第一話 嘘と友情
放課後。校舎の二階。
窓際の席に座るリアンは、指先でペンを器用に回しながら、ぼんやりとグラウンドを眺めていた。
夕日に照らされたグラウンドでは、陸上部の連中が汗を流しながら走り込み中。タイムを計ってるのは部長だろうか。動きもフォームも悪くはない。だけど、何か物足りない。
(フォームは綺麗。でも……)
「遅いな」
思ったことがつい口に出ていた。
「お前と比べりゃ、だいたいの人間が遅く見えるだろ」
背後から気配もなく現れたのは、予想通りの男だった。
「……レオナか」
「俺で悪かったな」
180 cm超え、スポーツ万能、顔も性格もいい――ただ、僕にはやたら絡んでくる。女子人気はぶっちぎりだが、なぜか一部の男子からも「兄貴!」と慕われている。
「別に悪いとは言ってないだろ。ただ、驚いただけだ」
「そういうことにしといてやるよ」
レオナは勝手にリアンの前の席に座ると、窓の外に目をやりながら、ふとリアンに目を戻す。
「それよりもだ。最近の体育。手加減してるな?」
「……手加減なんてしてない」
「へぇ。じゃあ本気でやってあのザマ?」
「そんなわけないだろっ!!」
思わず机を強く叩きながら前のめりになる。それに対し、レオナは耳をおさえながら、目を細める。
「なら、力の制御ができなくなってるのか?」
「何その言い方。それじゃあまるで僕が中二病みたいな言い方じゃん」
「今この教室に二人しかいないんだから、隠す必要ないぞ」
「……身体の奥から力が湧いてくる感じがする。全力で動いて、思い切り発散したいくらいには」
まるで、別の誰かが蠢いているよう感覚。小学生の頃に感じたあの違和感が、最近、戻ってきたように思う。
「前に“本気で動けば、目をつけられて危ない目に遭う”って言ったこと覚えてるか?」
「ああ……そんなこと言ってたかも」
「“かも”って……お前、マジで気をつけろよ。変なやつに狙われたら、俺でもどうにもならんかもしれねぇし」
レオナの目が一瞬だけ鋭くなった。
冗談じゃないのかもしれない。その雰囲気に、リアンは少しだけ息をのんだ。
「……わかってるよ」
「お、珍しく素直。感心感心」
「うるさい。黙ってろ」
軽口を叩きながらも、内心ではざらつく何かがあった。
放課後のざわつきが廊下に満ちる中、僕とレオナは並んで昇降口へ向かっていた。
「で、結局今日も帰りは俺と、か。残念だったな」
「レオナがいるせいで彼女ができないの分かってる?」
「お前がモテないのを俺のせいにされても困るんだが」
「うるさい。そう思わないとやってらんない」
くだらない言い合いをしながら下駄箱に到着すると――
「リアン君、レオナ君、こんにちは」
ふいに後ろから呼ばれ、振り返ると、クラスの委員長・日和さんが立っていた。
僕は優等生の鑑、いつも完璧な笑顔の彼女に、どこか近づけない壁を感じていた。
「……あれ? 日和さん?」
「日和さんがこんなに遅くまでいるなんてめずらしいね」
「先生に明日の授業の準備を頼まれてしまって。もし帰るところなら、ご一緒しても?」
「え、えっと……もちろん、いいけど」
僕が戸惑いながら返事をすると、隣のレオナがニヤニヤした顔でこっちを見た。
「よかったな、リアン? 望んでいた青春が遅れてやってきて」
「やめろ、そういう言い方するなって」
なんか変な汗が出てくる。
日和さんと話すだけで緊張するのに、レオナが茶々入れてくるせいで余計に落ち着かない。
日和さんは僕たちの横に並ぶと、少しだけ歩くスピードを緩めた。
「リアン君、少し……お願いがあるんですけど」
「お願い?」
「はい。今日、私と二人っきりで帰ってくれませんか?」
「……えっ」
一瞬、時間が止まったような気がした。いや、聞き間違いじゃない。はっきりとそう言った。
「それって、なんか用事があるとか?」
「用事というほどではないんですけど……。少しだけ、お話したくて」
言葉はやわらかい。でも、目が笑っていない気がした。
「おーおー、これはもうデートだな。リアン君、人気者だねぇ」
「ちょっとレオナ、黙ってて」
「はいはい、失礼しました〜」
日和さんの笑顔は崩れなかったが、隣のレオナにチラッと冷たい視線を投げたのを、僕は見逃さなかった。
「それで……いいですか? 一緒に帰ってくれると、嬉しいです」
「う、うん。もちろん」
そう答えると、日和さんはようやく少し安心したように笑った。
「ありがとうございます。じゃあ……行きましょうか」
そのまま、三人で昇降口を出ていく。けれど、外に出たとき――
「じゃ、俺はここで。リアン、あとは一人でなんとかやれよ」
レオナが片手を挙げて、あっさり別方向に歩いていった。
「え、あ、レオナ……?」
「お邪魔虫は空気読むからさ〜。せいぜい諦めるなよ」
(“なんとかやれよ”って……まさかな)
夕焼けの赤が、ふたりの影を細く長く伸ばしている。現在、リアン達は人通りの少ない、住宅街から少し離れた川沿いの道を歩いていた。
「今日はわざわざ一緒に帰ってくださって、ありがとうございます」
日和は丁寧に礼を言いながらも、どこか冷静すぎる表情だ。しかし、緊張しているリアンはそれに気づかなかった。
「別に、そんな大層なことじゃないよ」
リアンは軽く笑って返すが、内心では少し緊張していた。
「最近はどうですか? 学校は楽しいですか?」
日和は穏やかな声で尋ねるが、その目はじっとリアンを見つめている。
「まあまあかな。特に変わったことは……」
「そうですか…………リアンくん」
不意に名前を呼ばれ、リアンは思わず歩みを止める。
日和さんは、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。けれど、今日はどこか、それが違って見える。
「え、なに?」
彼女はほんの少しだけうつむいて、そして一歩、僕に近づいた。
「ずっと言いたかったことがあるんです」
言葉の調子が、普段よりも少し震えているように聞こえた。僕は無意識に背筋を伸ばした。
「……えっと、何?」
「私……リアンくんのこと、好きです」
夕日がまぶしくて、彼女の顔がよく見えなかった。けれどその声は、どこか決意に満ちていた。
「え、ちょ、まって……僕?」
「はい。いつも頑張ってるところ、見てました。バカ正直で、真面目で、不器用だけど……そんなリアンくんが好きなんです」
その言葉に胸が脈打つ。だけどその直後――僕の中で、小さな違和感が芽生えた。
(……なんでだろう。言葉は真っ直ぐなのに、声の温度が……低い?)
「ごめんなさい。急すぎましたね」
にっこりと笑った日和さんは、さっきよりもう一歩近づいた。
「少しだけ、遠回りして帰りませんか?」
断る理由があるはずもなかった。
子どもたちのいなくなった公園。日和さんと僕はベンチに並んで座る。ベンチは思ったより狭く、彼女の吐息すら肌にかかりそうな距離。僕が緊張で身を固めていると――――
「リアン君、今日は遅くまで付き合ってくれて、ありがとうございます」
「い、いや。むしろ僕のほうこそ、光栄っていうか、その、嬉しくて」
自分でもびっくりするくらい挙動不審な返ししかできない。
緊張をほぐすため、息を吐くと、次の瞬間微かに金属の匂いが鼻についた。……気のせいか?
「リアン君、目を、閉じていてくれますか?」
「え、えっと、ほ、ほんとに……?」
「ふふ、信じてください。――痛くしませんから」
胸の奥にゾワリとした感覚が襲う。
何かがおかしい。
そう思ったときにはすでに手遅れだった。
首筋に、ひやりと冷たい金属の感触。
微かな甘い香りが、鉄と血の匂いに変わっていく。
「――動かないでください」
日和さんの声は優しいまま。だが、背中に当たるナイフは、致命傷を約束する角度だった。
「これが私の仕事なんです。少しだけ、痛みはあるでしょうけど、すぐに終わります」
命の終わりを覚悟した瞬間――
――凍りついた空気を斬り裂くように、女の声が飛び込んでくる。
「そこまでだ」
ザシュッ!
という風を裂く音とともに、日和の手からナイフが吹き飛ばされる。
現れたのは、白銀の長髪、深紅の瞳。まるで雪原を想像させる風貌の女性だった。
その姿に日和の目は大きく見張られる。
「白い悪魔……!」
日和の声と手は白銀の女の前に怯えを宿し、本能で勝てないことを悟る。
「二度言わん。離れろ、今すぐ」
「あなたには関係ないはず……!」
「なら、試してみるか。そのナイフで私を刺せるかどうか」
静かに言ったその声には、揺るがぬ死の気配が滲んでいた。
「……今日は引くわ。でも、次は邪魔しないで、“白い悪魔”」
そう言い残して、日和は夜の闇に紛れて消えていった。
現実感のない空気の中、リアンは声を絞り出した。
「助けてくれてありがとうございます。どこのどなたか存じませんがこの恩は――――」
と言いかけた瞬間、彼女の瞳が、ゆっくりとこちらに向いた。
氷を溶かすようなその瞳がどこまでも深く、恐ろしく冷たいと気づいてしまった瞬間――僕の意識は闇に飲み込まれた。