72.八坂晏司
白山姫奈子という名を初めて知ったのは、初等部も終わるころだった。
どうやら、有名お嬢様学校の桜庭女学園から、芙蓉学院に外部受験して入学してくるらしい。弟は芙蓉学院の初等部で芙蓉会メンバーに入っている白山彰仁だ。
ご丁寧にそれを教えてくれた同じクラスの女の子は、ちょっと厭らしい感じの笑顔で言ったのだ。
「わざわざ桜庭から入ってくるなんて、氷川くんか八坂くんが目当てと思われて可哀そうですね」
可哀そうだと言いながら、そんな顔はしていない。
僕は、それを笑顔で聞き流し、内心面倒だなと思った。
それから数日後、僕は氷川家主催のひな祭りの会場で、白山姫奈子と対面することになった。
和親に挨拶に来た白山姫奈子は、ビスクドールのようなお嬢様だった。赤みを帯びた茶色い髪は少しだけウエーブがかかっていて、猫のようにつり上がった大きな瞳は灰色で気が強そうだ。
会場で唯一のレモンイエローのワンピースは、それだけで目を引いた。その上、裾のレースがさり気なくレモンの輪切りになっているから、思わず目で追ってしまう。
特待生として芙蓉会メンバーに招かれる生駒綱守を、当然の様に脇に従えていた。
僕の周りにたむろしていた女の子たちも会話を止め、白山姫奈子を値踏みする。少しだけ空気が張り詰めた。
どれだけ和親に媚びを売るのか。きっと皆そう思っていたのだろう。少なくとも僕はそう思った。
それなのに彼女は、型通りの挨拶をそつなくこなして、サッと人陰に隠れてしまった。
つまらないな。
多分、僕の周りにいた子たちは拍子抜けしたのだろう。固まっていた空気は簡単に解けて、いつもの姦しいものに変わった。
少しのざわめきが起こって、そちらを見れば白山姫奈子と浅間さんの間でトラブルが起こっていた。白山姫奈子の鮮やかな黄色のドレスには、紫色のシミが大きく広がる。浅間さんがジュースをこぼしてしまったらしい。
しかし、まだパーティーは始まったばかりだった。
浅間詩歌は由緒正しき華道家元の令嬢で、元をたどればやんごとなき血筋に通じる。氷川財閥に関わる家の中でも、際立った家柄だ。本人も生まれながらの可憐さを持ち、長く続く家系ならではの行き届いた躾を受けている。
その浅間さんが粗相をした。そのことだけでも事件だ。それなのに、相手は新参者の成り上がりの娘だ。
何が起こるのか。
怒っても、泣いてもおかしくない。周りに緊張が走った。
しかし、彼女は怒らなかった。泣きもしなかった。ただ、戸惑った様子を見せて、帰るなんて言い出すから驚いた。
だってここは氷川財閥御曹司 氷川和親主宰のひな祭り。芙蓉会メンバーなど選ばれた人間だけが招待されるパーティーだ。本来なら、外部生で芙蓉会でもない白山姫奈子が招かれるような場ではないのだ。
子供同士の席とはいえ、それなりの思惑がある。芙蓉会メンバーでない者からすれば、千載一遇のチャンスをあっさりと捨ててしまおうとするなんて信じられない。
噂とは違って、彼女は和親狙いじゃなかったのだろうか?
結局彼女は浅間さんの申し出を受け、和服に着替えて登場した。浅間さんと桃と橘の対になった着物姿に、女の子たちが駆け寄っていく。
すごい吸引力だ。
僕も様子を見に行けば、白山姫奈子は僕を見てそっとその輪から離れた。
正直、意外だった。和親でなければ、僕狙い。それが良くあるパターンだったからだ。そう噂もされていたし、でなければ受験までして、桜庭から芙蓉へ移る理由もわからなかった。
女子であれば桜庭、それが一般的な考え方だからだ。
僕はがぜん興味を持った。
それから同じクラスになり、観察がてらちょっかいを出しても、彼女は一定の距離を保つ。僕にも和親にも媚びることがない。何かと注目を集めがちな彼女はトラブルに巻き込まれる度に、おもしろいことをしでかすから目が離せない。
冗談だったちょっかいも、だんだん、境界があいまいになってきて。
もうきっとそのころには、姫奈ちゃんが好きになっていたんだと思う。
だけど、そのせいで、彼女を追い込んだ。
僕を取り巻くあからさまな悪意が、暴力となって彼女を傷つけた。そこで初めて、僕は近づきすぎていたのだと気が付いた。昔からよくあった。ちょっとでも他の子より仲良くなった女の子は、虐められるのだ。
先生たちは小さな嫌がらせぐらいでは虐めだと思わない。特に一対一ならなおさらだ。家の絡みもあるからだろうが、子供同士の喧嘩だと、些細なトラブルだと目を瞑る。
本人が訴えれば違うのだろうが、被害者は訴えない。芙蓉学院で虐めにあっている、その事実を被害者は知られたくないのだ。芙蓉学院ではぶかれる。それは、その後の社交界での立ち回りをこなせないことを意味するからだ。安易にいじめを訴えるよりも、自身で解決する道を選ぶ。
だから、虐められた子は僕から逃げていく。原因から距離を取るしか方法はないからだ。
仲良くなりたい子とは、仲良くしてはいけなかったのだと、久々に突きつけられた。
彼女に迷惑をかけ、クラスメイトに迷惑をかけ、それでもモデルは捨てられなくて、好きだったはずの学校には居場所がなくて。
僕だって、芙蓉に居場所がないだなんて口が裂けても言えなかった。誰にも相談できないでいた。原因は僕自身にあったし、ならばやめろと言われるのが怖かった。
そんな時、彼女は学院に来いと言ってくれた。
彼女は僕から逃げないでいてくれたのだ。
そして、迎えた合唱コンクール。
決定的な悪意に囲まれた彼女を、僕は助けることすらできなくて。それどころか彼女は、僕のために矢面に立った。
『好きな人に、あんな顔、させたいの?』
胸にガツンと火花が散った。
僕がどう思うか、みんなそんなの関係なくて、笑って、笑って、笑ってと言う。僕もそれが当たり前で、みんなの前では笑わなくちゃって、そうやって来たけれど。
『つまらないのに笑えるわけないじゃない。笑って欲しいなら笑わせるしかないでしょ?』
姫奈ちゃんは違った。笑わなくていいって。曇った顔の訳を、僕以外にあるんだって、当たり前の様に言う。
ああ、好きだな。好きだと思う。姫奈ちゃんが好きだ。
みんなが喜ぶ八坂晏司の笑顔で、手を握って将来の幸せを約束すれば、姫奈ちゃんはすげなく断った。
君の後ろに控える保護者よりも、君を守ったナイトよりも、今のところ僕は相当情けないやつだけど。
それでも君を諦めない。
姫奈ちゃんを手に入れたい。







