第三十四章
いつも立ち寄る本屋の前でタクシーを降りた。静かな本屋の中に入ると、高揚していた気分が少し落ち着いた。美術コーナーに行くと、そこに見慣れた姿を見つけた。篠原さんだった。篠原さんの姿を見つけて、心底ほっとした。篠原さんは画家なので、僕と同様に、写真集や絵画集のコーナーでいつもいろんな本に見入ってしまうらしい。書架には篠原さん自身の絵画集も目立つところに置いてあり、彼は人気作家の一人だった。
僕はそっと篠原さんに近づき彼の横に並ぶと、目の前にあった篠原さんの作品集を手に取った。
「凄いな」
僕のその発した声で、自分の横に立った人間が誰なのかすぐに分かったようで、篠原さんはびっくりして「やぁ、亮君」と言った。
「篠原さんの作品は凄いですね」
「あ、これかい?」
僕は、彼の初期の作品集を手に取っていた。
「いやぁ、今見ると恥ずかしいよ」
「そうですか?」
「うん……」
「風景画が多いですね」
「そうだね。幸代と出逢うまでの作品だからね」
「でも、僕はこの頃の作品も好きだな。絵全体の色のバランスが取れていて、風景画なのに見たままじゃなくて、ちゃんと計算されて描かれてある」
「元々、僕はデザインのほうをやりたかったんだよ。だからなんだと思うよ。絵画は、結局人の手によるものだから、どうにでもできるという面白さがあるよね」
「そうですね。だから、なぐり描いたような抽象画にも色の面白さがあって、惹かれるんだろうな」
「でも、画家の僕でさえ、絵であれば全部が全部良いとは思ってなくて、何がいいのか全然分からない物も中にはあるよ」
「やっぱり、そうなんですか?」
「そうだよ」
そう言って二人で笑った。
僕は、篠原さんの初期の作品集を書架に戻すと、今度はつい最近出版されたものを手に取った。
「これが最新版なんですね」
「そうだね」
「あ、僕が作ったネックレス……」
幸代さんが付けているネックレスを見て言った。
「そうだよ」
「なんだか恥ずかしいな」
「そうかい? 今度から注釈を入れようかと思うんだけど」
「え?」
「ネックレス作 加山亮って」
「ほんとですか?」
「だって亮君もアーティストだし、こんな良い作品、みんなに知って貰いたいじゃない?」
「篠原さんにそんなことを言われるなんて、物凄く光栄です……」
「いやいや……」
「でも、この作品集の幸代さんは、なんだか昔より若返ってるような気がする」
中を捲りながらそう言った。
「もう、亮君には敵わないな」
「そうなんですか?」
「うん。全部見透かされてるよ。歳を取るにつれ、僕の中で幸代がどんどん美化されて来てるのかもしれない。長く生きてても、結局彼女を超える女性には今も巡り会っていないから。画家は、女性によって芸術性を高められるのかもしれないね。ほら、ダリとかシャガールとかもそうだろ?」
「そうですね……。でも、愛する女性を失っても一人で頑張り続けてる篠原さんは、ダリやシャガールからすれば、尊敬に値すると思います」
「そうかな……」
そう言って、篠原さんはクスクス笑った。
篠原さんと話していると、いつも救われるような気がする。本当は篠原さんの心の中は、悲しみが溢れているんだろうに……。
「でもね、亮君のおかげで、少し解放された気分になってるんだよ」
「え?」
「これからは、風景画もどんどん描いていこうと思うんだよ」
「そうなんですか?」
「うん、だから、来月、エジプトに行こうと思っているんだ」
「エジプトに?」
「幸代と一緒に行くはずだったエジプトを見に行こうと思ってる」
「だったら、財宝も探して来てあげてください」
「うん、そうするよ」
篠原さんは笑顔で僕にそう言った。
「亮君、それとね……」
帰ろうとする僕に、思い出したように篠原さんが言って僕を引き留めた。
「はい?」
「賢治君が、あれから時々一人でうちに来るようになったんだ」
「え? ほんとですか! それは良かったですね!」
「うん。お母さんも喜んでたよ」
「そりゃそうでしょう」
「絵が好きなんだろうね。だから、油絵の描き方を教えてあげることにしたんだよ」
「そうなんですか」
「うん。これも亮君のおかげだよ」
「いえ、そんな……」
「亮君が賢治君に声を掛けてくれたからだよ」
そう篠原さんに言われて、なんだかとても嬉しかった。こんなに嬉しかったのは、久しぶりかもしれない。
第三十五章に続く




