第三十三章
次の日、亜美ちゃんが通っている保育園の前を通りかかったので、そっと様子を覘いてみた。おやっさんが今日も相変わらず、友加里さんのところへ昼飯を食べに行かなかったからである。亜美ちゃんは園庭で友達と仲良く遊んでいた。ところが男の子と砂場でおもちゃのスコップの取り合いになり、自分が持っていたスコップを取られてしまった亜美ちゃんは、ところかまわず大声で泣き始めた。男の子はスコップを奪い取ったまま居直って遊ぶのかと思っていたら、泣いている亜美ちゃんにスコップを返し、彼女の頭を優しく撫でて謝っていた。二人は小さなカップに砂をつめては砂のプリンを山ほど作り、他の子たちも呼んで、大勢でままごと遊びを始めた。楽しそうな彼女たちを見ていると、子供はいいなとつくづく思った。それに比べて、なんと大人はややこしいのだろう? あれから二週間以上経っているのに、まだ大人は仲直りができていない。亜美ちゃんの喧嘩の一部始終を見ていて、その様子をおやっさんと友加里さんに見せてやりたいと思った。結局、仲直りの方法は、エゴなんか捨て去って譲り合うしかないってことじゃないか。
子供たちが遊んでいる様子を見ていたら、なんだかすごく心が癒されたので、そのままぼんやり突っ立って見ていたら、亜美ちゃんが僕がいることに気付いて駆け寄ってきた。一緒に遊んでいた男の子もくっついて来た。
「あ、亮ちゃん!」
「亜美ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
「亜美ちゃん、お友達?」
「うん、仲良しの健太君」
「おじさん、こんにちは」
「健太君、こんにちは。さっき、えらかったね。亜美ちゃんにスコップを返してたじゃん」
そう僕が褒めると、健太は酷く照れて、体を捩った。「家はどこ?」、「兄弟はいるの?」とかあれこれ聞いていて、ふと健太が「あ、お父さん!」と急に笑顔になって走り去ったので、そちらの方角に顔を向けると、そこに見たことのある人物が立っていて、僕はその人物の顔を見て驚いた。健太の父親はあの杉下だった。そして、同時に信之の言ったことも思い出していた、保育園に息子に会いに行っているという言葉を……。少し離れて彼らの様子を窺っていたが、ごく普通の仲の良い親子にしか見えなかった。それを見ていて、なんだか杉下が気の毒になった。
僕は杉下に見つからないようにそっと帰ろうと思ったが、ふいに杉下がこちらに振り向き、彼と目が合ってしまった。僕に気付いた杉下の表情は、ついさっきまで笑顔だったものが、みるみるうちに歪んだものに変わった。そして、彼は躊躇うことなくしっかりした足取りで、僕のほうに近づいて来た。
「おまえ、何の用があってここにいるんだ」
「あの子は君の息子なんだね」
「お前に関係ないだろう! 何の用があってここにいるんだと訊いてるんだ!」
「知り合いの子が通ってるんだよ」
「そ、そうなのか……」
「健太君というのか……。彼はいい子だね」
「……」
「さっき喧嘩してたのに、ちゃんと謝ってたよ」
「そうさ、健太は俺とは似てないんだよ」
「そうなのかな……。僕は親父と似てた?」
気付けばそう杉下に質問していた。この間、彼が言った「蛙の子は蛙」という言葉が頭から離れないでいたから。
「似てたんじゃないの? お前はすごい器用だったよ」
「器用?」
「美術も技術家庭も、どんな物を作っても人よりずば抜けてたよ」
「君に褒められるなんて思わなかったな」
「事実は変えようがないし」
父のことを聞きたい、お前が知っていることを全部教えてくれと言いたかった。それなのに、どうしても次の言葉が出てこない。奈々子は杉下のことを嫌な奴だと言っていた。信之も杉下が警察沙汰になるような状況に陥っていると言っていた。これ以上、彼に深く関わるのはよしたほうがいい。僕だけならまだいい。けれども、僕には奈々子という妻がいる。彼女に危険が及ぶのだけは避けたかった。それに、杉下と話していて、ちらちらとこちらを窺っている保育園の先生の目も気になっていた。早くここを立ち去らなければならない。
「じゃ、僕はこの辺で」
「おい、待てよ。逃げるのか?」
僕は、その言葉に何も答えずに目礼だけして、その場を後にしようとした。すると杉下が意外なことを言った。
「俺はお前をずっと捜してたんだ」
「え?」
僕は立ち止まり、驚いて杉下のほうを振り返った。
「お前が、中学のとき、突然いなくなったから」
「僕が?」
「そうだ」
「どうして?」
「はぁ?」
「……」
「お前、もしかして覚えていないのか?」
今度は杉下のほうが僕の顔を驚いて見つめた。
「そんな訳ないじゃないか」
そう言って、追いかけてくる杉下を僕は置き去りにした。「待てよ」と言って肩に手を掛けてくる杉下を振り払い、大通りに出て、タクシーをつかまえ飛び乗った。
第三十四章に続く




