課長・灰原姫子
「売れなかったですって!? わたくしがそれで納得すると思って!?」
営業課長・灰原姫子の辛辣な声に、事務所中がビクビクする。その前で項垂れる川井宗太郎は、自分の娘ほどの年頃である鬼上司に頭が上がらない。
「すみません、しかし……」
「あら、この期に及んで言い訳なさるおつもり? そんなことに頭をお使いになったら、また髪の毛が減りましてよ」
川井は思わず薄くなった自分の頭髪に手を当てた。
「ともかく、ここには売れない営業社員の居場所はなくってよ。あなたのお席を粗大ゴミに出されたくなければ、何か売って来なさいな。オッホッホッホ」
川井は慌てて飛び出した。そして灰原の魔女のような高笑いが収まった時、一本の電話がかかって来た。
「灰原課長、栗夢さんの奥様からお電話です」
「栗夢の奥さんがわたくしにですって?」
灰原が受話器を取る。周りの社員たちは何か一悶着ありそうな予感に怯えている。
「仕事のストレスで鬱に? まあ、お気の毒ですこと。医者の指示でしばらく休職したいですって? そうおっしゃられても、ご主人は今抱えている案件で抜けるわけには参りませんの。わたくし、これからお迎えにあがりますわ」
受話器を置いて身支度を整える灰原に、営業部長の中三川が慌てて声をかけた。
「待ってよ、灰原ちゃん。鬱病で休む社員を引っ張り出すのはまずいって。わが社のコンプライアンスの問題もあるし……」
すると灰原は中三川をキッと睨んだ。
「灰原〝ちゃん〟ですって? わたくしが女だからそうお呼びなさるの!? それってセクハラ、女性蔑視じゃなくて!?」
「いやいや、そういうつもりじゃ……だけどね……」
「とにかく、栗夢は大事な案件を抱えておりましてよ! 仕事に出てこれないんならクビですから、人事部にちゃんといっておいて下さいまし! オッホッホッホ」
中三川に反論の余地を与えず、灰原は嵐のように出て行った。事務所に残された社員たちは一様にため息をついた。最早この会社には、灰原に意見できる人間はいなかったのである。
灰原が社屋を出ようとすると、受付嬢の那須と鳥瀬がビシッと起立した。
「灰原課長、お車が待っています」
「ありがとう」
灰原が急に出かけることになると、何も言われずともタクシーを手配するのがしきたりになっていた。それを忘れようものなら、「わたくしは急いでいるんですの。あなた、わたくしにここで無駄な時間を過ごさせるおつもり?」
と、ねちねちいわれることになるのだ。だから灰原が動くと事務所と受付の那須と鳥瀬が連携で素早く対処する。
灰原は用意されたタクシーに乗り込むと、栗夢家の住所を告げた。
栗夢家は、樫の木の生い茂った林の奥にあり、車を降りてから門まで少し歩かなければならなかった。そのことがまた灰原を苛立たせた。
「どうしてわざわざこんな不便なところに住んでいるのかしら!」
そうやってプンプン怒りながら歩いていると、いつの間か林の中に迷いこんでしまった。
「あらやだ、わたくしとしたことが」
灰原はスマホを取り出してマップを見ようとした。ところが、画面を見ると圏外となっている。
「こんな町中で圏外なんて、ありえませんわ!」
灰原は腹立ち紛れにスマホの画面を何度もスワイプするが、電波はやってこない。そうしているうちに、だんだんと目の前が真っ暗になり、灰原は意識を失った。
⌛︎
ゴホッゴホッ
灰原が目を覚ますと、あまりの埃っぽさに咳こんだ。見ると、灰の中で寝転がっていて、黒を基調としたビジネススーツが灰で真っ白になっていた。
「嫌だわ、服が灰まみれですわ。これではクリーニングでも取れなくてよ。いったいどうなさるおつもり?」
灰原が誰にともなく喚きたてていると、ツカツカという足音と共に、見知らぬ婦人がやってきた。
「何なのよ、うるさいわね! ……ってあんた、なんてへんてこりんな格好をしているの!」
そういう婦人のほうはというと、中世ヨーロッパ風の格好をしていた。中年太りの弛んだ体格と全く合っていない。
「あなたこそ……何ですの? そのださい格好……」
すると婦人の顔色がみるみる赤くなった。
「まあ、この子ったらなんて言葉を使うの! ちょっと甘い顔をしてたらいい気になって!」
そういうが早いか、婦人は灰かき棒を手に取って灰原をバシバシ叩き始めた。
「痛いですわね! 何をなさるの? パワハラで訴えますわよ!」
「何わけわからないこと言ってるの、早くこの作業着に着替えて台所仕事をなさい、この灰かぶり!」
(……シンデレラ? この人、シンデレラって言った? もしかしてわたくし、シンデレラに生まれ変わってしまったの?)
灰原は突然訪れた過酷な運命に顔色を失った。