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二人でいたから  作者: 早瀬 薫
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第四章

 僕はあの代官山のカフェで杉下という男に逢ってからというものの、言い知れぬ不安に度々襲われるようになっていた。何故、杉下という男は「お前この辺に住んでいるのか?」と僕に訊ねたのだろう? 奈々子に杉下のことを聞いても、はぐらかすばっかりで、本当のことを答えてくれてはいないようだった。アイツのことを知りたい。アイツのことを知るということは、つまりは自分の過去の一端を取り戻すということだ。奈々子に出逢ってから、彼女が知っている自分のことを根掘り葉掘り訊いてきたけれど、それだけじゃ、足りない。奈々子が教えてくれない自分のほうに、何か大切なことが隠されているような気がしていた。

 工房で働くようになって、奈々子に逢うまで、昔の同級生に遭遇したことは一度もなく、奈々子と結婚してからも十年間、大したことは何も起きなかった。そのことに何も疑問を感じたことはなく、むしろ、奈々子と結婚できたことに幸せを感じていた。坦々とした毎日をありがたく思っていた。しかし、杉下に出逢ってから僕の心の中で、何かがミシッと音を立ててヒビが入るのを感じた。そしてそれは、この先、放置したままにしていたら、もっと大きなヒビが入り続け、そのうちガラガラと大きな音を出して崩れ落ちてしまうのではないのか、と思われるような不気味な不安だった。この不安の元が一体何なのかつきとめなくてならない。そうじゃないと僕は大切な奈々子まで失ってしまうのではないか? 日を追うにつれ、そんなことまで考えるようになっていた。


「ねぇ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど?」

「なに?」

「中学のこと」

「またその話? だから言ったでしょ。目黒区じゃなくて、調布市だったのよ。だから代官山で知った顔に久しぶりに逢って、びっくりしたの。前から中目黒に住んでたら、そんなにびっくりしなかったと思うわ」

「そうか……」

「うん」

「だったら、どうして僕は中目黒の工房で働くようになったんだろう?」

「それは私に訊かれても分からないわ。宮前さんに訊いてみたら?」

「そうだね」

「でも、亮ちゃん、……無理をして思い出すこともないんじゃないの?」

 そう奈々子は不安そうな顔をして言った。


 翌日、おやっさんに訊いてみた、「なんで僕はここに来たんですか」と。おやっさんは物凄く驚いたみたいで、穴が開くかと思うくらいに僕の顔を凝視した。

「なんで今更そんなことを訊くんだ?」

 さっきまでびっくりして僕の顔を見ていたおやっさんは作業の手を止めて、胸のポケットに入れていた煙草を取り出した。そして、一本僕にくれると、彫金に使うバーナーで煙草に火を点け、深く吸った。僕もおやっさんと同じように、煙草の煙を肺の奥深くに入れた。

「いや、そんなことも知らないなんて、おかしいじゃないですか?」

「言われてみれば、そりゃそうだな……」

 おやっさんはもう一度煙草を深く吸うと、灰をトントンと灰皿に落とした。

「お前、本当に何も覚えてないんだな」

「ええ」

「お前はな、ある雨の日、工房の前で雨宿りしてたんだよ、捨て猫のようにな。それを俺が拾ってやったんだよ」

「え?」

「前からこの工房に興味があったんだろうよ。何度も見かけたからな」

「そうなんですか」

「ああ」

「……そうなんだろうな。僕はこの仕事が好きだから」

「あんまり何回も見かけるもんだから、『中に入って作業を見るか?』と言ってやったら、お前はものすごく喜んでたよ」

「ふふ、そうなんだ」

「それからだよ。毎週のように、ここに来るようになったのは……。そしたらよ、ある日、お前が俺に言ったんだよ」

「もしかして、弟子にしてくださいって?」

「おう、それだ」

 僕はおかしくなって笑ってしまった。

「もちろん、断ったよ。当たり前だろ? このボロボロの工房を見てみろよ。どこに金が転がってんだ? 自分一人が食っていくのに精一杯なのに、こんな落ちぶれた工房に弟子を雇ったところで、どうやってコイツを食わしていくんだと思ったさ。だけどな、お前はそんなことを一切気にもせずに、毎日嬉しそうに俺が作業してるのを見てたんだよ。それに、お前には俺にない才能があった。だから、俺はお前に賭けることにしたんだよ」

 僕は、おやっさんの横顔をずっと見ていた。深く刻まれた皺、剃り残された白髪交じりの髭、どれも今までの彼の苦労を感じさせるものだったが、それらとは対照的な温かく深い黒い瞳は、むしろ若々しささえ感じられた。僕はおやっさんの横顔が好きだった。僕の親父も生きていれば、こんな風だったんだろうなと思う。おやっさんは奥さんを十五年前に亡くしていた。一人娘の友加里さんは近所に住んでいて、ときどき孫娘を連れてやって来る。それが楽しみで仕方がないようだった。娘夫婦とは同居もせず、一人暮らしを貫いていて、だから、僕のようなものが突然転がり込んで来たのに、可愛がってくれるんだろうと思う。

「僕はここに来る前は、調布にいたんですよね?」

「おう、そうだったな」

「なのに、どうしてここをふらついてたんだろう?」

「そんなの、俺が知るわけねぇだろうが。誰か俺の他に知った奴でもいたんじゃないのか?」

「そうなのかな……」

「そうだろうよ」

 そう言って、おやっさんはしかめっつらをして、再び煙草を深く吸った。


第五章に続く

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