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二人でいたから  作者: 早瀬 薫
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第十七章

第十八章に続く

「ねぇ、亮ちゃん、今日は普通に亮ちゃんが好きなチョコクッキーを焼いてみたから食べる?」

 いつものように、二人で夕飯を食べた後、奈々子が言った。

「あー、良かった……」

「なにほっとしてるのよ?」

「だって、この先ずっと変なものばっかり食べさせられるのかと思ってたから」

「うわっ、何その言いかた! これでも旦那様の健康を考えてあげてるんだからね」

「そうだね、ごめんごめん」

「じゃ、コーヒーを立てるね」

「あ、じゃあ、僕が皿洗いをするよ」

「いいの?」

「うん」

 僕がそう言うと、奈々子は満面の笑みになった。

 僕は皿を洗いながら、こんな日がずっと続けばいいと思っていた。いつかこんな平和な日が終わるときが来るだろう。その日が来るのがずっとずっと先であればいいと思った。そう思いながら、この幸せな感覚を記憶に留めておこうと神経を研ぎ澄ませた。まるで、試験勉強の英単語を覚えるときのように……。

 僕はいつからこんな刹那的なことを考えるようになったのだろう? まだ、三十代も半ばの年齢なのに……。僕が持っているべき記憶を失くしてしまったからなのかもしれないが、奈々子と結婚して、平凡で平和な日々を十年経験して、今振り返ったときに、十年なんてあっという間だと感じたからかもしれない。多分、これからの十年も同じようにあっという間に過ぎるだろう。だから、僕は覚えていられるものなら、少しでもたくさんのことを覚えておきたいのである。

 洗い物を終えると、奈々子が「準備はいい?」と言って、居間の電気を消し、テーブルの上にある蝋燭に火を点けた。

「なんだかクリスマスみたい」

「そうだね」

「二人で暮らしてると楽しいね」

「そうかもね」

「だって親とだったら、こんなバカみたいなことをしてるとは思わないもの」

「そうかもしれない」

「誕生日でもクリスマスでもない普通の日に、電気を消して蝋燭を点けてるなんて……」

「台風の日とかはしなかった?」

「あ、やってたかも」

「停電して外は嵐で大変なことになってて、大人は不安がってるのに、子供だけ大騒ぎしてたような気がする」

「え? 亮ちゃん、子供の頃のことを覚えてるの?」

「うん、最近、少しずつだけど思い出すこともあるんだ」

「そうなんだね……」

「うん」

「良かったね」

 奈々子はそう言いながらも、少し不安そうな顔をした。

「亮ちゃん、このCD掛けていい? この間、由美がお店に来て、『お薦めだから聞いてみて』と無理矢理置いていったの。多分、亮ちゃんも気に入るからって言ってたわよ。何を根拠にそんなことを言ってるのか分かんなかったけど」

 奈々子は由美から借りたCDをプレイヤーにセットした。その曲はまさに結婚式場のBGMに相応しいような落ち着いた曲で、バイオリンだけで構成されている曲だった。けれども、どこかで聞いたことのあるような曲だった。それも昔、子供の頃、何度も何度も繰り返し聞いていたような気がするのである。多分、編曲が昔聞いたものと違っているんだろうと思う。僕は、そんなことを思いながら、蝋燭の炎をじっと見つめた。やはり、蝋燭の炎は過去の記憶への扉を開くスイッチになっていた。

 炎の向こうに、また、この間の女の人が現れた。病院で赤ちゃんを出産した人もいる。傍らには二歳くらいの男の子がよちよちと歩いていた。僕はその男の子が可愛くて仕方ないのか、転びはしないかと冷や冷やしながら、後を着いて回っていた。この男の子は多分、あの病院で寝ていた生まれたての赤ちゃんなのだろうと思う。部屋には、さっき奈々子が掛けたCDの曲が流れていた。けれども、アレンジが全然違っていて、女性の歌声も聞こえてくる。でも確かに、同じ曲だと思われた。なんだかとても幸せな感じがした。

「あー、思い出した!」

 奈々子が突然大声を出して叫んだ。その声で、僕は我に返った。

「この曲、確か映画の主題曲で、イギリスの有名な歌手の人が歌ってた! でも、もうだいぶ前の話だと思うけど……」

「何年前くらい?」

「うーん……分かんないよ。私が小学校に入るか入らないかくらいのときのものだと思うけど……」

「そんな昔?」

「うん、だから由美もすごい有名な曲だって気付かなかったんじゃないかな」

「そっか」

「うん」

 この曲が三十年くらい前に流行ったものだとしたら、僕の仮説は成立する。さっき見えていたものが単なる妄想ではなく記憶であるということが……。この記憶は過去にちゃんと存在していたのである。


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