第二十四章
昨日は徹夜して作業をしていたおかげで、随分仕事がはかどった。それで、僕は今日の休みは布団の中で昼までごろごろしながら過ごせていたのだが、ふと気になって枕元の携帯を見たら、案の定、信之からメールが来ていた。僕は慌てて飛び起きた。そう言えば、この間、次の休みの日を教えてくれと信之から電話が掛かっていたことを思い出した。メールを読むと、やっぱり「今日は休みですか?」という内容だった。よっぽど僕に会いたいんだな、由美さんとの結婚生活は鬱憤が溜まるんだな、と勝手に想像していたらおかしくなった。「昨日、徹夜してて今起きたところなんだけど、一緒に走りますか?」と打ったら「よろしければご一緒させてください」とすぐに返事が返ってきた。僕は台所にあったおにぎりとバナナを口に押し込みながら着替えると、手短に歯磨きして顔を洗うと慌てて外に飛び出した。
九月まで頻繁に雨が降り不安定だった天気も、十月になった途端、晴れの日が続き、一日も雨が降っていなかった。空気が乾燥し、肌に当たる風が心地よかった。しかし、僕は相変わらず、晴れの日が嫌いだった。
公園に着くと信之がいて、すでに公園の外を一周したところだった。信之はベンチに置いてあったミネラルウオーターをがぶ飲みし、タオルで汗を拭っていた。
「遅くなってごめんね」
「あ、いえ。こちらこそ、お休みのところをお邪魔してしまってすみません」
「いや、起きたら走ろうと思ってたし、全然邪魔なんかしてないよ」
「それはそうと、この間、工房で大騒動になったらしいですね。申し訳ないことをしてしまったと由美さんが言ってました」
「何が起こったのか全部聞いたの?」
「ええ、大体のことは聞きました」
「大丈夫だよ。ああ見えておやっさんと友加里さんは本当は仲がいいんだから。怪我も大したことがなかったらしいよ。あの後、病院から電話があって、友加里さんがそう言ってたから」
「そうなんですか。それは良かった。由美さんも亜美ちゃんの怪我のことをすごく気にしてたから」
「うん、大丈夫、大丈夫。子供なんて怪我するのは当たり前の日常茶飯事だから」
「そうなんですかね。そう言えば、僕もガキの頃、いつも膝小僧を擦りむいてたな。いっつも怪我してたから、そのせいで風呂嫌いになりました。高校生になっても擦りむいてましたよ。陸上部だったから」
「そっか。僕もそうだったんだろうな」
「そうでしょうね」
「でも、僕は子供の頃のことを全然覚えていないから……」
「あ、そうでしたね……。でも、加山さんは、走るのが早かったんじゃないですか? その足は、長距離じゃなくて短距離向きだと思うんですけど?」
「そうなのかな。僕も最初、ランニングを始めたばっかりのときは、走るのが億劫でね。走りたくて走ってるのに、なんでなんだろうと思ってたよ。今は、ランニングするのも楽しいけどね」
「そうですよね。目黒川沿いを走ってると、季節ごとに桜の木が変化していって、それを見てるのも楽しいですよね」
「うん」
「でも、春なんて、昼間は花見客が多くて走れたもんじゃないですけど」
「そうだね、そういうときは、早朝に走るのが一番なんだけど、なかなかできないね」
「僕も宵っ張りだから無理ですね。でも、目黒川の桜は本当に綺麗ですよね」
「そうだね。花の命は短いから余計にそう思うんだろうね」
僕がそう言うと、信之は静かに頷いた。
「ところで、杉下のことなんですが、あれから何もありませんでしたか?」
「うん、何もないよ」
「そうですか。それはよかった」
そう言って信之がほっとしたような様子を見せたので、逆に不安になって訊いてみた。
「もしかして、彼に何かあったの?」
「ええ、ちょっと……」
「どんな?」
「また保育園で息子を連れ去ろうとして、騒動になったみたいです。でもその後、会社も摘発されて、警察にしょっ引かれたらしいです。暫くブタ箱に入ることになるんじゃないかな。主犯じゃないから大したことはないと思いますが……」
「そんなことになってたんだ……」
僕はそう言って、ため息を吐いた。
「信之君、由美さんとうまくいってる?」
「ええ、お陰様で。加山さんはどうですか?」
信之が笑顔で訊いてきた。
「うん、仲はいいよ。喧嘩することはほとんどないね」
「羨ましいなぁ。うちは毎晩のように由美さんが怒ってますよ」
「由美さんだけが、だろ?」
「ええ、そうです」
「あの歳で、マネージャーをやってるんだから、負担は大きいだろうね」
「そうみたいですね。だから僕が我慢してやってるんですよ」
「はははは! 信之君は偉いねぇ」
「そうでしょう」
「やっぱり由美さんは信之君だから遠慮がないんだよ。喧嘩が出来るなんて、逆に羨ましいよ」
「えー? そうですか?」
「そうだよ」
「そっか、そうなのか……。加山さんは加山さんで色々あったりするんですか?」
「そうだね、なさそうに見えてあるかもね。それなんだけどね、あ、あの……」
「はい?」
奈々子のことを彼に相談してみようかと思ったが、途中で言葉が詰まってしまった。やはり、無理だ。
「じゃ、もうひとっ走りするとしますか?」
「はい」
第二十五章に続く




