59.八坂くんの憂鬱
校舎から芙蓉館へ向かう途中にある芸術棟の陰で、一人ひっそりと身を隠す。
今日は校友会はお休みで、芸術棟には人影がない。芸術棟は、音楽室と美術室だけで作られた独立している棟で、少し不思議な形をしている。玄関だけが少し飛び出して作られていて、凸型なのだ。
芙蓉館に向かう芙蓉会のメンバーが行き過ぎていく。私のお目当てはまだ通り過ぎていない。今日こそ捕まえることができるだろうか。人気者だけあって、なかなか一人にならないのだ。
今までも何度か捕獲しようと思ったが、ことごとく失敗している。今日こそは成功しなくては! 実は八坂くんが一人になれるよう、詩歌ちゃんに足止めを頼んでおいたのだ。
キラキラとした空気を感じてそちらを見れば、ターゲットが歩いてきた。
私はギリギリまで息を詰めて待ち構え、芸術棟を過ぎ去る瞬間に手を引いて、棟の影に連れ込んだ。
「!! ひな」
「し! 静かに!!」
人差し指を唇に当て、黙るように指示を出す。八坂くんは大人しくコクリと頷いた。
玄関の扉を開き、八坂くんを中へ押し入れた。外扉は鍵がかかっておらず、内鍵だけがかかっているので、たまに雨宿りなどにも使われているのだ。
「……久しぶりだね」
八坂くんが小さい声で笑った。本当に久しぶりだ。こんな顔を見るのは久しぶりだ。
学校で見かけることはあっても、その笑顔は営業用でしかなかった。
「なんで学校へ来てないんですか?」
思わず出た言葉はなんだか非難するような声で、自分でもおかしいと思った。
「怒ってるの?」
「怒ってはないですけど……」
問われて困ってしまった。私は怒ってるのだろうか。
困っている。八坂くんが学校に来ないことで罰が当たるのは困る。だけど、心の底では少し思う。本当に来たくないのなら無理強いする方が良くないのかもしれない。
そう思いながらも、自分の都合を優先する自分が嫌だなとも思う。
「……仕事、忙しいだけ?」
私に問いに八坂くんは笑うだけで答えない。
「学校嫌い?」
もう一度問う。もしそうなら、どうしたらいいだろう。無理強いなんてできない。
諦めて私が罰を受ければ済む?
でもそうすると、綱も彰仁も路頭に迷ってしまうかもしれない。
学校に行きたくない気持ちは良くわかる。私だって心当たりがある。
前世の私は、周りの女の子を敵だと決めつけて、マウントを取り、上に立とうとしてばかりいた。
同じように同調する人しか友達と認めずにいた。だからこそ、知らなかった芙蓉のルールを指摘してくれる人もおらず、学校の空気に最後まで馴染めなかった。
マウントをとれども上にたてず、学校でうまくいかなくなって、行くのが嫌になった。休めば休むほど、どんどん居場所がなくなった。そして、行くのが怖くなった。
でも、そんな弱さを見せられる友達なんかいなくて、意地を張って苦しくて、虚勢を張れば張るほど嫌われて、最終的には婚約破棄だ。
思い出して身が竦む。
八坂くんは何も言わない。目をそらして爪先を見ている。こんなのは、らしくなかった。こんな風にさせたいわけじゃない。
居場所がない場所になんて行きたくない、その気持ちは良くわかるのだ。
だから。
「私が来て欲しいって言うのは、我儘、かしら」
思わず呟く。だって、そうだとしたら。
八坂くんは顔を上げて私を見た。何か言おうとして口を開いて、でも止めてしまって息を飲む。
「どうしたの?」
「……姫奈ちゃんはさ、僕に来て欲しいの?」
恐る恐るというように問われる。
「当たり前よ」
なんてったって、神様のバチは怖い。だから来てくれるなら来てくれるに越したことはない。
けれど、それを脇においても来て欲しい。
だって、去年の八坂くんは学校が楽しそうだった。八坂くんとの行事だって、色々あったけど概ね楽しかったと思う。
前世の八坂くんだって、不登校にはなってない。
だとしたら、本来はきっと学校が嫌いじゃないのではないだろうか。
そんな人が、学校に行けなくなる理由が私に対する罪悪感なら、本当に申し訳ないとしか思えない。
「僕なんかいない方がいいって思わない?」
「どうして?」
「僕のせいで、目が見えなくなってたかもしれない」
「眼鏡をしていたし、なってないから良いじゃない。気にしないでって言ったわ」
「でも、また」
「稲刈りではなにもなかったわよ?」
「それは僕が居なかったからでしょ?」
「そんなことないわよ。だったら、体育祭に出てみれば良いじゃない」
「嫌がらせされるのは姫奈ちゃんだ」
「そうよ? だから、私が良いって言ってるの。それに、多分八坂くんがいなくても私は嫌われてたと思うわよ? 気にすることないわ」
八坂くんは体の良いトリガーなのだ。八坂くんがいなければ、違う理由で叩かれていたに違いない。
バチの無かった前世でも、同じように「きたりの方」と呼ばれていたのだから。
……自分で思ってちょっと落ち込む。
「そんなことないよ」
八坂くんがフォローしてくれるが、そんなことあるのだ。
「私は『きたりの方』ですからね」
肩をすくめて笑えば、八坂くんは「ばかみたい」とため息をついた。
「……それに、クラスにも迷惑をかけてる」
「誰かに何か言われたの?」
「……」
八坂くんは答えなかったけれど、きっとそれが答えだ。詩歌ちゃんからクラスの混雑ぶりは聞いていた。それを良く思わない子だって中に入るだろう。
だけどそれで八坂くんを恨むのはお門違いだ。場をわきまえないファンの子が悪い。
しかし、それを八坂くんが強く注意することはできないだろう。本来なら事務所がする仕事だ。
いわれのない悪口、気にしなくていいことだ。
「非難の声って大きく聞こえるのよね」
的を外れている言葉でも、心に刺さって傷を作る。その言葉に捕らわれる。
「でも、聞こえてないかもしれないけど、応援する声の方が多いと思うわ。真面目なファンの子はなかなか好きだとは言えないし、言わなくてもわかってると思ってると思うの。だって八坂くんは誰から見たって人気者だから」
八坂くんが顔を上げた。不思議そうに私を見る。
「例えば、一人の無責任な非難の声に応じて、十人のファンの好意を無視したら、十人のファンと八坂くんが不幸になるでしょ? そんなの変じゃない?」
「そう?」
「そうよ。だって、誰かが粒あん嫌いって言ったからって、たい焼き屋さんは粒あんのメニューを無くしたりしないわよ。もともと粒あん好きな人のために、粒あん残すわ。当たり前でしょ?」
八坂くんはそれを聞いて吹き出した。
「なんか、例えが姫奈ちゃんらしいね。僕が粒あんみたい」
「カスタードの方が八坂くんらしかったかしら?」
「姫奈ちゃんには僕がカスタードに見えるの?」
「そうね……そんなに甘くないかもしれないわ」
八坂くんは実のところ、軽いように見えて責任感が強く、情が厚いのだと知ったから。フワフワのカスタードほど甘いだけではないのかもしれない。
「学校、行ってもいいのかな」
「いいに決まってるわ。みんな待ってるもの」
「姫奈ちゃんも?」
「もちろん私も。一緒に体育祭、出ましょう? 私またパン食いに決まったのよ……。今から気が重いわ……女の子でアレするの私だけじゃない?」
「そうだね……ちょっと今から楽しみ」
きっと去年を思い出しているのだろう。面白がってニヤニヤ笑う八坂くんを軽く睨む。こっちは忘れてしまいたい過去だというのに!
ほんと、この人そんなに甘くない。さっきまでの謙虚な様子はどこへいった。
「ああ! 蜂蜜レモンね!」
思いついて口に出す。
八坂くんが目をぱちくりさせた。
「なにが?」
「八坂くんを食べ物にたとえるなら!」
何が嬉しいんだか、八坂くんはニコリと笑った。
先に八坂くんを送り出してから、少し時間をおいて玄関を出る。
「姫奈」
声をかけられて、思わずビックリして飛び上がる。
振り返れば綱で安心した。他の子に見られて変な噂でも立てられたら困ると思ったからだ。
「ど、どうしてこんなところにいるの? 今日は芙蓉会でしょう?」
綱はそれには答えなかった。八坂くんと二人で話をすることについては、綱がいい顔をしなかったのだ。綱からすれば、八坂くんはイジメっ子に見えるようだから、心配してのことだろう。
だから私は無理やり説得し、綱も納得の上で芙蓉会に行っているはずだった。
どれくらい話を聞かれていたのだろうか。
聞かれていても私は一向に構わないが、八坂くんは知られたくなかったかもしれない。
「私、来ないで、って言ったわ」
「何を話していたんです?」
「聞いてないの?」
「聞こえませんでしたよ」
「そう、ならいいわ」
私は小さくため息をついた。
「質問に答えてください。何を話していたんです?」
覗き込んでくる綱の瞳が黒く光る。こういう時の綱は、お父様みたいだ。
「別に大したことじゃないわ。終わったなら帰りましょう?」
私は校舎に向かって歩き出した。
「姫奈!」
綱に手首を捕まれる。
「私には知られたくない事ですか」
非難するような目つきだ。
「違うわ。体育祭に来て欲しいってお願いしただけよ」
「なんで姫奈が」
問われて返事に窮する。まさか、罰が当たるから、なんて言えない。
「……みんな来て欲しいでしょ」
「姫奈も?」
「ええ」
綱の手がハラリと落ちた。
不思議に思って綱の顔を見る。黒い瞳が曇って見えた。







