第十五章
篠原さんから「ちょっとうちに寄ってほしい」という電話が掛かり、何だろうと思って訪ねてみたら、いつものように注文の話だった。
「この間、個展を開いたんだけど、あのときに展示していた作品のモデルが付けていたネックレスが気に入ったらしく、あれと似たようなものが欲しいと客が言ってきたんだよ」
そう言いながら、篠原さんは、その作品の写真を見せてくれた。
「へぇー、本当ですか? そんなことがあるんですね。先生、宣伝してくださって、ありがとうございます」
「いや、別に君の作品を売るために絵を描いてるわけじゃないんだけどね」
篠原さんは、そう言って笑った。
「でも、あの人は流石だと思うよ。いつも僕が一番気に入っている作品を購入してくれる人だし……」
「そうなんですか……。そういうお客さんがいらっしゃると仕事のし甲斐があるというものですね」
「そうだね。だからね、君のジュエリー作家としての才能を彼は認めてくれたんだと思うよ。あの人に認められたんだから、やっぱり、君は作家として才能があるってことだと思う」
「ありがとうございます!」
「でも僕は、ただ単に亮君の作品が好きなだけなんだけどね」
「僕もその言葉が本当は一番嬉しいかもしれないです」
ふと、アトリエの片隅に置いてあるイーゼルに立て掛けている描きかけの風景画が目に留まり、ぼんやりと眺めた。それは青い海の絵だった。どうやら南国の絵らしくヤシの木や浜辺で遊ぶ浅黒い子供たちも描かれていた。僕の目線の先が気になったのか、篠原さんも振り返ってその絵を眺め、「この絵が気になるかい?」と言った。
「珍しいですね。先生が風景画を描くなんて」
「ちょっとね、人物画に少し飽きたから」
「この絵も、昔先生が訪れた国なんですか?」
「うん」
「東南アジアですか?」
「うん。インドネシアなんだよ」
「ふーん、いいところなんでしょうね」
「うん、一度行ってみるといいよ。景色は綺麗だし、東南アジアの人は親切だから」
「インドネシアに行ったときのことを思い出したんですか?」
「この間、例の彼女のことを君が訊いてきただろう? だから懐かしくなって思い出したのさ」
「もしかして、彼女と訪れたところなんですか?」
「そうなんだよ。いや、彼女と訪れたところじゃなくて、出逢ったところなんだ」
「へぇー」
「亮君はケストナーを知ってるかい?」
「え? 作家ですか?」
「作家とも言えると思うけど、ケストナーはドイツの詩人であり児童文学者なんだ。僕はケストナーが好きでね。それでインドネシアを訪れようと思ったんだよ」
「インドネシアとケストナーは何か関係があるんですか?」
「いや、インドネシアじゃなくても赤道直下の南国だったらどこでもよかったんだけどね。たまたま僕が訪れたのがインドネシアだった」
ドイツ人のケストナーと赤道直下の南国とどういう関係があるのか僕は混乱し始めた。すると篠原さんは「話が長くなるけれど」と言いながら、ケストナーと赤道の話をしてくれた。ケストナーの作品の中に「五月三十五日」という作品があって、その作品の中に南国が登場するのだが、その南国に行くのに鉄でできた二メートル幅の道をずっと歩いて行ったと書かれてある。そして、その鉄の道が赤道だと説明されていたと言うのである。子供の頃、その本を読んで、赤道とはそういうものなのだと信じていたけれど、大人になるにつれ信じがたいものになり、でも実際に確かめなくては気が済まなかったので、大人になって念願叶って赤道直下のインドネシアにわざわざ確かめに行ったのだそうである。インドネシアのスマトラ島の赤道付近で、ありもしない鉄の道を探してウロウロしていたら、そこで彼女に出逢ったのだそうだ。
「それがね、彼女のほうから僕に声を掛けてきたんだよ。『もしかして、赤道を探しているんですか?』って」
「ほんとですか!?」
「うん。しかも二人で顔を見合わせて『五月三十五日!』って同時に叫んでたよ」
「そうなんだ……。そんなことがあるんですね」
「すごく不思議だったよ。なんだか彼女とは初めて会った気がしなくてね。それから三日間、ずっとケストナーのことを二人で話してたよ。彼女の誕生日は本当は六月四日なんだけど、五月三十五日なんだって思うようにしていると言ってたよ。たまたま六月四日生まれだから、五月三十五日に興味を持つようになったと言っていた。彼女は少し変わった女の子だった。だけど、僕と本当に気が合った。それから二人で日本に帰国して、すぐに一緒に暮らし始めた」
「結婚されてたんですか?」
「いいや。結婚しようとしてたんだが、彼女はたった半年患っただけで、あっけなく亡くなってしまった」
「そうなんですか……」
「だから、僕は今も彼女に宝石を贈り続けてるのさ」
「……」
「彼女の夢は財宝を掘り当てることだったから」
「え!?」
「ね? 変わってるだろ?」
「たしかに!」
「彼女と出逢った当時、僕が夢中になって読んでいた本が考古学の本でね。エジプトのファラオの墓について書かれている本だったんだよ。それで、インドネシアの次は、エジプトに行こうとしていたんだ。その話をしたら、彼女も乗り気だったよ」
「そうだったんですね……。先生と彼女の出逢いはきっと運命の出逢いだったんでしょうね」
「そうなのかもしれないね」
そう言って篠原さんは淋しそうに笑った。
篠原さんの玄関を出て、もしかして、隣の家の賢治君がいるんじゃないかと思って、庭のほうに目をやったら、やっぱりいた。またもやアトリエを覗き見している。僕は「やぁ」と彼に声を掛けた。すると彼は今度も慌てて逃げ出そうとした。
「待って! 大丈夫だから!」
そう言うと、賢治君は足を留めた。
「もしかして、さっきの話を聞いてた?」
すると彼は、僕から目を逸らし、おどおどしながらも頷いた。
「篠原先生の話は楽しいよね」
すると、また彼は頷いた。
「良かったら、今度三人で話をしよう」
僕がそう言うと、彼は何も言わずにただ頷いて逃げてしまった。
帰ろうと思って、玄関のほうを振り返るとそこに篠原さんが立っていて、彼はただ静かに笑っていた。
第十六章に続く




