第五章
昨日の夕方、仕事を終え帰宅しようとしたら、おやっさんが「おい、それとな、篠原さんから伝言があったんだけどな、新作があるなら、明後日の昼過ぎに届けてくれとさ」と言ったので、次の日の午後、僕は工房から歩いて十五分のところにある篠原さんのアトリエに向かった。
篠原さんは五十代半ばの著名な画家で、彼は何故だか、僕の作るジュエリーをいたく気に入ってくれていた。彼は作ってもらいたいジュエリーのラフなデザインを自分で描いて持ってくるのが常なのだが、いつも僕が制作中の物を眺めて、「それいいね!」と言うと、結局、自分のデザインは引っ込めてしまい、「新作ができたら声を掛けて欲しい」とだけ言って帰って行った。だから、僕が勝手気ままに好きなように制作したジュエリーを彼に見せると、いつも「素晴らしい」と手放しで褒めてくれた。そして彼は、それをモデルに身に着けさせて絵を描くのだった。
彼のアトリエに行くのは僕としても楽しみな時間だった。篠原さんは若い頃、世界中を旅していたらしく、そのときに手に入れた世界中の思い出の品が、家中に置かれていた。僕はそんな思い出の品を見ながら、彼の話を聞くことを楽しみにしていた。
「ちょっと訊いていいですか?」
僕はアトリエに置かれている、ある女性の肖像画を見ながら聞いた。このアトリエにはずいぶんたくさんの女性の絵が置かれてあるのに、女性の顔はみな同じなのである。モデルは何人もいるのに……。彼はいつもモデルの体だけを写し取り、顔はその女性の顔にすげかえているのだった。
「なんだい?」
「篠原さんは何故独身なんですか?」
「なんだよ、唐突に……。今日は外国の話じゃないんだね。今までそんなことを訊いたことがなかったじゃないか」
「それはそうですけど……。いや、訊いてはいけないような気がしていたので……」
そう言って、僕はその女性の絵を一枚持ち上げて眺めていた。
「ま、このアトリエに来た人間は、そういう疑問はいつも持つみたいだがね」
そう言って、篠原さんは笑った。
「やっぱり、描きたい人の絵を画家は描くものなんですか?」
「うーん、人によると思うけど、大抵の人はそうなんじゃないかな」
「じゃあ、篠原さんはこの女性のおかげで独身なんですね?」
「そうだね」
そう言って篠原さんは満面の笑みになった。その後を話してくれるのを待っていたが、彼は「その続きは機会があったら話してあげるよ」と言ったので、僕は退散せざるを得なかった。帰り際、「またお伺いしてもいいですか?」と訊ねたら「いつでもどうぞ。話の続きをしなくちゃね」と彼は言った。
篠原さんの家の玄関を出て、ふと右手にある庭をのほうに目をやったら、ある人間が篠原さんの家を窓越しに覗き込んでいた。僕は泥棒かと思って思わず「わっ!」と叫んでしまった。その人間も僕の声に驚いて、慌てて逃げてしまったが、今度は家の中から篠原さんが飛び出してきた。
「な、なにかあったの!?」
「い、いえ、今そこに人が!」
「えっ? もしかして中学生くらいの男の子だった?」
そう言われて、背格好を思い出してみたら、確かにそんな気がする。
「そうかもしれません」
「なら、大丈夫だよ。隣の賢治君だよ」
「隣の子、なんですか?」
「うん、彼、引きこもってるみたいでね、滅多に家を出て来ないんだけど、僕の家にはああやって時々やって来るんだよ」
「ふーん、そうなんだ。初めて気付きました」
「何があったのか分からないけど、中学に入ってから引きこもりになって、家族にも顔を合わせないようにしてるって、お母さんも言ってたしね。だから、せっかく家から脱走してるんだから、僕も放っておいてあげてるんだよ」
「アトリエを覗いてたから、絵に興味があるんですかね?」
「うん、そうかもしれないね」
そう言って篠原さんは笑った。
第六章に続く