第三章
ある日の午後、僕は奈々子を伴って、新しくできたパンケーキカフェに来ていた。とにかく甘いものに目がない奈々子は、カフェとかケーキ屋とか開店すると、一度は店を訪れないと気が済まないらしく、今日もお決まりのように彼女に付き合わされていた。奈々子はケーキ屋でアルバイトをしているから、店でしょっちゅう試食をしているだろうに、外に出てまで甘いものを食べるのが好きらしく、僕は半ば呆れて、いつも美味しそうにケーキを頬張る奈々子を眺めた。でも考えてみたら、よその店の味を研究しているようなものだから、勉強熱心といえば勉強熱心なんだろうけど……。奈々子はケーキ屋でアルバイトをするようになってからというもの、みるみるお菓子作りが上手になり、クッキーだけでなく、ケーキもプリンもジェラートでさえプロ顔負けの腕前になっていた。プロ顔負けという言い方はちょっと失礼かもしれない。だって、お客さんから実際お金を頂いているんだから正真正銘のプロで、やっぱりプロ顔負けという言い方は失礼極まりないと思う。この間は、新作ケーキの製作も全部一人で任されたと言っていた。だけど、奈々子には悪いけど、僕は彼女が作るシンプルなバタークッキーが一番好きなのだ。それだけはやっぱり譲れない。
奈々子が僕に行こうと誘ってくれたカフェは代官山にあって、パンケーキのほかにパスタや日替わりランチも食べられたから、お昼時になると店はたくさんの人でごったがえしていた。奈々子は用意周到でちゃんと予約を取っていたから、店についた途端、難なく座れたのだけれど……。僕たちは屋外にあるテラスに用意されたテーブルに案内された。店の外に植えられているハナミズキがテーブルに陰を落としてくれていたし、数日前まで続いていた秋雨もパタッとおさまり、空気が乾燥していて、随分と気持ちが良かった。空は真っ青だった。こんな爽やかな日は、きっと誰もが明るい気分になるだろうと思う。けれども、僕は晴れの日が嫌いだった。何故そう思うのか、自分でも訳が分からなかった。青い空を見ていると、不安が心の中でどんどん膨らんでくるのである。記憶を失う前もそうだったんだろうか? 何故そう思うのか、理由を知りたい気もするけれど、知らないほうがいいような気もしていた。
テーブルの上には、小さな透明のガラスの薬瓶に薄紫と白と水色のビオラ三本とカスミソウが生けられていた。周りを見回すと、どのテーブルにも小さな花が咲いていた。奈々子はビオラを優しげな瞳で見つめ、「こんな小さな花が、ちょこっとテーブルに置いてあるだけで心が和むね」と微笑んだ。そして「そうだ、真似しようっと」と小さく呟いた。
「なに? 家のテーブルにも置こうと思ってるの?」
「あ、家でもいいよね」
「家でもってどういうこと? もしかして、お店でも開くの?」
「ふふ」
奈々子は僕の顔を見て笑った。
「あれ? 何か変なことを言った?」
「ううん。亮ちゃんは普段はぼーっとしてるのに、勘がいいのかすぐになんでも当てるよね」
「え、そうかな……」
「そうよ」
「それで? お店を開くの?」
「うん。亮ちゃんのアクセサリーを置いたカフェを開くのよ」
「え? マジ?」
「夢を見るのは自由でしょ?」
「なんだ、夢か……」
「夢は実現するためにあるのよ」
「そっか」
「うん」
そう言って、二人で笑った。
運ばれてきたパンケーキは美味しかった。家で作るものとあんまり変わらないような気もするけど、こんな風に屋外の雰囲気のいいテーブルで、風を感じながら食べるパンケーキは格別だった。二軒隣りの松岡さんの赤ちゃんはやっと髪の毛が生えてきて可愛くなったとか、向かいのおじいちゃんは余計な買い物ばっかりしておばあちゃんにいつも怒られているとか、ご近所さんの他愛もない話をしながら、二人で笑い転げていた。そんな何の役にも立たない話をして、でも空席待ちをしてる人が可哀想だからそろそろ帰ろうかと思って、ふと周りを見渡すと、ある男の視線にぶつかった。そう言えば、ここに座った時から、あの男はこちらを窺っていたような気がする。誰だろう?と思って注視したけれども、男はこちらの視線を感じると目を逸らした。それでも、やはりその男はこちらが気になるのか、顔を上げるたびに何度も彼の視線とぶつかった。もしかしたら知り合いなのかもしれないと思って、彼が一体誰なのか思い出そうとして色々考えたけれど、やっぱり分からない。僕は、「またか」と思って絶望的になった。きっと、向こうは僕のことを知っているのに、僕は記憶を失ったせいで覚えていないのだ。入院していた病院から、やっと退院してきて、「believe」でまた働くようになったときも、おやっさんが仲良くしている近所の人たちから、「可哀想に……」と口をそろえたように言われて、その人たちの一人でもいいから、覚えていないかと目を凝らしたが、知っている顔が一つもなかった。なんだか本当に辛かった。年を経るにつれ、少なくなってきたとはいえ、僕は、そんなことをかれこれ十年以上繰り返している。
僕のそわそわした様子に気付いたのか、奈々子はその原因がなんだろうと、辺りをぐるりと見回した。そして、驚いたことに、彼女はその原因をピタリと当ててしまった。「あ、もしかして杉下君かも……」と一言言った。そう言った奈々子のその顔は少し曇っていた。僕は「杉下」と言った奈々子の顔を怖い顔で睨み付けた。すると彼女は「な、なに?」と言った。
「アイツ、ここに来た時から、僕たちのことをずっと窺ってたと思う」
「ふーん。そんなに気になるんだったら、すぐに声を掛けてくればいいのにね」
「奈々はアイツのことを知ってるの?」
「亮ちゃんも知ってるよ」
「え?」
「あ、ごめん。昔のことは覚えてないんだったね。多分ね、中学の時の同級生の杉下君。でもあの人、あんまり好きじゃない」
「なんで?」
「だって嫌な奴だったもん」
「ふーん」
「サラリーマンでもやってるのかな。おとなしい恰好してるから」
奈々子とそんな話をしていると、その杉下という男が、なんとこちらのテーブルに向かって近づいてきた。僕たちは顔を見合わせて、黙り込んだ。杉下はテーブルに着くなり、「もしかして加山と村上?」とぶっきらぼうに言った。整えた短髪とポロシャツとスラックスという地味な風貌の男が発するものとは思えないような威圧的な言い方だった。
なんたる無礼なヤツだ! いきなりやってきて、しかも呼び捨て! ふと奈々子の顔を見ると、怒りで顔が紅潮していた。
「そうだけど、何か用?」
奈々子が言った。今度は向こうがびっくりしていた。
「久しぶりに再会したのに、随分冷たい言い方だな」
「別に、友達じゃないから」
「そうかもしれないけど、しょっちゅう顔を合わせてただろ?」
杉下にそう言われてドキッとしたが、悲しいことに何も思い出せないので、僕はただ沈黙していた。
だが、僕も杉下の顔を睨み付けていた。それに気付いた杉下は、怪訝な顔をしていた。
「亮ちゃんもあなたになんか会いたくなかったみたいだね」
「ほんとかよ。もういい加減、時効だろ」
「……」
「しかし、意外な組み合わせだよな。まさかお前たちが一緒にいるなんてな」
「余計なお世話よ」
「そうだな。余計なお世話だな。ところで、加山、お前この辺に住んでるのか?」
「……」
「なぁ、教えろよ」
その質問に答えるのを躊躇していたら、突然杉下の携帯が鳴った。杉下は誰からの電話なのか確かめると「やべっ」と言って、テーブルから少し離れたところで、話し始めた。そして、「すみません、すぐ帰ります」と言って、慌てて帰って行った。
なんだか本当に気分が落ち込んだ。空はこんなに綺麗に晴れ渡っているというのに……。きっと晴れの日に限って、今までも良くないことが起こっていたに違いない。
「あー、びっくりした。まさかこんなところで中学の時の同級生にばったり会うなんて、考えてもみなかった。しかも一番会いたくないヤツ」
家に帰る道すがら、奈々子はそう言った。
「あいつ、そんなに嫌なヤツだったんだ……」
「うん。昔の亮ちゃんもいつもアイツにからまれてたんだよ」
「ほんとに?」
「うん」
「だから、あんなにしつこかったのかな。普通は久しぶりに会ったら、挨拶程度で済ますじゃん」
「そうだね。今も嫌なヤツなんだよ、きっと……」
「そうなのかな。過去のことを何も覚えていないって悲しいね。なんだか不安だよ」
「大丈夫。亮ちゃんは昔から優しい子だったよ」
そう言って奈々子は、僕の顔を見て微笑んだ。
第四章に続く