第226話 欲望を映す霧
いつの間にか、視界が白く染まっていた。周囲にはただ白い空間が広がるのみで、自分が歩いているのか立ち止まっているのかすら曖昧だ。
共に歩いていたはずの仲間たちの姿も見えず、世界に自分ただ一人になってしまったかのような静寂が支配している。
「誰かいないか!」
叫んでみる。声が反響するようなこともなく広がり、消えていく。
「クレイさん」
返事があった。先ほど周囲を見回したときには誰もいなかったはずだが、その声はすぐ後ろから聞こえてきた。
「ティールか。無事……か……」
振り返り、姿を確認する。そこには確かにティールがいた。怪我をしている様子も疲労している様子もない。いつも通りの笑顔を浮かべて、そこに立っている。
全裸で。
「…………服はどうした?」
「服なんてどうでも良いじゃないですか。さあクレイさん、どうぞ」
そう言って両手を広げて俺を迎え入れるかのような体勢を取るティール。何を求められているのかは一目瞭然。だが、それは
「クレイ」
更に背後から声が聞こえる。アイリスだ。良かった、二人だけではなかったようだ。アイリスからもティールに注意してもらおう。
「アイリス、お前からも……」
振り返ると、そこにアイリスが立っていた。
同じく全裸で。
「……何故」
「どうして服を着ているの? クレイも早く脱いで、始めましょう?」
そう言ってこちらに手を伸ばしてくる。俺の服を脱がそうとしてくるアイリスの手を掴み、その動きを封じた。
「待て待て待て、正式に婚約した訳でもないのに王女に手を出すのは流石にマズイ。俺の首が飛ぶ。落ち着け」
「そんなことどうでも良いじゃない。立場なんて捨てるから、早く脱いで」
「クレイさん、早く早く」
ティールも背後から抱き着いてきて、思うように身動きが取れなくなってしまった。このままでは……
「クレイ」
「クレイ」
「クレイさん」
更に増える声。期待と恐怖が半分ずつ心を占領する自分でも自分の気持ちがよく分からない状態で、その声の方へと顔を向けてみる。
やはり、いた。カレン、フォン、クル。全員当然のように服を着ていない。
「クレイさん」
「クレイ」
「クレイ様」
更に聞こえてくる声を確認してみると、ルー、マーチ、アイビーが全裸でそこに立っている。
そして、全員が群がるように俺へと集まってきて、視界の全てが女体に覆われた。
何だこの状況は。もしや、ここが天国という場所なのだろうか。俺はいつの間にか死んでいたのか。
全身で女子の体の柔らかさを感じる。何という幸福な空間なんだろうか。
だんだんと理性が削り取られていく感覚。もう流されてやってしまっても良いんじゃないだろうか。皆それを望んでいるのだから。
全員まとめて、俺のものに
「師匠ー!」
その声で一気に覚醒した。正気を取り戻し、新たに聞こえてきた声の主を確認する。
「……いや、お前らはそういう枠じゃないだろ」
少し離れたところに、アーサ班の6人が立っていた。当然のように全裸だが、仲間たちとは違い近づいてはきていない。
よく見ると、更に離れたところにも誰かいる。あれは……フルーム先輩?
それよりも少し離れた場所に、ミュアとレーナ。その更に先にリーミス。辛うじて見えるというくらい遠くにカンナさんの姿がある。
……なるほど。俺との距離が恋愛的な意味で近い人ほど近くにいるようだ。恋愛方面で俺に興味を持っていない人はここにはいない。例えば、ウェルシー先輩やニーリス先輩とはそこそこ仲が良いが、彼女らの姿はここにはない。彼女らには俺ではない相手がいるからだ。
要するに、ここにいる人は一言でいえば、押せばいけそうな人、ということだ。
……実の妹であるレーナの姿までここにあるというところに、俺の客観能力の高さが窺える。確かに押せばいけそうなのは間違いないが、押す訳ないだろ。客観視出来るというのもメリットばかりではないな。
まとわりついてくる仲間たちをどうにか引き剥がそうとしながら、周囲を確認してみる。
全裸の女子たち以外には何も存在しない真っ白な空間。恐らくは例の霧の中だろう。前情報通り、どちらへ進めば良いのかもさっぱり分からない。
ということはこれは幻覚か。なるほど、確かに恐ろしい幻覚だ。危うく一生この空間にいたくなるところだった。
……これが俺の欲望か。いつから俺はこんなに分かりやすく色欲塗れになってしまったのだろうか。
さて、この空間を脱出する方法は既に分かっている。それは、心の底からこの先へ進みたいと思うことだ。
命の危険を感じるほどに疲労した上でもう帰りたいと考えると、この霧の中に入った場所へ戻っている。つまり、この空間は自身の気合いで抜け出すことが出来る。
それなのに何故この霧の先へ行った者が存在しないのかといえば、騎士団の探索部隊はどうしてもこの先へ行きたいとは思っていないからだ。
この先へ行きたいとは思っている。だが、それが自分の命を懸けてでも、何が何でも行かなくてはならない、この先に行かなければ世界の終わりだ、などと考えるほどに進みたいのかといえばそんなことはない。
この先に何があるのかも不明。行って得があるのかすら分からない。ただ何があるのか分からないから調査しているだけ。そんな状態で前後左右も分からないような霧に閉じ込められて、先に進みたいと思うか帰りたいと思うか。当然後者だ。
だが俺は違う。俺はこの先へ進まなければならない理由がある。このまま帰ればどうなるか分からない。最悪殺されるかもしれない。この先へたどり着き、そこにある物を確認して課された試練を乗り越えなければならない。
最初に起きた変化は、まとわりついてくる仲間たちだった。
決して逃がさないと言わんばかりにしがみついてきていた仲間たちの手から力が抜け、少し押し退けるだけでその包囲を抜け出すことが出来た。
そのまま、何となくこちらが前だと思われる方向へと歩を進める。
ちらりと背後を振り返れば、そこにいたはずの全裸の女子たちの姿が消えていた。少し惜しいことをしたか、などという思考をどうにか追い出し、更に前へ。
少しずつ、白が薄くなっていく。
一歩進むごとに、世界が色を取り戻していく。
そうして、完全に霧を抜けて、
目の前に広がっていたのは、見たことがないほどに大きな都市だった。
いや、大きな都市だったと思われる、廃墟だった。
開かれた門の先、正面には大通りが伸びている。賑やかだったのだろうその市場は今は静寂に包まれ、ただ立ち並ぶ屋台や商店が寂しげに客を歓迎しているのみ。
その大通りを通り抜けた先、遠くに見える巨大な城。
今よりも遥かに劣る建築技術しかなかったはずなのに、ヴォルスグランの王城を超える威容を誇るその城は、朽ちてなお存在を主張している。
「ここが……先生たちの故郷なのだろうか」
門を通って都市に足を踏み入れる。これからどうすれば良いのか。あの城に行ってみるべきか。
「ようこそ、クレイ君」
横から聞こえてきた声に目を向ければ、キャロル先生がそこにいた。
「先生も霧を抜けていたんですね」
「うん。わたしは霧の先がどうなっているのか知ってるから、そんなに苦労はしないかな」
やはりか。そうだろうとは思っていた。しかしそうだとしても、命を懸けて霧を抜けてきた俺よりも先に抜けるとはな。それだけこの場所に思い入れがあるということか。
そうなるとやはり、この都市は先生たちの、
「うーん、ここに来るのも久しぶりだなー。さて、クレイ君。改めてようこそ、わたしたちの故郷へ。ここは、この国はね」
ディルガドールっていうんだよ




