第二十五章
昨日の夜、奈々子がまたチーズケーキを持って帰宅したが、とてもじゃないが、あの亜美ちゃんの火傷騒動が思い出されて工房でおやっさんと食べる気がしなかったので、篠原さんのところへ持って行こうと思い立った。由美のところへ仕事の打ち合わせに行った後、自宅にケーキを取りに帰り、篠原さんのアトリエに立ち寄った。篠原さんのアトリエに行くと、この間見たインドネシアの風景画が、もう少しで完成しそうになっていた。僕はそれを見ていて、なんだかすごく癒された。篠原さんのアトリエにいると、なんでこんなにも穏やかな気分になるのだろう?
僕がケーキを差し出すと、篠原さんは「ありがとう」と喜び、「コーヒーを淹れてくるね」と台所に消えてしまった。ふと気になって、窓のほうに目をやった。僕は思わず、吹いてしまった。中を覗いている賢治君と目が合ってしまったから。彼はきっと、篠原さんの家の玄関が開く音を聞きつけて、急いでやって来たんだろう。僕は篠原さんに、「賢治君にアトリエに入ってもらってもいいですよね?」と賢治君に聞こえるようにわざと大声で訊くと、「え? なんだって?」と訊き返されたので、「賢治君に絵を見てもらってもいいですよね!」と言ったら、「もちろんだよ!」と篠原さんが言った。そのやり取りを目を丸くして聞いていた賢治君に、僕は親指を立ててニッコリした。そして玄関から庭にまわると、彼を家の中へ招き入れた。
僕と篠原先生は、アトリエの隅に置いてあるカフェテーブルに座った。賢治君にもテーブルに着くように勧めたが、僕たちの近くは居づらいのか、いや多分、所狭しと置かれてある絵や絵の道具が気になってしようがないのか、彼はそれらの一つ一つを物珍しそうに手に取って見ていた。僕たちは、そんな彼を暫し放っておいてあげることにした。
インドネシアの浜辺の絵だが、よく見てみたら、浜辺で遊んでいる子供たちに交じって、一組の男女のカップルがいるのに気が付いた。
「もしかして、この二人は、先生と彼女なんですか?」
「よく分かったね。そうだよ」
篠原さんは嬉しそうに言った。
「この方の名前を教えていただいてもいいですか?」
「幸代、というんだ。幸は薄かったけど……」
「そうなのかなぁ。でも、例え短い人生でも、幸代さんは先生と巡り会えて幸せだったんじゃないかな」
「ありがとう。亮君は優しいね」
「いえ……」
二人で奈々子が作ったケーキを食べていると、幸代さんが生きていたころにも、こんな風にこのアトリエで彼女と二人でよくお茶していたと篠原さんが懐かしそうに言った。僕の座っている椅子を眺めながら、「その椅子に、いつも幸代は座っていたんだよ」と言った。僕は「そうなんですね」と言い、自分の座っている椅子をよく見ようと体を捩った。
「先生はずっとここに住まわれているんですか?」
「そうだよ。親が残してくれた家だからね」
「だから、おやっさんとは子供の頃からずっと知り合いなんですね」
「いや、彼とは大人になってから知り合ったんだよ」
「え? そうなんですか……」
「そうなんだよ。でも全く性格が違うのに、宮前さんとはなんだか気が合ってね」
そう言って、篠原さんは笑った。
僕は、壁に掛けられている一際大きな幸代さんの絵を眺めた。彼女の指には指輪がはめられていた。その指輪は凝ったデザインの特徴のあるもので、一目見たら忘れられないような印象的なものだった。幸代さんは幸せそうに笑っていた。けれども、この絵が、決して幸せな気持ちで描かれていないということを僕は知っていた。幸代さんが亡くなってから、この絵は描かれたのだから。
「この指輪は、おやっさんが作ったのかな……」
絵を見ながら呟いた。
「そうだと思ってたんだよ。宮前さんのところにあったものだから」
「?」
「本当はね、僕がデザインしたものを宮前さんに作ってもらおうと工房を訪れたんだ。でも、この指輪を見つけて、一目惚れしたものだから、無理を言って譲ってもらったんだよ」
「そうなんですか……」
「でもね、譲ってもらうのに随分苦労したよ。だって、ショーケースに展示してあるのに、宮前さんは売り物じゃないって言い張るんだから」
「おやっさんなら、言いそうですね」
「そうなんだよ。なんでも自分が作ったものじゃなくて、亡くなった親友が作ったものだから、譲るわけにいかないって言ってたよ」
「へぇー」
「でも、幸代が余命幾ばくもないと知って、それで譲ってくれたんだよ。大事にしろと何回も念を押されたけどね」
そう言って篠原さんは笑った。
「良かったら、実物を見るかい?」
「いいんですか?」
「いいに決まってるよ」
そう言って、篠原さんは奥の部屋から指輪を持って来て見せてくれた。
スカラベのような形をした緑色のエメラルドの指輪だった。何故だろう? なんだかとても懐かしいような気がした。賢治君も興味があるのか、エメラルドの指輪を覗きに来て、目を輝かせていた。僕は彼が楽しそうな顔をしているのを見て、なんだか嬉しくなった。
「エメラルドなんですね」
「うん。婚約指輪は普通はダイヤモンドなんだろうけど、幸代は五月三十五日生まれだからね。五月の誕生石はエメラルドだから、ちょうどいいなと思ったんだよ」
篠原さんはくすっと笑いながら言った。
「なんだか、ほんとに古代エジプトの財宝みたいですね」
「そうだろう?」
「奈々子も実は五月生まれなんですよ。だから僕も、彼女にエメラルドの婚約指輪を贈りました」
「奈々子さんは最高に幸せな女性だね。だって、婚約者自身に作ってもらった指輪を贈られる女性なんて、そうそういないだろう?」
「そうなんですかね」
「そうだよ。でも本当に幸せなのは奈々子さんじゃなくて、亮君かもしれないね。僕にはこんな指輪を贈りたくても受け取ってくれる人がいないから」
「……」
「奈々子さんを大事にしなさい」
「この間、おやっさんにも同じことを言われました」
「彼も僕と一緒で淋しい人間だからね。でも、彼には娘さんや孫がいるだけ幸せだよ」
「そうですよね。喧嘩する相手がいるだけ幸せですよね」
「でもね、この間、宮前さんが言ってたよ。失ってみて初めて分かったけど、やっぱり子供じゃなくて、奥さんじゃないとだめなんだと言ってたよ」
「そんなことを言ってたんですか!? おやっさんが!?」
「うん。僕も同感だよ。大切な存在には違いなくても、子供じゃきっと奥さんの代わりにはならないんだよ」
僕は無言で頷いた。おやっさんも篠原さんも、普段はそんな素振りを見せたことがないのに、愛する人を失った哀しみを抱えながら生きているんだろうなと思った。きっと、絹子さんも同じ思いに違いない。
篠原さんは、さっきからアトリエをウロウロしながら、興味深く色んな物を見ている賢治君に近寄ると、これは「こうやって使うんだよ」とヘラや画溶液について説明し始めた。
第二十六章に続く




