第168話 妹への感情
自室の扉を開け中に入る。懐かしいと感じるが、学園に入る前は鍛練以外はほぼこの部屋で過ごしていた。過ごした時間は学園よりよほど長い。
それでも1年と経たずに懐かしさを感じるのは、それだけ学園生活が濃いということなのだろう。
ベッドと本棚、少々の筋トレ道具。本を読むための簡素な椅子と机。本棚には騎士になるための参考資料が入っている。礼儀作法、戦術戦略や捕縛術、気配察知、歴史や経済まで様々だ。
そして、壁にかけられた2本の剣。
部屋にあるのはこれだけだ。1年近く使っていない部屋だが、埃一つ見当たらない。クロウが掃除してくれているのだろう。
この家にいた時、鍛練か勉強かくらいしかやることがなかった。父は俺たち兄妹の弱点を潰すことを優先していたのか、ある程度の基礎が出来るようになってからは、俺には鍛練、妹と兄には勉強をさせることが多かった。
俺たち兄妹は父の能力の一部しか受け継ぐことが出来なかったのだろう。俺は頭脳面、妹と兄は戦闘能力が優れていた。父にとって重要なのは戦闘能力なのか、明らかに俺にだけ厳しくする父を見て、幼い頃は理不尽さに涙が出そうになったものだ。
剣を手に取る。久しぶりに持った剣は、以前よりも軽く感じる。俺も多少は筋力増強が出来ているということだろうか。
リーチという面でも威力という面でも、ナイフよりも剣の方が優れている。昔から剣の鍛練をし続けていたということもあり、実を言うとナイフより剣の方が使えるくらいだ。
では何故ナイフを使っているのかといえば、当然その方が俺のスタイルに合っているからだ。気配を消し不意を突く、打ち合わずに避ける、牽制に武器を投げる。どれもナイフの方がやりやすい。
軽く右手の剣を振ってみる。相変わらず今一つな剣筋だ。実戦で使うには、全体的に物足りない。ナイフなら速度だけは満足できる水準に達するのでナイフを使っているが……多分剣に合わせてスタイルを変えた方が強いのだろうな。だから父は俺に剣を教えていたのだろうし。
結局は力不足。満足に剣を振れるだけの力すら俺には備わっていないという、それだけの話。
何の意味もない再確認を終え、剣を壁に戻そうとした、丁度その時。
「やあクレイ、邪魔するよ。帰ってきているならこの兄に挨拶の一つくらいあっても良いんじゃないかい?」
無駄にサラサラツヤツヤの長い黒髪をなびかせて、俺と似た背格好の男がノックもなしに部屋に入ってきた。
「グレグ……ノックくらいしたらどうだ」
グレグ・ティクライズ。4つ年上の兄で、剣好きの変態だ。実力は高く、既に一般的な騎士程度なら軽く薙ぎ払えるほどのレベルだが、反面頭が悪いため、時期尚早ということで騎士団の入団試験への参加を見送り、家で勉強と鍛練の日々を過ごしている。
「良いじゃないか。クレイも兄に久々に会えて嬉しいだろう? って、おや? クレイ、剣なんか持ってどうしたんだい? もしかして」
「さっさと出てけ。今日は帰ってきたばかりだから休息だ。模擬戦などやる気はない」
「相変わらず向上心がないなぁ、クレイは。仕方あるまい。今日は下がるよ。でも、明日はやるからね。僕は長男として、弟たちの成長を確認しないといけないんだから」
「……ああ、分かってる」
こいつは馬鹿で変態だが、基本的に父の考えに沿って行動する。父がいない間、弟妹の実力管理を任されているため、こうして模擬戦や鍛練に連れ出してくる。
その内容は苛烈だ。
動けなくなるまで痛めつけるのは当たり前。酷い時には倒れている相手に向けて、全力で回避しなければ死にかねないほどの一撃を繰り出すことすらある。
父の思考に沿って、ひたすら鍛練を。
現在は俺は学園に通うことが父の考えのため、帰ってきた今日は休息だ、と言ったら受け入れてもらえるが、以前は俺の希望で休みを取ることなど出来なかった。
仕事で家にいないことが多い父よりも、実際に俺を痛めつけることが多いのがこの兄だ。
「お兄様―! 久しぶりにレーナと……ゲッ」
笑顔で跳ねるように部屋に飛び込んできたレーナが、一瞬で顔をしかめる。ここにグレグがいるとは思っていなかったのだろう。
「レーナ、兄に向かってゲッとは何だい」
「……何でお兄様の部屋にいるの、兄さん」
「はぁ、相変わらず僕とクレイの扱いが違い過ぎるね、お前は。何でって、久しぶりに帰ってきた弟に会いに来るのは当然じゃないか」
「そんなこと言って、お兄様をいじめる気でしょ。止めてよね」
「人聞きが悪いなぁ。ま、良いよ。今日は休みの日だそうだから」
グレグが部屋を出て行くと、すぐに興味をなくしたようにこちらに向き直るレーナ。
「お休みなの? じゃあレーナと遊んで!」
「遊んでって……何をするんだ?」
「んー……分かんない! お兄様と一緒なら何でも良いよ」
この家に娯楽などほとんど用意されていない。勉強か鍛練か休息か、それだけの生活だ。いきなり遊んでと言われても、何をして遊んでやれば良いのやら。
「ああ、そういえば、これを持ってきていたんだった」
「なになに? 本?」
「ああ。学園の友人が書いている本だ。以前は物語の類は読まなかったんだが、最近は勧められているのもあってそれなりに読むようになった。貸してやるから、読んでみると良い」
「……学園の友人? それって女の子?」
「ああ、そうだが」
「…………ふーん。分かった、読んでみるね」
俺と同じで、妹も物語の本など読んだことがないはずだ。趣味に合うかは分からないが、今まで見たことがない物に目を向けるのは成長に繋がるということを学園で学んだ。これも妹にとって良い機会になるかもしれない。
恐らく妹も俺と同じようにこの家を良く思っていないだろうし、これが外に目を向けるきっかけになれば将来の選択肢を増やすことになるはずだ。
何だろうな、これは。以前の俺なら妹の将来など気にかけることはなかったはずなのに。いや、そんな余裕はなかったと言うべきか。
これも成長、なのだろうか。
一応警戒して家の中でも常にナイフを身に着けるのは止めはしないが、一方で自宅でそんなに気を張っているのは馬鹿馬鹿しいと考えている自分もいる。
ベッドに横になって本を読み始める妹から視線を外し、俺も別の本を読み始めた。
しばらく本を読み、それなりの時間が経った。
「そういえばレーナ、勉強は良いのか?」
「んー? んー……ダメ」
「怒られるぞ?」
「……でもお兄様と一緒に居たいし」
この家において、怒られるというのはあまり冗談にならない。折檻を通り越して拷問なのではないかというくらいの苦しみを受けることになる。
それが分かっているから、レーナは俺と一緒に居たいと言いつつも勉強のためにベッドから起き上がる。こちらへチラチラと視線を向けつつ部屋を出て行こうとするレーナに対し、考える前に言葉が飛び出していた。
「教えてやろうか?」
「…………え?」
あまりにも予想外のことを言われたという表情のレーナに、文句を言う気にもならない。何故なら俺自身も同様の気持ちだからだ。
何だ、この仲の良い兄妹のようなやり取りは。
「良いの?」
「ああ、構わない。参考書を持って来ると良い」
「うん! すぐ持ってくるね!」
満面の笑みを浮かべて部屋を飛び出して行くレーナ。確かに以前から妹は俺の前で笑うことは多かった。だがそれに対し、何ら特別な感情は俺にはなく、事務的に対応していただけだった。
今は、悪くないと思える。
苦手だと思っていた妹に対し、当たり前のように優しく接することが出来ている。一緒の時間が苦ではなく、妹の要求通りにしてやっても良いかと思っている。
「持ってきたよー!」
「じゃあ始めるか。今はどこまでやっているんだ?」
机に向かって参考書を開く妹。それを後ろから覗き込み、理解度を確認しながら教えてやる。
相変わらずあまり頭が良くない。以前のカレンを思い出す。
だが、俺が教えているからか、集中して机に向かう妹の姿に、やはりカレンを思い出す。
こんな時間も、悪くない。心から、そう思えた。




