56.友達になりたい
最近私は虎視眈々と狙っている。
何をか。
桝淑子さんに話しかけるタイミングである。
桝淑子さんは、芙蓉銀行頭取の一人娘で、知的ではあるが、地味で非常に非常に大人しい。
何しろ大人しい桝さんだ。用件がある時ぐらいしか話をするチャンスがない。そしてそのチャンスですら、頷かれてお終いで会話に発展することが難しいのだ。
手ごわい。
紫ちゃんも相当大人しかったけれど、話しかければそれなりに答えてくれた。しかし、桝さんはそうはいかない。
しつこく話しかけ過ぎたのか、最近では私と目が合っただけで、サッと逃げてしまうくらい警戒されている。
まるで野良猫でも手名付けている気分だ。
猫ならチュチュールという手もあるが、相手は人間。しかも、なにが好きかもわからない。校友会は数学部(! そんな部があると初めて知った)の桝淑子さんである。数学部って何してるの? ねぇ、いったい何してるの? 8の曲線がセクシーだなとか、そんな話してるの?? いやしてないだろうとは思うけど。
そんな桝さんを、今日はついに教室の隅にまで追い詰めた。
フルフルと半泣きになって顔をそらす桝さんは、何とも、うん、何とも言えない、なに、ドキドキする。変な扉が開けてしまいそう。
私は絶好のチャンスにほくそ笑む。
今日こそ、今日こそ仲良くなるのだ。覚悟なさってね?
一歩、また一歩と歩みを進めれば、桝さんがヒっと声を上げた。
めったに聞くことのできない声に、思わず舌なめずりをする。ジリジリと距離を詰める。
「止めなさい、姫奈。嫌がっていますよ」
綱の声に振り向いたその瞬間、桝さんは走り去ってしまった。
「もうちょっとだったのに! 綱のせいで今日も逃げられたわ!」
遠のく背中を見送れば、隣で綱が大きくため息をついた。
「もう止めた方がいいですよ」
「だって! だって! 桝さんとお友達になりたいんだもの」
「相手は恐がっています」
「なんで? 私の何が恐いの?」
か弱きお嬢様じゃないか。恐がられるようなことをした覚えはない。
「多分、全部です」
全部……?
「ぜ、全部? どうして」
「まず声が大きい」
「声が大きい」
確かに自覚はある。彰仁と喧嘩ばかりしているから、必然的に声は大きくなってしまう。
「顔が派手」
「顔が派手……」
思わずほっぺを引っ張った。どこがだよ。
「気配も煩い」
「気配が煩い?」
どういう意味だ。
「桝さんに話しかけようとするときに、なぜかニタニタ笑っている」
「ニタニタじゃないもん! ニコニコだもん!」
「挙動不審で恐くて引きます。襲われそうです」
「襲ったりなんか……」
しちゃうかも?
「しそうです」
綱が強めに繰り返した。
「なんでそんなに執着するんですか?」
「執着っていうか……。桝さんは芙蓉銀行の頭取の娘さんでしょ? 今度口座を開設するときにいろいろ教えて欲しいなって思って」
「そうですか。だったら私が話をしておきます」
なぬ?
「え、綱はお話しできるの?」
「できますよ」
「どうやって」
「どうもこうも、普通に」
「どうして?」
「どうしてと言われても」
「綱は良くて私は駄目なんて、おかしいでしょ!?」
「なにもおかしくありません」
綱はツンと答えた。
確かに二人で学級会を運営しているときはスムーズだった。
「芙蓉館で数学を教えてもらったりしてますよ」
「知らなかった……」
「桝さんは数学で学年一位です」
「そっちは知ってたわ」
知らなかったのは、芙蓉館での綱だ。私の知らないところで、女の子と仲良くしてたなんて……。
え、じゃあ、なに、本当に私に問題があるっていうの?
結構ショックである。シュンとして肩を落とす。
「気落ちされないでください。相性というものもありますし、あの、姫奈が悪い子じゃないって、ちゃんと伝えておきますから……」
「……いい子だって伝えて」
「はい?」
「姫奈子さんはいい子ですって伝えて」
「たぶんそう言う図々しいところが駄目なんですよ」
綱は大きくため息を吐き出した。
桝さんとのやり取りは綱に任せることになった。
姫奈のやり方では拗らせる、とは綱の談である。相手が心を開くまで、ゆっくり時間をかけなさいと諭された。
口座開設には保護者の許可がいるようなので、お父様と生駒に事情を話して許可を得る。お父様は私が経済に興味を持ったことに、とても驚いて喜んだ。
そしてここが、我が家の親バカ(バカ親?)たる由縁なのだが、私と綱に帯付きの新券を一本ずつ手渡したのだ。
「お祝いだ」
お父様が言う。
生駒と綱が凍り付く。
「旦那様! これはいけません」
生駒が慌てる。
「お前にやったんじゃない。綱守にやったんだ」
綱も慌てて新券を押しかえす。
「旦那様、これは受け取れません」
「これは私の投資だ。私が綱守と姫奈子に投資する。二人がきちんと経済を理解するために使う金だ」
「旦那様!」
「白山家の仕事につけと言ってるんじゃない。ただ、白山家で育ったのに躾が行き届いてないと思われるのは困るからな」
生駒は大きくため息をついた。お父様は強情だ。いったん出したお金を引っ込めるようなことは決してしない人なのだ。
「綱守、ここはありがたく受け取っておけ。意味を考えて大事に運用するように」
「はい。ありがとうございます」
綱は深々と頭を下げた。
「きっといつかお返しします」
「失うことも勉強だ。増やすことだけを考えるなよ。それはなくしてもいい金だ。子供の金だけでは学べるものも狭い。無くすことで、増やすこと以外の何かを学んで欲しい」
お父様は笑った。
結局そのお金を元手にして資産運用を始めることにした。
まずは印鑑が必要だというので、印鑑を用意する。銀行印と実印の二種類だ。
淡島先輩に、女の子は苗字が変わる可能性があるから、名前で印鑑を作った方がいいと言われたので、そうすることにした。
「綱は苗字で作る?」
「そうしようかと思います」
「でも、綱だって苗字が変わるかもしれないのにね」
「どうしてですか?」
「綱は頭がいいじゃない。顔もいいし、性格も悪くないわ。その上芙蓉会だし。良家のお嬢様の婿養子に、なんてこともありえるんじゃない?」
ウリウリ~、と冷やかすように言ってみる。
「本当にそう思われますか?」
真っ直ぐな目で問いかけられて、驚いた。
「え、ええ。そう思うわ」
「私が芙蓉のご令嬢に相応しい人間になれると思いますか?」
「当然じゃない。何言ってるのよ」
私はちょっとムカムカして答えた。確かに初めは冗談風に茶化していったけれど、綱はどこに出しても恥ずかしくないと思う。綱が芙蓉グループに相応しくなかったら、私なんかカスだカス。
「だったら、私も名前で作ります」
あれ? 綱って婿入りする気があるのだろうか。そうしたら、我が家からは出て行くってことよね? なんかそれって少し寂しい。
でも、そうは言っても私たちはそう長くは一緒にいられないだろう。十年もすればお互い結婚してたりするかもしれない。
急に突きつけられた現実に、お腹の底が冷える気がした。
……あれ、なんかこれって母の気持ち?
「そう。そうしたらいいわよ」
絞り出すように答えて、私たちは印鑑を選んだ。
チュチュールは、大人の事情です。
誤字ではないよ!







