第70話 氷の領域
扉を通り抜ける瞬間、押し戻されるような抵抗を受ける。それを無理矢理押しのけて進むと、足元の感覚がなくなった。まるで宙に浮くように、不可思議な空間を漂う。
うねうねと波打つように空間が歪んでいる。世界は色をなくし、上下も分からない。これは……どうやって移動すれば良いんだ?
背中側から風が吹いてくる。
それに押されて前進すると、マーチが呆れたような表情でこちらを見ていた。どうやら魔法で背を押しているようだ。感謝を伝えようとして、声が出ないことに気が付く。風の音も聞こえないし、どうやらこの空間は音が出ないようだ。
マーチが、俺が抱えているフォンを指差す。その後、手を広げて空間全体を見渡す。行先を教えろと言っているようだ。
それに答えるように、フォンが前に指を伸ばした。前進すれば良いのか。
再び風が吹き、空間を進む。
やがて光が見え、どんどんと大きくなっていくそれに飲み込まれた。
最初に感じたのは冷気だった。夏だというのに、まるで雪の中にでもいるかのように冷たい空気が覆う。厚着をしていても、外気に触れる顔などはどうしようもない。寒暖差でどうにかなりそうだ。
強い光を受けて自然と閉じていた目を開く。しかし、再び光が目に飛び込んできて、反射的に目を閉じる。
少しして、そっと目を開けると、やっと光に慣れた目が周囲の光景を受け入れる。
一面の氷
光を反射し煌めく、透き通る氷だ
地面を氷が覆い、街路樹のように氷で出来た木が生えている
目の前には巨大な、高さにして20メートルもあろうかという氷塊
円形の広場の中央に氷塊があり、広場から氷の道が伸びる
その道を挟むように建ち並ぶのは、氷で出来た家
そこは、何もかもが氷で出来た、氷の世界だった
「キレイね……」
ぼうっとしたマーチの呟きを耳が拾い、やっと驚きに固まっていた体を動かす。
視界に入るのはほとんどが氷で出来た建造物だが、遠くの方へ目をやると、人間界でも見られるような緑の山があるのが見える。
恐らくここは氷の精霊の領域。精霊界は氷の精霊だけの世界ではないはずなので、この領域を出れば様々な景色を見ることが出来るだろう。
「フォン、どこに行けば良い?」
「わたしの家。あっち」
フォンが指差すのに従い歩き出す。あらゆる物が氷だが、足元に水が溜まっていたりはしない。どうやら全く解けていないらしい。これだけ気温が低ければそうなるか。
歩いていても誰とも出会わない。本当に住民が存在するのか不安になる静かさだ。
「氷の精霊は少ないから」
フォンの話によると、自然界にその物質が多く存在するほど、精霊も増えるらしい。例えば、樹の精霊などはたくさんいるのだとか。
自然の中にある氷というと、標高が高い山の頂上くらいだろうか。確かにあまり多くはなさそうだ。
「それにしては家がいっぱいあるわね」
「それは最初からあった」
氷の精霊が住むために造ったのではなく、最初からある氷の家に精霊が住み着いているらしい。空き家も多くあり、この氷の街の広さに対して住んでいる氷の精霊が少ない。それが静かさの原因のようだ。
「ここ」
やがてたどり着いたのは、周囲の家と変わらない、この街の中では何の変哲もないと思われる氷の家だ。人間界で考えるならそこそこ立派な2階建ての家だが、この街で考えるなら普通サイズだろう。
魔力が回復してきて自分で歩けるようになったフォンを下ろす。フォンがこれまた氷で出来ている扉に手を伸ばし、開ける。家の中に入っていくフォンに続いて中に入ると、中もやはり全てが氷で出来ていた。
「生活しにくそうね……」
精霊にはこれが当たり前なのだろうが、人間が生活するには相当苦労しそうだ。フォンも人間に近づいているようだし、あまり長居は出来ないかもしれないな。
フォンが消えていった、推定リビングへと俺たちも入っていく。
「フォンちゃんひさしぶりー!」
「むぐぅ……」
フォンが女性に抱きしめられていた。
美しい青銀の髪を背中まで伸ばした女性だ。肌はフォンと同様に透き通るように白く、身長はフォンよりやや高い160弱といったところか。
「フォンちゃんすっかり髪が黒くなっちゃったわねー。あと何だか体が暖かくなったー?」
「むぐぐ……ぷはぁ。何でここにいる?」
「フォンちゃんがいなくなっちゃったから、お家の管理をしておいてあげたのよー?」
語尾を伸ばしたのんびりとした口調だが、フォンより活気がある。フォンが物静かなのは氷の精霊の特徴という訳ではなく、本人の性格のようだ。
「あららー? お客さんかしらー? 人間……かなー?」
「ああ、人間だ。フォンの友人の、クレイ・ティクライズという」
「わたしは別に友人って訳でもないけど、マーチ・イーヴィッドよ」
「人間のお友達が出来たのねー。良かったー。わたしはフォル、よろしくねー」
何でここにいるのかとフォンが尋ねたということは、家族という訳ではないのだろうが、ずいぶん仲が良いようだ。家の管理が必要ということは、フォンには家族がいないのか。
「姉、のような存在。仲間たちは皆家族のようなもの」
やっと解放されたフォンが説明してくれた。そもそも精霊というのは、人間のように生まれるのではなく、自然物から生まれてくるらしい。だから、人間でいう家族という存在はなく、まとまって生活する仲間は皆家族のような認識になる。
つまりフォンは家族が止めるのも振り切って人間界へ飛び出した訳で、なかなかアグレッシブだな。
「フォンちゃんが帰ってきてくれて嬉しいわー。はいこれ、どうぞー」
氷のテーブルに、氷のコップが置かれる。その中には水が入っていた。精霊は食事が必要ないという話だったし、恐らく嗜好品として水があるのだろうな。
「また水……まあもらうわ」
「あ、マーチそれは……」
「ごふっ!? こほっ、こほっ……なるほど、迂闊だったわ……」
遅かったか。以前フォンにもらったことがある、氷点下水だろう。あまりの冷たさに、意識せずに飲むとむせやすい。
「帰ってきた訳じゃない。また人間界に戻る」
「ええー? そうなのー? 残念ねー」
口調のせいであまり残念に聞こえないが、状況を考えれば本気で残念に思っているのが分かる。家族がいきなり危険だと思われる場所に飛び出して行き、何年も帰ってこなくて心配していたところでやっと顔を見せたんだ。もう行かないで欲しいと思うのは当然だろう。
それでも強く止めないあたり、フォンの意志を尊重する想いが伝わる。幼少からフォンと付き合ってきたなら、フォンが退屈を抱えていることも理解しているのだろうし、それがストレスになっていることも理解しているのだろうな。
「オルさんにはもう会ったー?」
「……まだ」
「今度はちゃんとオルさんを説得してから行かなきゃダメよー?」
「むぅ……」
フォルのように、フォンの背を押してくれる存在ばかりではないのだろう。むしろ引き留める声の方が多いはずだ。恐らくは、その中でも強く引き留めていた存在がオルさんというのだろう。
その相手を説得出来るか否かはともかく、流石に顔も見せずに人間界に戻るのは良くない。一度会っておくべきだ。
「そのオルさんというのは?」
「長老みたいな存在。一番長生き」
精霊は周囲の環境の影響を受けると言っていたという存在か。それは確かに反対するだろう。人間界に出ることの危険性を最もよく理解しているだろうからな。
説得は難しそうだが……それでも会っておくべきだろう。
「フォン」
「むぅ……分かってる。ちゃんと会う」
なら早い方が良い。荷物だけ置いて、その長老に会いに行くとしよう。説得するにも時間があるに越したことはないからな。
氷の街を歩いて、フォンの案内でオルさんの家へ向かう。フォルはそのままフォンの家で留守番をすると言って残ったので、3人での行動だ。
一つの家の前で、フォンが立ち止まる。恐らくここがオルさんの家なのだろう。フォンにしては珍しく緊張しているのか、扉の前に立った状態からなかなか行動しようとしない。
だが、いつまでもここでまごまごしていても仕方がないと思ったのか、家に向かって呼びかける。
「オルさん、いる? フォンだけど……」
フォンの呼びかけは静かだったが、周囲も静かであるためそこそこ響いた。家にいるなら聞こえたはずだ。
だが、なかなか出てこない。留守か? そう思い始めるくらい時間が経って、やっと扉が開いた。
「おお、フォン! 無事……ではないか。やはり体が作り変えられているようじゃな」
扉から顔を出したのは、老人と言って良いだろう容姿の男性だ。くすんだ青銀の髪、しわのある顔、身長は170ない程度か。人間で言う70近い年齢に見える。腰が曲がっているということはなく、まだまだ元気があるな。
その男性は、最初笑顔で扉を開けたが、フォンを見るなり表情が暗くなっていく。
「だから言ったんじゃ。人間界に出れば、その環境の影響を受けて別の生き物になってしまうと。恐らく人間に近づいておるのじゃろう?」
「うん、多分そう。魔力が上手く使えなくなったし、食事が必要になった」
「自業自得じゃ、まったく。ワシは、いや、皆止めたというのに、勝手に出て行きおって」
しばらくブツブツと文句というか、説教のようなことを言っていたが、やがて再び笑みを浮かべて、言った。
「おかえり、フォン。良く帰ってきた」
「うん……!」
色々言ってはいたが、フォンが帰ってきて嬉しいというのがよく分かる。狭い世界で生きている者同士、氷の精霊内での結束は固いのだろう。
だからこそ、フォンが帰ってきた訳ではない、という話をこれからしなければならないこと。そのことに、当事者でもないのに、非常に気が重くなるのだった。




