子高校生たるもの、一度も異世界に憧れない人はいないだろう。誰だって一度は、異世界で誰かに慕われたり、でかい怪物を倒して英雄扱いされたりって想像くらいはしたことがあると思う。
目をキラキラさせる僕にリンさんは苦笑する。ただ、リンさんがどこか気だるげに見えるのは気のせいだろうか。疲れているのか、はたまた僕に呆れているのか。
「ここが冒険者ギルドの訓練場パート2」
そんなこんなで歩いていると目的地に到着したようで、オリヴィアさんが抑揚のない声で紹介する。しかし、パート2とはどういうことだろうか? ここにくるまでの道中、この国や冒険者について説明されていたものだからてっきり冒険者ギルドの本部に行って冒険者登録するものだとばかり思っていた。
「あの、今更なんですけど、これから何をするんですか?」
「試練」
「……えっ?」
オリヴィアさんの言葉に思わず自分の耳を疑った。就職とは程遠い言葉が今聞こえたのは気の所為だろうか。きっと面接の間違いだろうと現実逃避しようとした瞬間、リンさんの言葉が追い討ちをかけてくる。
「何をそんなに驚いている。人間の就職には試練はつきものだろ?」
「それどこの人間の話ですか?!」
(僕が知ってる就職は、履歴書を書いて面接して、せいぜいアルバイトで研修があるくらいだ)
リンさんがそんな言葉と共に、訓練場の扉を開く。足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌をひりつかせた。
石造りの天井は高く、どこか聖堂のような荘厳さがあった。
上階には観覧席のような回廊があり、二つの小さな影が柵からこちらを見下ろしている。
(……誰だろう)
疑問を飲み込む間もなく、リンさんが背中に背負っていた木刀を僕に向かって投げた。しかも槍を投げるように。僕は咄嗟に右側に体を動かし、右手で木刀の柄を掴んだ。
「会った時から思っていたが——リアン。君は戦えるな」
「……はい」
確信したように言うリンさんに僕は頷きながら肯定する。戦えることは隠すつもりだったが、さっきのでおそらく隠すのは不可能だ。なら戦えることを肯定した方がいい。いい信頼関係を気づくためにも。
「試練の内容は——」
「リン、私が相手をする」
リンの隣で無表情に立っていたオリヴィアさんがリンさんの言葉を切ると、すっと一歩前へと出る。空を思わせる水色の瞳が氷のような無機質な瞳となってまっすぐにこちらを捉えている。すでにオリヴィアさんはやる気満々だった。
僕は、これから行われる試練がオリヴィアさんと戦うことだと分かってしまった。
「オリヴィアはこの裏冒険者ギルドの中でも屈指の戦闘能力を持っている。手加減はするだろうが……君が本気でかからねば、何も得られないだろう。」
リンが淡々と告げる。
「ちょ、ちょっと待ってください。手加減ってどのくらい……?」
「死なない程度だ」
リンの即答に、背中に冷たい汗が伝った。
「オリヴィアに一撃でも与えるもしくは、この下に広がる円より外に追い出したら君の勝ちだ」
さっきまでなかった白い円がいつの間にかできていて僕は驚愕を露わにする。
「……準備はいい?」
オリヴィアが問いかける。
木刀を持つ手が震えた。
けれど逃げる選択肢はない。
「……はい」
自分でも情けないくらい小さな声だった。
それでも、オリヴィアさんは何も言わずにうなずくと、一歩だけ距離を詰める。
「始める」
審判役のリンさんの合図が響くと同時にオリヴィアさんの拳が眼前に迫っていた。
油断したつもりは毛頭なかった。しかし、予測していた速さ以上の速さで攻めてきた?!
降りかかる衝撃を、木刀でどうにか受け止める。だが、その一撃だけで手が痺れた。
衝撃を殺しきれず、視界がぐらりと傾いた。喉の奥から鈍い吐き気がせり上がる。
このまま距離を取って体勢を立て直そう——そう思ったが、甘かった。
オリヴィアさんがすかさず地を蹴り、追撃する。床が軽く震えた。
どこからこんな力を出しているんだ。ありえない。普通の女の子が出せる威力じゃない。きっと何かカラクリがあるに違いない。ここは異世界だ。僕の知らない何かがあってもおかしくない。
もしかして———
「まほう、ですか?」
「そうだよ」
「〜〜〜〜〜っ?!」
「まだ話す余裕があるみたいだね。もう少し私、本気になってもいい?」
驚愕に晒される。まだ上の段階があるのか?!
オリヴィアさんが無表情のまま小さな声で何かを呟くと、金色の光がオリヴィアさんの拳へと収束する。
僕は眩しさに目を細めながら、迫り来る黄金に輝く打撃を受け流す。
だが、まともに受け流せたのは一撃のみ。二撃目、三撃目が肩、脇腹、左腕の表面を削いでいく。
「うっっ?!」
「目もいいけど直感もそれ以上にすごいね」
氷のような無機質な瞳がわずかに喜色に染まったような気がした。口角も心なしか上がっているように思う。
しかしだ。
この状況で美少女から褒められても嬉しくない。こんな状況じゃなきゃ嬉しいのだろうけど、今は嫌味にしか聞こえない。僕はまだ一度もオリヴィアさんに攻撃できてない。防戦一方だ。
回廊でじっとこちらを見ている二つの影。
ルナは面白そうに目を輝かせ、ノアは心配そうに口元を押さえている。
「お姉ちゃん、あの子……やばいんじゃない? オリヴィアさん相手は今の彼には無理だよ……」
「ノア、あなたの目は節穴なの? よく見てみなさいよ」
「よく見なくてもボコボコじゃんか。それに試練ってこんな厳しいものじゃなかった」
ルナの興奮する声に少年の怯えた声が続く。
「まあ、ノアの言うとおり、確かに裏ギルドの就職試験はこんなに厳しいものじゃないはず。それにオリヴィアがらしくもなく熱くなってる。ノアはこの戦いどう終わると思う?」
ルナは灰色のツインテールに結ばれた髪を掴みながら、隣にいる片割れに問いかける。
「普通に行けば時間切れでオリヴィアさんの勝ちだけど……」
「勝ちだけど……?」
「もし、彼にブレーキをかけている何かが何かの拍子に壊れることがあったのなら———もしかしたら一撃を与えられるかもしれない、と思う」
片割れながら自分以上に分析力の強いノアに感心しながら、ルナは広場へと視線を戻したその時だった。
「うちの弟やばっ……!!」
ノアが驚いたように目を見開く。けれどルナは口元を吊り上げ、まるで獲物を見つけた猫のように笑った。
オリヴィアさんに対して反撃の気を伺っていたとき。頭の脳裏に師匠の声が蘇った。
『もし君が普通に生きたいのなら本気を出してはいけないよ。でももし本気を出さなければならない時があるとすればそれはきっと———』
全身の神経が研ぎ澄まされる。
視界が一点に絞られた。
縮地。
一瞬で間合いを詰める。石畳がひび割れる音が背後に遅れて届く。
残像が宙に残り、オリヴィアさんの瞳がわずかに揺れた。
木刀が振り下ろされる寸前、白い手がそれを握りしめる。
「まだ足りない」
柔らかなはずの掌で包まれたとは思えない力でそのまま場外ギリギリのところまで投げ出される。
「……っ」
立て直す。けれど呼吸が荒い。
力を抜けば、そのまま崩れそうだった。
「時間切れだ」
リンの声が頭上から響く。僕はその場に座り込んだ。
「ダメだったか」
「いいや、合格だ。最後の攻撃はちゃんと一撃だった」
「えっ?! でもあれは……」
結局最後の一撃は入ったとは言えないだろう。オリヴィアさんが怪我していないこともさることながら、そのまま攻撃の威力を利用されて投げ出されたのだから。
そんなことを考えていると前から可愛い悲鳴が聞こえてきた。
どうやら、リンさんにゲンコツをお見舞いされたらしい。
「いたいよ、リン」
「オリヴィアやり過ぎだ。致命傷になる技を逸らす身にもなれ、バカ」
「片手でやってたくせに」
「俺は今日、お前のご飯作ってやらなくてもいいんだぞ」
不貞腐れながら不満を垂れ流すオリヴィアにリンはとどめの一撃をくらわせる。オリヴィアさんは絶望したかのように顔面を蒼白させる。先ほどの戦いからは想像もつかない落差だ。
「リンがご飯を作ってくれない……? 私、死ぬ…?」
「いやいや、さすがにそこまでならないでしょ?!」
僕は思わずツッコミを入れてしまうのだった。
その日の夜。
与えられた静かな部屋。
食べ盛りだろうからとリンさんにもらった夜食の弁当を平らげ、布団に横になった。
すごい密度の高い一日だった。試練の後も手続きとか職場の説明とか色々あった。さすがに一度で覚えられなかったことも多かったけれどなんとかなるだろう。
(明日から……どうなるんだろう)
まぶたが重く落ちる。
——その瞬間、茶化すように話す男の人の声が耳の奥に響い気がした。
「あ〜らら、こっちの世界に来ちゃったか。まあ、せいぜい頑張って。フォローはするからさ」
「さじは投げられ混沌へと続くカウントダウンが始まった。君と踊る日も近い!! ワクワクで胸が破裂しそうだ」
ビルの屋上にて踊りながらゲラゲラと笑う男が一人。