第171話 重すぎる感情
「おはよう、お兄様」
「…………ああ、おはよう」
朝、目を開けると、目の前にレーナの顔があった。正直かなり驚いたが、寝起きで動きの鈍い体のお陰で何とか冷静に返事をすることが出来た。
以前はしばしばあったこの光景だが、久しぶりで心の準備が出来ていなかった。
「何をしている?」
「ダメ?」
「駄目というか、何をしているのか聞いているんだが」
「お兄様はレーナが守るの。だから良いでしょ?」
何を言っても無駄か。こうしてレーナに守るんだと言われると、どうしてもあの日のことを思い出す。
(お兄様は何も出来ないのだから、わたしに全部任せて)
それ以前から、俺とは比べものにならない速度で強くなっていたレーナは、あの日以降急激に成長した。4つの型を習得し、攻撃型のスタイルを確立させ、あっという間にグレグにも食らいついていくようになった。
そして異常なほど俺に寄ってくるようになった。何をする時でも俺の傍にいて、風呂やベッドにまでついてくるようになった。何をするでもなくただ傍にいるレーナに対して、何となく気味の悪さを感じていた。
レーナはきっと俺のことを好意的に思っているのだろう。だが、俺はレーナが苦手だった。
いや、正確には、あの日から苦手になった。
俺はレーナに対してそれなりに世話をしてやっていたつもりだった。自分よりも弱い存在は初めてだったし、数少ない恐怖しなくても良い相手だということで、俺自身もレーナと接するのは嫌いではなかった。
その後、みるみる強くなっていくレーナに嫉妬もした。だが、レーナがいくら強くなろうと、俺がレーナを助けてやっていたあの頃は俺より弱かったのは間違いない。
打算もあった。レーナに優しくしてやれば、間違いなく俺に懐く。そうすれば、この家の中に味方が出来る。
家族の愛情のような物を感じていたのもあった。何となく、妹が可愛くて、大切に想えたから、あまりにも厳しい父や兄を中和するくらい優しく接した。
だから、あの言葉を聞いた時、酷く裏切られた気分になった。
意識的にか無意識的にか、俺を守らなければならない弱い存在だと定義するようになり、見下してくるようになった。
俺が自分の実力を信じられなくなっていたのは、父や兄に負け続けていたというのもあるが、妹が常に俺を弱者と位置付けていたせいもあるだろう。
それでも唯一の味方であるレーナから離れることは出来なくて、レーナから投げ付けられる俺を見下す言葉を受け止め続けていた。
だから俺は、レーナが苦手だ。
朝食のために、レーナと共に食堂へ移動する。食堂に入ると、俺たちが来る時間が分かっていたかのように、たった今用意されたといった様子の朝食がテーブルに並んでいた。
レーナと並んで椅子に座り、食べ始める。恐らく今日もグレグが鍛練をさせてくるだろう。食事はしっかり取っておかなければ。
「ねえお兄様。学園の班の仲間のことを教えて?」
「どうした急に」
「お兄様は学園でどんな生活をしているのかなーって思って」
別に隠すようなことでもないし、良いか。仲間たちがどんな奴らなのか、教えてやろう。
「最初に仲間になったティールは、元々物凄い気弱な性格だったんだが、どんどん能力的にも精神的にも強くなっていってな。頼りになるようになった」
「へー」
「フォンは本が好きでな。いつでも本を読んでいる。人知を超えた氷魔法の使い手で、あの魔法に助けられたことは数えきれないほどある」
「うんうん」
「カレンは純粋に強い。誰よりも頼りになる俺の班の最強戦力だ。反面勉強が苦手でな。試験前にはよく泣きつかれる」
「そうなんだ」
「アイリスは知ってるだろ? この国の王女だしな。王家特有の雷魔法は強力で、速度と威力を兼ね備えている。本人に戦わせても援護させても活躍する、最高の後衛だ」
「うん」
「クルは仲間たちの中で最も身軽だな。高速で接近して叩き込む強力無比な拳打は、そのたった一撃で決着になることもある必殺技だ。王族付きのメイドで能力が高いから、日常でも世話になることが多いな」
「…………分かった。ありがとう」
あいつらは元気にしているだろうか。ほんの数日離れているだけだというのに、そんなことが気になってくる。レーナに仲間たちのことを話していると、彼女らの顔が思い浮かんできて自然と笑っているのが自覚できた。
「じゃあレーナは部屋に戻ってるね」
「ん? そうか、分かった」
もう食べ終わっていたのか。話に集中し過ぎたな。俺もさっさと食べるとしよう。
自室に戻り、鍛練の準備をする。グレグに言われた訳ではないが、準備をしていなかったからとグレグの不興を買って鍛練が厳しくなったら面倒だ。自分から用意をしておくべきだろう。
コンコンコン
ノックの音が響く。誰かが訪ねてきたようだ。グレグだろうか。ノックすることを覚えてくれたなら何よりだが。
「誰だ?」
「レーナだよ。入って良い?」
「ああ、どうした?」
部屋の扉を開けてレーナが入って来る。両腰に剣を差しているのは、俺と同様にこれからの鍛練の準備だろうか。
……昨日はレーナが目を覚ましてからずっと一緒にいた。俺と同様、グレグから鍛練の指示は受けていないはずだ。
レーナは俺とは違い、グレグの怒りを買ったら面倒だから、などという理由で自主的に鍛練の準備をするような人間ではないはず。
何故剣を差している?
不穏なものを感じ取り、念のため解析眼鏡を起動しておく。
「お兄様は、学園が好き?」
「……ああ、好きだ」
「何で?」
「俺が自由を手に入れることが出来る場所だからだ。大切な仲間や友人もいるしな」
「……本当?」
普段俺と話す時には常に浮かべている笑顔はなく、何を考えているのか分からない無表情。そこからは何の感情も読み取れない。
だが、その手に、いつでも剣を抜くことが出来るようにわずかに力が込められているという情報が、眼鏡に映し出されている。
何故レーナが俺を攻撃しようとしている? 何がそれほどまでにレーナの怒りを買ったのか、全く分からない。だが、無防備にレーナの攻撃を受ければ、その瞬間に命を落としかねない。俺も対応出来るように、いつでもナイフを抜けるように、いつでも回避が出来るように、構える。
「もちろん本当だ。こんなことで嘘を吐く理由がない」
「あるでしょ?」
「……何?」
「レーナに心配をかけないように優しいお兄様は無理して気丈にふるまってる。全部分かってるんだから。だってお兄様強くなってるし。レーナがいないからいじめられたんだ。だから頑張って身を守るために強くなったんだよね? お兄様はカッコいいから力ばっかり強い女どもが自分の物にしようと寄ってきて無理矢理お兄様を好き勝手にしてるんだ。力ばっかり強い教官が無理矢理お兄様に鍛練させていじめてるんだ。本当は辛いんだよね? だから大切な妹のレーナに優しくして心を癒してるんだよね? 分かってる。全部分かってる。お兄様はレーナが守るの。誰からも何からも、レーナが、レーナが守らなきゃ、守らなきゃ、守らなきゃまもらなきゃまもらなきゃ」
だから一生、レーナの傍にいて?
「っレーナ!!」
飛びかかってくるレーナの行動が予測出来ていたため、ギリギリで回避に成功。レーナから離れるために部屋を飛び出し、振り返る。
「何で逃げるの? レーナが守ってあげるの。一生レーナがお兄様の傍にいてあげるの。だから、大人しくして?」
「落ち着け! 何がそれほど気に障ったのか分からんが、悪いことをしたなら謝るから! 一旦落ち着いて話をしろ!」
「謝られることなんてないよ。お兄様は最高のお兄様だもん。でも、だからこそお兄様は回りの人間にいじめられちゃうの。だからレーナが守るの。お兄様はもう外に出なくて良い。レーナが全部お世話してあげる。ずっとずっと、レーナの部屋で一緒に過ごそう?」
そんなふざけたことを言いながら剣を抜くレーナ。その視線から、最悪一本くらい足を斬り落としても良いかと思っていることが読み取れる。
まともにやっても勝ち目はない。ここはとりあえず逃げなければ。




