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二人でいたから  作者: 早瀬 薫
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第十三章

 それから、また三日経って、僕が仕事で奈々子だけが休みの日がやって来た。僕はまた奈々子が僕に内緒で何かするのではないかと思って、朝からそわそわしていた。メモ帳に書かれた奈々子が訪ねた「柏木三郎」という男性の名前を僕は睨み付けていた。奈々子に贈る指輪の完成が遅れていたので、本当は工房に行きたかったのだが、奈々子をどうしても見張らなければならないという思いで頭がいっぱいで、奈々子に隠れて工房に電話をし、おやっさんに仕事を休む旨を伝えた。

 僕は一体何をしているのだろう? 僕たちは結婚してからというものの、一度も大きな喧嘩をしたことがなく、もちろん隠し事だってないと思っていた。もしかして、奈々子のしていることって、隠し事ではないのかもしれない。彼女に面と向かって訊いてみてもいいんじゃないかと思う。そしたら案外すんなり答えが返って来るのではないか? それなのに、僕にはそれをする勇気がなかった。なんで勇気がないのだろう? あの日の朝、奈々子は僕に「今日は仕事だから」と嘘を吐いた。その嘘が僕にストップをかけているのだ。どうして嘘なんか吐く必要があるのだ? もし、僕が彼女の嘘を問い詰めたとしたら、幸せだった奈々子とのこれまでの生活に終止符が打たれてしまうのではないかとどこかで恐れているからなんだと思う。けれども、僕の心の中のヒビは、前よりも大きくなっているような気がしていた。そのヒビを是が非でも食い止めなければならないという思いは、日増しに大きくなるのだった。

 僕は工房に出掛けるふりをして、路地裏で奈々子が家から出てくるのを待ち伏せた。奈々子は、いつもの休みなら、パジャマのままで出勤する僕を見送ってくれるのだが、今日の奈々子は朝からきちんとメイクをして着替えていたので、僕が「出掛けるの?」と訊くと、「うん、香織ちゃんと会う約束をしてるの」と言った。香織ちゃんとは、奈々子が働いている祐天寺のケーキ屋の同僚で、ケーキ屋から五分と離れていないところにアパートを借りて住んでいるらしい。奈々子の話によれば、寝坊の香織ちゃん宅を訪れて、彼女を叩き起こしてから、今日は鎌倉で二人で食べ歩きをするのだそうである。

 僕が家を出て十五分ほどして、奈々子は家から出てきた。僕は、彼女の後をそっと付けた。奈々子がすんなり祐天寺へ行くことを願っていたが、香織ちゃんのアパートのある祐天寺ではなく、反対方向の中目黒駅に向かって歩いて行った。そして奈々子は、やっぱり調布に向かって電車を乗り継いだ。けれども、奈々子が今回降りた駅は東府中駅でも調布駅でもなく国領駅だった。そして今回も、彼女は見知らぬ家のポストに手紙を入れただけで、すぐにそこを後にした。だけど前回と違っていたのは、彼女はそこから布田駅方面に向かって歩き、またそこで見知らぬ家のポストに手紙を入れていたことだった。

 それからまた三日経って、奈々子は同じことを繰り返した。また彼女は京王線に乗り、今回は仙川駅で降り、また違う家のポストに手紙を入れていた。おそらく来週も同じことをするんだろうと思う。一体彼女は何をしているのだろう?

 僕は毎日、奈々子のための指輪を磨きながら、頭を抱えていた。けれども、奈々子は、別段変わった様子もなく、いつもと同じく優しく朗らかで、十年前と何も変わらなかった。変わらずに僕の傍に居続けてくれた。けれども、僕の苛立ちは益々大きくなるばかりだった。やはり、調布には何かがあるのだと思う。もしかしたら、僕は、奈々子と一緒に過ごしただろう調布での僕の過去に、対峙しなければならないのかもしれないと思った。

 今日も奈々子は出掛けていた。中目黒駅まで彼女を尾行したが、それを見届けると、僕は自宅へ引き返した。奈々子を最後まで尾行したところで、結局僕は彼女に問いだすことなどできないからである。僕は家事をしながら、丸一日部屋の中で過ごした。こういう時は、体を動かせばいいと思うのだが、僕の趣味はランニングで生憎今日は雨だった。仕方がないので、いつも見て見ぬふりをしている台所を掃除することにした。ここぞとばかりに流しと換気扇を磨いた。システムキッチンの扉も壁も床も雑巾で丁寧に拭いた。綺麗になった台所を見て、一人悦に入っていたが短時間しか持たず、すぐに焦燥感が戻った。掛け時計に目をやると、もう午後五時になっていて、昼飯も食べずにずっと掃除をしていたことに気が付いた。案の定、腹がぐうっと音を立てた。僕は、イライラしながら煙草に火を点けたが、二口も吸わないうちに煙草の火を消し、今度はコーヒーを立てはじめた。そして、昨日の夜、奈々子が作っていたクッキーをブリキ缶から取り出した。クッキーは心なしか緑色をしていた。僕はそれを見て嫌な予感がすると同時に、くすっと笑ってしまった。そのクッキーを一口食べてみたが、別に変わった味がするわけでなく、メープルの風味が少しした。ほうれん草の臭みを消すために、メープルシロップを入れたんだろうなと思った。空きっ腹にクッキーはしみた。この世にこんなにうまいものはないと思った。そして、僕は居間のテーブルの上に置かれたままになっている蝋燭に火を入れた。蝋燭の炎を見ていると、僕はまた、幻影が見られるだろうことを知っていたからである。

 炎の向こうに、二人の大人の男の人が現れた。二人は小料理屋で酒を飲みながら談笑していた。その男性は僕に向かって「もう少し待って」と言っている。どうやら、僕はこの男の人を呼びに来たらしい。仕方がないので、僕は空いたテーブルに座って、テレビを見ていた。僕が憧れていたサッカー選手の試合が流れていた。僕は夢中になってテレビを見ていたら、気を利かせたおかみさんが「亮ちゃん、おあがんなさい」と緑色の寒天ゼリーを出してくれた。そのゼリーの緑色が宝石みたいに綺麗に輝いていたので、食べるのがもったいなく思ったのか、じっと眺めていた。そしたら、おかみさんは「気に入った? まだたくさんあるから、お母さんとお兄ちゃんに持って帰ってあげればいいわ」とプラスティックの容器に入った寒天ゼリーを持たせてくれた。するとしばらく経って、男の人は「ごめん、ごめん」と言いながら、僕の手をしっかりと握りしめて店を出た。温かく大きな手だった、と思った瞬間、扉の開く音がした。

 僕は最初、それが幻影の中で起こったのかと勘違いしたが、どうやら奈々子が家に帰って来たようだった。奈々子はスーパーで食料品を大量に買い込んできたようで、「あー、重たかった」と言った。そして、僕がクッキーを食べているのを見つけて、「もうすぐご飯だから食べちゃダメじゃない」と笑いながら僕を叱った。そしてこの間と同じように「どうだった?」と聞いてきた。僕は「メープル風味で美味しい」と普通に答えたら、「よし! 今回も大成功!」と言いながら、台所へ向かった。そして、台所がピカピカに磨き上げられているのを見つけて慌てて居間に取って返し、満面の笑みを浮かべて「亮ちゃん大好き!」と僕に抱き付いてきた。

 僕は奈々子の笑顔を見ながら、この笑顔を絶対に失いたくないと思った。


第十四章に続く

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