第232話 悪と雷
開いた真っ黒な扉を通って、男が現れた。ふわりと舞い降りて、バルコニーの柵に立つ。
美しい男だ。年齢としては20歳ほどに見える、黒い長髪をなびかせた、人間離れした美しい男。
男性に慣れていないわたしがこんな男を目の前にしたら、普段ならきっと見惚れてしまい身動きが取れなくなっていたことだろう。
が、今わたしの動きを止めているのは全く別の理由。
全身に鳥肌が立つほどの怖気。
何をされた訳でもない。ただそこに存在しているだけだというのに、湧き上がる恐怖が止まらない。
「何者?」
「名を名乗りなさい! ここは何人たりとも立ち入りを許されぬ隔離棟。来客の予定などありはしません!」
わたしたちを守るように前に出たキャロルと、その隣に並び拳を構えるトラスの声が響く。
その声に、初めてこちらの存在に気が付いたという様子で顔を動かした男が、
ニッコリと、笑った
「やあ、こんにちは。俺はヴィル。君たち風に言うなら……そうだな……神、とでも呼んでくれ」
「神……? ふざけたことを。拘束します。キャロル様、申し訳ありませんが、手をお貸しください」
「ん」
柵に立つ自称神に向かって飛び出すキャロルとトラス。この国どころか世界でもトップクラスの実力を持つ2人だ。奴が何者なのかは分からないが、次の瞬間には取り押さえられているだろう。
そう思っていた。
『伏せ』
「ッ!?」
「がっ!?」
バルコニーの床に頭を叩き付ける勢いで、キャロルとトラスが伏せる。それはまるで、奴の命令に2人の体が勝手に従ったかのような光景。
いや、まるで、ではなく、実際にそうなのだろう。
「だから言ったよね? 俺は神なんだって。逆らえる訳ないだろうに」
自称ではなく、本当に神だとでも言うのか。いや、考えている場合じゃない。奴は危険だ。殺すことになっても良い。ここで仕留める。
「星屑の煌き!」
『動くな』
「くっ……!」
魔法発動のために動かした魔力が勝手に停止する。駄目だ、全く逆らえない。どれだけ魔法を発動しようとしても、魔力が意思に従わない。
「まったく。大人しくしててくれよ。俺は感謝してるんだからさ。君を殺す気はあんまりないんだって」
「感謝……?」
「そう。君のお陰で俺は生まれることが出来たんだ。いわば君は俺の母親さ」
意味が分からない。結婚や交際どころか男性との交流すらほぼないというのに、わたしに子供などいる訳がない。それなのに、わたしが母親?
「だから、君に不老不死を授けてあげよう。嬉しいだろう?」
奴から黒色の波動が放たれ、それがわたしの体へと染み込んでいく。特に体調に変化はない。何をされたのか全く分からない。
奴の言葉を信じるのなら、これでわたしは不老不死になったらしい。そんなことは当然信じられない。だが、先ほどまでの光景を見てしまうと、もしかして本当にそうなったのか、と僅かながら信じそうになる。
「ついでだ。ここにいる他の3人も一緒に不老不死にしてあげよう。どうだい? 俺はとても優しいだろう?」
何なんだこいつは。突然現れてこちらを煽るかのように何でもない様子で話しかけてきたかと思えば、唐突にわたしたちを不老不死にしたなどと。
まさか敵ではないのか? この様子で? もしそうなら助かるけど……。こいつは明らかに格が違う上位存在だ。わたしたち4人ではどう足掻いても勝てる相手じゃない。
そんなわたしの希望は
「じゃあ、始めようか」
当然の如く、掻き消された。
奴が右腕を天へと掲げる。その掌に、先ほどとは比較にならないほど濃密な黒の波動が凝縮されていく。
空にはみるみる暗雲が広がり、世界が終わりに向かっているかのように暗くなっていく。
「何を……何をしているの!?」
「ん? もちろん、俺がこの世界を支配するための準備だよ」
「世界を、支配……?」
「そう。まあ見てなよ。君たちがきちんと見届けられるように、わざわざ不老不死にしてあげたんだからさ」
遂に放たれる波動。それは円が広がるようにどこまでも飛んでいく。
視界の届く限界を超えてどこまでも広がっていき、見えなくなって、
そして、暗雲を残したまま、場を静寂が包む。
「何も起きない?」
「そう慌てるなって。ほら、来るよ」
奴が指差すのに従って城下を覗いてみる。一見何も問題ないように見えるけど……。
いや、まるでわたしが見るのを待っていたかのように、丁度都市の門が押し開けられた。
そこからなだれ込んでくるのは、数多の獣。狼や熊といった獣が、手当たり次第に人々を襲っている。
野生の獣は、当然人間を襲うこともあるが、基本的にあのように人間を殺すことが目的であるかのような行動をしたりはしない。明らかに異常。凶暴性がおかしい。
それに、警備の騎士たちが軽々と薙ぎ倒されていくのも通常ではあり得ない。いつ戦争が起きてもおかしくないこの国において、騎士たちは厳しい鍛練を積んでいる。その練度は当然高く、野生動物に成す術なく敗北するような弱者ではないはず。
「さあ目に焼き付けろ。人間が支配する世界は終わりだ。君たちは死ぬことも出来ず、永遠に自分たちの滅びを見続けるんだ」
高笑いが響き渡る。悪意に満ちた言葉と共に。
何が『優しい』だ。ただわたしたちの絶望を見たいだけじゃないか。
何が『神』だ。悪魔の間違いだろう。
血が舞う。悲鳴が広がる。
でも、魔法を封じられたわたしに出来ることは何もない。
このまま都市が滅びて、国が滅びて、世界が滅びて、
でも、わたしたちだけはその中で生き続けるのか。
絶望が、心を満たす
嘲笑が、耳を貫く
そんな世界の終わりを斬り裂くように
天から注ぐ、一条の光
「…………はぁ、君もしつこいなぁ。ここまで追ってきたの?」
こちらに背を向け悪と対峙するのは、輝く黄金
全身から雷を迸らせ、その手に光の剣を構えた男
「当然だ! 僕はお前の存在を決して許さない! 覚悟しろ、悪の精霊ヴィル!」
「君が正義とかならまだ分かるんだけどさぁ。どうしてそこまでしつこいのかな、雷の精霊ヴォル」
精霊……? 自然の化身などと言われる、あの空想上の生物のことか? 仮に彼らが精霊だったとして、『悪』とは……?
「まあ良いや。面倒だし、ここは逃げさせてもらうよ」
そう言ってバルコニーから飛び立つ悪。
「待て!」
「おっと、俺を追ってきても良いのかな? ちゃんと周囲を見なよ」
「……なっ、これはっ! 貴様ぁ!!」
「もうほとんど滅びかけてるけど、もしかしたらまだ救える命があるかもよ」
「くっ……!」
飛び去っていく悪を見送り、奴とは逆にバルコニーから跳び下りていく黄金。そして、城下を暴れ回る獣たちを手に持つ剣や降り注ぐ雷で殲滅していく。
「一体どうなってるっていうの……」
バルコニーに取り残され、どうして良いかもわからず立ち尽くす。それは隣にいるネスクも同様。
「……ん、動ける」
「どうやら拘束が解けたようですね」
今までずっと床に伏せていたキャロルとトラスが起き上がってくる。どうやらヴィルの命令が解けたようだ。
「あ、わたしも魔法が使える。なら」
星屑の煌き
天から降り注ぐいくつもの光の柱
それらは、獣の一部を焼き尽くし消滅させる。
ヴォルの殲滅速度には到底及ばないけど、少しでも手伝うことが出来ればもしかしたら助かる人が増えるかもしれない。やれることをやろう。
それから少しして、城下に侵入した獣の殲滅が完了した。だが、既に都市中央の王城にまで獣の手は届いていて、無事な場所など僅かすら残ってはいなかった。
都市に住む人々には壊滅的な被害が発生。最早このまま都市として運営していくことが出来るような状態ではなく、
その日、ディルガドール王都は間違いなく、悪の手によって滅びた。




