68.合唱練習最終日
今日は合唱練習最終日である。
音楽室のグランドピアノを使って、クラス全員で最後の練習をする。音楽室の練習は時間予約制で、使える時間が限られているため、全員練習が終わった後、最終確認をしたいという氷川くんと二人で防音室を借りた。防音室にはグランドピアノが入っているのだ。
「白山さんにお願いがあるんだ」
最後の確認を一通り終え、いつものラ・カンパネラを弾いた後、氷川くんが真面目な顔で私を見つめた。
「なんですか?」
明日のコンクールで何か変更でもするのだろうか。急だなと思う。
首をかしげてみれば、氷川くんは顔を赤らめて、少し言いよどんだ。かなりレアな表情でビックリする。
「変な、お願いだ。だけど、白山さんしか適任者が見つからなかった。合唱練習を一緒にしてみて、やっぱり白山さんしかいないと思った」
なんだろう。合唱のことではないのだろうか。
「どこから、話したらいいのか……。氷川として情けない話だとも思う。だが、俺は、俺としてはそうできたら、と」
「はあ……」
なかなか話が進まないな、とぼんやり相槌を打つ。
氷川くんはそんな私を見て、小さく息を飲んだ。そして、大きく息を吐き出す。
「祖母が、余命いくばくもないらしい」
氷川くんのおばあ様は中学三年の冬に亡くなっている。前世では私もせっせとお見舞いに行ったものだ。
おじいちゃん子だった私にすると、氷川くんのおばあ様は、私にとって唯一生きて会えるおばあ様で大好きだった。
氷川くんが行けない日でも、その病室に入り浸ってお菓子を食べていたのを思い出す。亡くなったときはショックで大泣きに泣いたのだ。
「そうなんですね」
死期が近いと予想していても、もうお見舞いに行くことはできないと思っていた。
「それでだな、変なお願いなのだが……合唱コンクールが終わったら、一緒に見舞いに行ってはくれないか?」
確かに唐突ではある。何の縁もないのだ。ただ、大好きだったおばあ様に会えるならうれしい。
「構いませんよ?」
即答すれば、氷川くんは気まずそうな顔をした。なんだろう、自分で言っておいて変な人だ。
「なんというか、その、とても申し訳ないのだが、……恋人のふりをして欲しい」
「……はい?」
思わず聞き返した。意味がわからない。
「変だと思うのは承知の上だ。だが、祖母が、俺に婚約者がいないことを憂いていて……だから、その」
「おばあ様を安心させるために彼女のふりをしろと」
「そうだ! やってくれるか!」
「いやです」
きっぱりと断る。そんなのは無理だ。できない。
「変な誤解などされたら困ります」
「許嫁でもいるのか?」
「いませんが、氷川くんが困るでしょう」
「誤解されてもいい」
「良くないです。私が氷川財閥の婚約者候補だなんて噂が立ったらどうするんですか?」
「責任は取る」
「簡単に言わないでください。私と婚約するわけにはいかないでしょう? せめて責任を取っても問題ない方にお願いしてください」
「白山家となら婚約できないこともないだろう。それに他の当てがない」
「詩歌ちゃんには相談しましたか?」
「浅間さんの祖母と、うちの祖母は犬猿の仲だからな。仲が良いなどとは口が裂けても言えない」
「明香ちゃんは?」
「芙蓉会のメンバーはいろいろと不都合がある」
その一言がストンと胸にナイフを落とした。すっぱりと綺麗に研がれたナイフだ。切り口も鮮やかに奥まで落ちていく。止められない。
わかった。今やっと理解した。ずっと気が付かなかった。私は知らなかった。
前世で私は、私の実力で氷川くんを手に入れたのだと思っていた。世が世ならお姫様だったはずの女の子たちを押しのけて、私が選ばれたのだと。現代のお姫様は私なんだと自信を持ったのだ。
氷川くんに選ばれるだけの人間であると勘違いしていた。
早すぎる婚約は少しおかしいとは思っていた。でも、それほどまでに望まれていると私は浮かれたのだ。それ以上考えなかった。
でも違った。
氷川くんは、おばあ様の手前、早く婚約者が欲しかっただけだ。仮でもいいから、婚約者を名乗るものが欲しかった。ただ、氷川家として両家の関係をおかしなものにしたくない。
そんな中での私だったのだ。
きたりの方、成り上がりもの、芙蓉の花を持たない女子で、切り捨てても氷川家を脅かすことなんかできない者。好きだ好きだと纏わりつくから、一瞬の夢でも見せてやればいい、そう思ったに違いない。
婚約したい詩歌ちゃんは、おばあ様がその関係を許さない。だとしたら、使い捨ててしまえる女の子を婚約者に仕立て上げ、おばあ様が亡くなったら切り捨てればいいと。
そう、きっと。そう思ったのだ。
突き刺さったナイフは深部まで達し、私の何かをプチンと切った。胸の中で、ナイフがカラリと転がり落ちる音。
断ち切られてしまった。縋りついていた、私の唯一の自信。
「……芙蓉以外は人でないとおっしゃるの?」
「なにを」
「私は花を持たないからなにをしても許されると、そう思っているんですか? 婚約者と誤解されても、婚約者に仕立て上げても、最後に破棄してしまえばいいんですものね? 氷川財閥には何一つ傷などつきませんものね! おばあ様が安心するためだったら、きたりの私ぐらい踏みにじっても構わない、そう言うことでしょう!」
言葉が過ぎてるとわかる。でも、止められない。
好きだったのだ。好きだったのに。ずっと、ずっと、好きで。私だけが好きで。
「違う」
「違わないわ。氷川財閥に婚約破棄された女が、その後どうなるか考えたことはありますか?」
氷川くんが悲痛な顔をして私を見た。
彼はみじんも私なんか好きじゃなかった。手も繋ごうとしなかった。キスもしなかった。
でもそれは、お互いに大人になるまで待つものだと思ってた。お願いをするのはいつも私から。だけど、聞いてくれるから、それが愛情なんだと信じてた。
だけど、違った。ただ、都合の良い婚約者役が欲しかっただけ。
「婚約破棄するつもりがないのなら、芙蓉会から本当の婚約者を選べばいいでしょう? 選べないのは破棄する可能性があるからだわ」
「そうじゃない」
「だって他に私なんかへ、そんなことを頼む理由がないわ」
氷川くんは、息を飲んで押し黙る。
「おばあ様のことは……心を痛めています。でも、氷川くんの彼女のふりはできません」
私は防音室のドアを乱暴に閉めて、音楽室から走り出した。胸の中が黒いグチャグチャで押しつぶされそうだ。ボールペンで塗りつぶしたようなグルグルの線が、お腹の中からあふれ出たがって蠢いて喉をつく。
嗚咽になりそうで、唇を噛んだ。
好きだったんだ。信じてたんだ。その気持ちは本当だったのに。
芸術棟のドアを開ければ、そこには綱が待っていた。綱の真っ黒な瞳を見て、涙腺が緩む。
「つなぁ……!」
思わず抱きついて泣き出した。
いくらなんでも、あんまりだ。勝手に信じた私が悪いの?
なんてこっぴどい失恋だろう。前世の失恋を、もう一度するなんて思いもしなかった。初めから嘘だったのだ。私の信じていたあの関係は、全てまやかしで幻想で、私がデブでなくてもブスでなくても、きっと婚約は破棄されていた。
「姫奈、どうしたんですか? 何かされたのなら」
「……ちがう」
「でも泣いて」
「違うから」
氷川くんがしたことは、きっとトップに立つ人間なら当たり前のことなのだろう。客観的な損得と利害。前世の私のように、踏みにじられていると気が付かなければ良かっただけだ。
「自分が情けないのよ」
何も気が付かなくて、私の実力だと思いあがっていた。利用されているだけだったのに、勘違いで傲慢になった。
私の唯一の自信は木っ端みじんに砕かれて、今は何もない。
私には何もないのだ。何の魅力も力もない。氷川くんが私を選んだのは、私が魅力のある人間だからじゃなくて、いつ捨ててもいい人間だったから。
何の価値もない人間だったから。
「私なんか、なにも無いんだわ」
「姫奈」
ギュッと綱が私を抱きしめた。
「でも、だったらどうしたらいいの?」
本当のお姫様だったら愛された?
そんなの生まれで決まってしまう。
頭が良かったら? 性格が良かったら? 気配りができていたら? そんなふりだったら、前世でもしていた。
ふりじゃダメ。張りぼてじゃダメなのだ。でもどうしたらそうなれるというの?
性格が良くなりたい、そう願いながらも、あんな悪態を氷川くんに平気でぶつけてしまうのだ。
どうしょうもない。私は張りぼてで空っぽだ。だから誰にも愛されない。
「大丈夫。姫奈は姫奈でいい」
綱が私の髪を撫でる。まるで子供をあやすみたいだ。
「なにも無いわ、何も持ってないわ。何もできないのよ」
「今、できなくてもいいんです。できないことは私と一緒にやりましょう? できるまで何度でも付き合います」
髪を梳く指が温かくて、だんだんと気持ちが落ち着いてくる。ホッとする。
「綱と一緒に?」
「そう、姫奈には私がいます。今までだってずっとそうだった」
きっぱりと言い切る綱がおかしかった。
「そうね」
涙がひいたところで顔を上げた。綱の胸をそっと押して離れる。
「ああ、唇を噛んで。いけませんね」
綱は私の顎を引き上げると、自分の内ポケットからリップクリームを出して私の唇に塗ってくれた。私はされるがままに瞼を閉じる。
メントールの香りがツンと鼻に刺さった。
「過保護」
ブスッとして答えれば、綱が笑った。
「ええ、それでこそ姫奈です」
帰りの車の中で、綱に先ほどのことを説明した。
「氷川財閥関連の仕事が多いから、気安く頼まれたのかと思うけれど、恋人のふりだなんてなかなか残酷な嘘よね。捨てられるの前提なんて御免だわ」
「……」
綱は大仰に眉をしかめて、嫌そうな顔をする。その顔を見てハッとした。冷静に考えるとやらかしてしまったのかもしれない。
「……もしかして、私、断れる立場じゃなかったんじゃないかしら?」
今更になって気が付く。
「芙蓉学院は氷川財閥だし、そうなれば学院の給食の契約を外されるかもしれない? 百貨店にもレストランを出店させていただいているけれど、大丈夫かしら?」
ヤバいヤバいヤバすぎる。息の根を止められてしまう。
綱は考え込んだ様子で何も答えないからさらに焦る。
「つ、つな?」
「すいません、少し考えていました」
やっぱりか! やっぱりヤバイかも!
前世では、私が婚約者になったのを機に、白山フードサービスは氷川財閥関連企業とのかかわりを増やしていった。最近はお母様も仲良くしているようだし、もしかしたら、同じように氷川財閥の仕事を増やしているかもしれない。
「どうしよう……困ったわ」
「お嬢様の判断は間違っていなかったと思います。自分がふられたからと逆恨みするようならそれまでの男だ。上に立つ器などない」
吐き捨てるように綱が言った。何だか背中の方が重く黒く感じるのは気のせいか?
正直、ちょっと怖い。
「そ、そうだといいけれど。……でも、そうね、あまり一つの会社だけと関係を深めるのは危険よね。自社だけで基盤が作れるようにしておかないと……」
「そのようなことも考えられるんですね」
綱が驚いた顔で私を見た。
「だって、今後私が何かやらかして、氷川財閥から契約解除なんてことになったら立ち行かなくなるわ。後でお父様にこっそり相談しておきましょう」
「そうですね。奥様に今回のお話をするのは少し危険な気もします」
「綱もそう思う? 私もよ。お母様ならこんな話を利用して、無理にでも婚約者に収めようとするんじゃないかと気が気ではないわ」
大きくため息をつく。
それを見て綱は笑った。
「お嬢様はそんなに氷川くんがお嫌いなのですか? 今回の話、玉の輿だと喜ばれるのかと思っていました」
「別に嫌いじゃないけど……。無理だもの」
氷川くんはそう言った。もう無理だと、前世でそう言った。
「無理?」
「ええ、無理。好きとか嫌いじゃなくて、無理なのよ」
「まったく意味が解りません」
「そお?」
綱は不思議そうな顔をする。
「でも、明日謝罪はしておくわ。明日謝れば間に合うわよね? よく考えたら、結構被害妄想が入ってたような気もするし、おばあ様の件は気の毒に思うもの。そうよ、明日シッカリ謝らないとだわ!」
「困ったことがあったら必ず相談してください」
綱が真面目な顔で言う。
「いつだってしてるけど」
「必ずです」
怒ったように重ねて言われてムッとした。
「わかってるわよ」
そう答えてそっぽを向けば、綱は大きくため息をついた。







