30.バレエをはじめよう
淡島先輩に指摘されて、ちょっとお腹周りが気になりはじめたので、バレエの体験にやって来た。以前通っていた御影先生のスタジオと、同じスタジオの小さい部屋を借りてレッスンをしている教室だ。
御影先生のスタジオはビルの四階にある。一階はダンス関連用品のお店になっていて、二階の路面側はガラス張りのダンス関係のブックカフェ、奥はシャワールームと休憩室になっている。三階はホットヨガのスタジオで、四階は御影先生のバレエスタジオ、五階は社交ダンス、そこから上は小さなスタジオが数個あり、スタジオレンタルもしている。
私が見学に来たバレエ教室は六階の一画を借りているらしい。
先生はフランス人の女性だ。旦那様が日本人だと聞いた。外交官の妻子向けにレッスンを開くという、どちらかというとサロン的な意味合いが強い教室だ。
なので、当然まったりとしている。生徒の数も多くないし、フランス人マダムもいて、フィットネス感覚だ。開始30分は、演目やダンサーについて資料を見ながら、フランス語でバレエに関するおしゃべり。その後一時間は、バレエのレッスンだ。私にはそれくらいのレッスンがちょうどよかった。
フランス語は正直全くわからないけれど、そもそもバレエの言葉はフランス語が多いので馴染みがある。動画や写真、プログラムを見ながらのおしゃべりなので、なんとなーくわかる気分で、とりあえずウィウィ言ってみる。
でも、帰りに簡単なフランス語のテキストを買おうとは思った。
体験を終えて、入会用の資料をもらいシャワーを浴びて出てくると、丁度、レオタード姿にカーディガンの美佐ちゃんとすれ違った。
「美佐ちゃん!」
「姫奈ちゃん!」
思わず、ワーワーと両手を結びあう。
「どうしたの?」
美佐ちゃんが尋ねる。
「今日、上のクラスの体験に来たの。美佐ちゃんは?」
「今は10分休憩よ。この後、御影先生と1時間練習なの」
美佐ちゃんは、御影先生の本格レッスンを受けているのだ。
「た、大変ね」
御影先生は厳しいのだ。
「でも、楽しいわ」
美佐ちゃんはニッコリと笑った。
美佐ちゃんは小さいころからそうだった。踊れることが楽しい、音楽が流れていれば、指先だけでも踊っているそんな子だ。怒られても失敗しても、新しいテクニックを覚えるまでは諦めない、そういう強さがある。
私は怒られると嫌になってしまうし、あからさまに不貞腐れる。不貞腐れればそれをまた注意され、行きたくなくなる。サボってさらに怒られる。
バレエの衣装は可愛いけれど、可愛い衣装を着れる子は限られているし、そのためにはたくさん怒られなきゃならないというのが、もう本当に嫌だった。怒られないで可愛い衣装を着たい、そう思っていた。
スラリとしたプロポーションにくっきりとした目鼻立ちの美佐ちゃんを改めて見て、しみじみとため息をついた。
「私もバレエを再開すれば、美佐ちゃんみたいに綺麗な身体になるかしら?」
美佐ちゃんは、頬を赤らめて手を振る。
「やだ、私なんてまだまだよ。もう少し身長も伸ばさないといけないし……。どうすればいいのか悩んでるところよ」
「そうなの?」
「プロになるなら背が高い方がいいもの」
そう言って美佐ちゃんは自動販売機で、『ノービールミルクル』のボタンを押した。
「前から食べ物に気を使ってたものね」
「うん。太りにくいようにとか、できる範囲でだけど」
「私も考えた方がいいかしら」
「姫奈ちゃんは少しふっくらしていて可愛いわよ」
「……」
もうその甘い言葉には騙されないぞ。っていうか、美佐ちゃん、いまふっくらしていて可愛いって言ったね? 私ふっくらしてるってことだね!?
ジト目で見れば、美佐ちゃんがキョトンとした。このお嬢、自分の失言に気が付いてないな?
「私、太ったかしら?」
意地悪に聞いてみる。
「そんなことないよ、でも、バレエを始めれば元に戻るんじゃないかしら? ここに通うの?」
そんなことないよと言いながら、元に戻る……うん、私確実に太ったね!!
「そのつもりよ」
本気でダイエット始めなくてはヤバい! 食べるためには動く、それしか道は残されていない。
「だったら嬉しい! また会えるわね!」
屈託のない笑顔で微笑まれて、脱力する。
「そうね」
「じゃあまたね!」
美佐ちゃんは『ノービールミルクル』を飲み切って、レッスンに戻っていった。
うんよし。帰りに簡単なフランス語のテキストと、ダイエットの食事本を買って帰ろう。ついでに新しいレオタードとシューズも買おう。お腹周りが気にならない、巻きスカート風のレオタードだ。
そんな決意をして、その日は買い物に走った。
それから私は正式にバレエに通うことになった。御影先生のクラスをやめたことを、お母さまは快く思っていなかった。再開するなら御影先生のクラスでといわれたが、フランス語も習えることと、御影先生の紹介だったことを伝えたら、許可してくれた。
新しいクラスは楽しい。
以前のクラスは、生徒も同じ年くらいの子ばかりで、先生は厳しいし、ライバル心でギスギスしていた。
今のクラスは、趣味のクラスなのでのんびりしているし、色々な人がいて面白い。私が一番年下で、一番年齢が高い人はお母さまくらいの方もいる。一番年が近いのは、大使館職員の娘さんだ。インターナショナルスクールに行っているらしく、自由で快活な人だ。
バレエが上手な方もいれば、フランス語が上手な方もいて刺激になる。
今日は、レッスン前にバターの話で盛り上がった。先日、フランスに帰国したマダムが、バターをお土産に買ってきたのだ。
岩塩の含まれた発酵バターは、それだけでおいしくて、クラッカーにバターをのせてみんなでいただいて盛り上がった。
聞いてみたいことはたくさんあったけれど、フランス語が良くわからないので、ちゃんと勉強しようと心に決めた。
だって、日本でも買えるの? とか、メーカーの名前は? とかききたいじゃーん!!
レッスン終わりに日本語で聞けばいい? ノン! ノン! 買ってきてくれたのは、フランス人マダームなのです。
それに、レッスン中にスマートに聞けるようになれたらかっこいいな、とかね、レッスン中に聞けばみんなで情報共有できるしね、とか、フランス語が上手なマダム達を見ていると思うわけです。
今日もシャワールームで美佐ちゃんに会った。美佐ちゃんは定番のように『ノービールミルクル』を飲んでいる。国際的なバレエダンサーを目指している彼女は、背を伸ばすことに必死なのだ。
まだ、中学一年だというのに、もう自分の将来の夢に向かって頑張っている。
彼女を見て、私の将来の夢って何だろうと思ってしまった。
前世では、氷川くんのお嫁さん、いいや正確に言えば氷川財閥の夫人として社交界のトップに君臨したいと思っていた。大それた夢を描いたものだ。
だけど今、私にはなりたいものがない。
没落しないように頑張って、没落しても生きていけるように、そんなふうに考えている。ポジティブとは言えない。
第一優先事項がそれだから、仕方がないとは思うけれど、没落した場合でもポジティブな夢があればいいのにな、なんて思ったりもする。
美佐ちゃんはどうやって将来の夢を見つけたんだろう。
「美佐ちゃんはいつダンサーになるって決めたの?」
思わず聞いてしまった。
「え、わかんない、だってバレエが一番好きなんだもの」
美佐ちゃんは、はにかむように笑った。
「一番好きかぁ……」
私が一番好きなこと。なんだろう。良くわからない。
「どうしたの?」
「美佐ちゃんは将来の夢に向かってすごいな、って思って。私は全然だし」
「みんな全然じゃない?」
「そうだけど、ちょっとうらやましいの」
そうかしら? 美佐ちゃんは笑った。
「うらやましいと言えば、百合ちゃんにお姉さまができたのよ!」
美佐ちゃんが、うらやましそうに言う。桜庭において『お姉さま』とは、先輩後輩の中での特別な仲良しというところだ。先輩のお姉さまから、可愛らしい後輩に、妹にならないかと打診があり、それを受けて始まる疑似的な姉妹関係だ。
文通をしたり、縦割り班では優先的にペアになれたり、校外でも遊んだりという、ちょっと特別なのだ。
「ええ? あの憧れだったお姉さま?」
百合ちゃんは初等部の頃から、有名なお姉さまのおとり巻きだったのだ。
「そうそう!」
「よかったわね」
思いが報われたらしい。
「そういうのもちょっとした夢でしょう? でも、なんだか寂しいのよ。百合ちゃん、お姉さまのお話ばかりするんだもの。芙蓉にはそういうのないの?」
「芙蓉にはないわね。でも、王子様のおとり巻きはいるわよ? ファンクラブみたいなの」
「そっか、男子がいるんですものね。晏司くんも芙蓉でしょ?」
「ええ」
「カッコイイ?」
「カッコイイデスヨ」
思わず片言になる。カッコいいけど、厄介。
「モテるんでしょうね」
「すっごくモテます」
「姫奈ちゃんは? モテる?」
美佐ちゃんに問われたので、無言でジト目で返す。
美佐ちゃんはあいまいに笑った。
「あ、もう休憩終わりだわ」
白々しくそう言って、美佐ちゃんはレッスンに戻っていった。
ふんだ。まだ中一だもん! そのうち、そのうち……いいんだよ、モテなくてもいい! 好きな人と幸せになれればそれでいい!
幸せに……なれるかなぁ? なりたいな。
なれる自信は今はまだない。







