266.あらたまの春
ほとんどが内部進学する芙蓉学院では、三学期は自由登校である。週一度の登校日以外は出席が自由だ。しかし、登校してくる生徒の割合は多い。最後の高校生活を楽しむため、卒業旅行の打ち合わせだとか、プロムの打ち合わせだとか、やることは色々あるのだ。
逆に、外部受験をする人たちのほうが欠席率は高い。塾へ行ってラストスパートをかけているのだ。
綱と私は推薦保留中である。芙蓉学院では国公立大学への進学を目指す場合に限り、推薦保留が認められている。
綱の第一希望はアメリカの難関校で、その他に国立難関校も受験する。すべて世界の大学ランキングで芙蓉学院大学部より上位の大学だ。綱の場合は、塾と学院の意向でもある。要するに「わが校から難関校合格者を出しましたよ」という実績を作らせるためで、受験にかかる費用は塾持ちなのだそうだ。
アメリカの第一希望の大学にも申し込みは終わったらしい。書類審査に合格すれば、あとは国内で面接なのだそうだ。そういった詳しい話も私だけにしてくれるようになった。喧嘩をしてやっと本当の彼女になれた気がする。
今年のお正月は初詣にはいけなかった。受験前だというのもあって、私も綱も自粛ムードなのだ。ここへきてインフルエンザなどもらってきては元も子もない。
しかし、友達と初詣に行ってきた彰仁が私たちにお守りをプレゼントしてくれた。おそろいの学業成就のお守りだ。これなら堂々と通学カバンにもつけられる。彰仁ったら気が利くのだ。
そして今日は共通テスト二日目である。
お弁当は二日連続お父様の手作りで、昨日はカツ丼、今日は煮カツ丼だった。綱は大満足だろうが、乙女のお弁当がカツ丼とは色気がない。でもそこが不器用なお父様らしくて笑ってしまう。受験について何も言わないから関心がないと思っていたのだが、どうやら応援していてくれるらしい。仕事が忙しい中で、朝からカツを揚げてくれるのは愛情でしかないと思う。
無事に日程を終え、綱と試験会場内のスタンド式カフェで待ち合わせる。綱のほうが受験科目が多くて試験が終わるのが遅いのだ。カフェの中には同じような人たちが、次の試験に向けて勉強しながら待っている。
しばらくして、綱がやってきた。試験会場で合流したのか、知り合いらしい男の子たちと一緒にカフェにやってきた。
私の知り合いには会わなかった。芙蓉学院で外部受験をする人は少数だし、私は幼稚園から私立で地元に知り合いがいないのだ。いろいろなところに知り合いがいる綱をちょっとうらやましく思う。
私を見つけて、軽く手をあげる綱。満面の笑みは手ごたえがあったからなのだろうか。ちょっとまぶしすぎる。私も小さく手を振り返す。
綱たちはおしゃべりしながら、入り口で注文し飲み物を受け取っている。一緒にいた男の子が綱に何か耳打ち、綱がそれに答える。すると、笑って綱を軽くはたいた。
あ、ちょっと嫉妬しちゃう。
綱は笑ってそれに答えてから、小走りでやってきた。
「お待たせしました」
「ううん。さっきのはお友達?」
「ええ。小学校の知り合いです」
「何、話してたの?」
聞けば、綱は一瞬口をつぐんで、ボソッと答える。
「彼女か?って聞かれました」
ドキン、胸が跳ねる。
それで、綱はなんて答えたのだろう。
内緒だから否定したのだと思うから私からは聞けない。わかっていても言葉にされると傷ついてしまうから。
そ知らぬふりして、カップのスプーンを回す。あ、中身は空だった。
「……ふー……ん……」
「いずれちゃんと告白するから黙ってろって答えました」
綱のきっぱりした言葉に息をのむ。
「今はまだ、秘密ですから」
それだけ言って、カップの蓋に口をつける綱。
すました顔で、うつむいて、目を見せなくて、耳が赤い。
ポーカーフェイスで照れている。
ああ、ほんと、その色づいた耳たぶを食べてしまいたいっ!
「綱、かわいいわね」
思わず言えば、うつむいたままの不満声。
「何言ってるんですか」
そんなの全然怖くない。
「かわいいのは、あなたでしょ」
蓋に口をつけたままボソリと放たれた言葉は強烈で、私は見事に撃沈した。
「っ! っ! っ! 綱はっ! ずるいわ!」
かわいいだなんて、かわいいだなんて、かわいいだなんて!! だって、綱が私をかわいいって!!
うれしくて、でも、はずかしくて、口はニマニマしてしまうし、頬は緩んでしまうけど、反撃されたことが悔しくて、目だけでキッと綱を睨み上げる。
綱は余裕の笑顔で笑っている。
もうそれだけで、反撃できない。だって、綱ったらかっこいい。
「さあ片付けて校内を見学していきましょう」
そう言って、綱は私のトレーを片手でひょいと持ち上げた。
「そうね」
私たちの志望校ではない会場。見学する理由はないけれど、綱の意図はわかってる。私も同じ気持ちだから。
もう少し二人でいたい。二人だけで歩きたいから。
綱の左手にはホットコーヒーのカップ。右手は空いているけれど、手をつないでもいいのかな?
そそくさと先を行く綱を追いかける。もっとゆっくり歩いてほしい。
人影がまばらになった校舎の陰で、フと綱が立ち止まる。
無言で右手を差し出して、視線をそらしてはにかんだ。
私はあわててその手を取る。
中指にペンダコがある、大きな手。絶対たくさん勉強した手。だって、前世では主席ではなかった。きっと、きっと、すごく努力をしてきた手。
夢を叶えるために、遠くへ行ってしまうのはとても寂しいけれど。今だってできればそばにいてほしい、そう思ってしまうけど。この手に触れればわかるのだ。綱が夢を掴むためにどれだけ頑張ってきたか。だから、やっぱり応援したい。
スルリとペンダコをなでる。
「綱の、ペンダコ好きよ」
いえば、驚いた風に綱が私を見る。
そして、つながれた手をそのままダッフルコートのポケットに入れてしまう。
「私も姫奈の手、好きです」
「そう? 女の子らしくないじゃない?」
「ちっちゃいのに頑張ってる手じゃないですか」
その一言に胸の奥の空気が熱くなって膨張する。小さな胸を押し上げて、息が苦しい。
綱がわかってくれていた。いっぱい間違って、失敗もたくさんしたけれど、そんな私を好きだと言ってくれる。
喜び以上の感情がせりあがって、ため息になる。言葉にはならなくて、ただポケットの中の綱の手をギュッと握った。
綱もそれ以上何も言わずに、二人で黙って校内を歩く。葉を落とした街路樹がレースのような影を落とす。木枯らしが巻き上げる落ち葉がカラカラと軽快に転がりながら横断していった。冬の景色なのに、なぜか明るい。
ポケットの中がドンドン熱くなっていく。重なり合った掌が汗ばんで、それがすごく恥ずかしくて、思わず手を抜こうとする。その手を綱がギュッと掴む。
「あ、な、なんか、汗! 汗かいてて、き、汚いし……」
言って、中三のプラネタリウムを思い出す。
「私の汗です、ごめんなさい」
シレっと綱がそう答え、つないだ手はそのままだ。
恥ずかしくて、うれしくて、ポケットの中が沸騰して、胸の中がグシャグシャでどうしようと思った瞬間、聞きなれた声に呼び止められた。
「お嬢様」
固い声が冬の校舎のコンクリートに跳ね返って反響した。
ポケットの中で、綱の指がこわばった。私の指も同じように固まった。
振り返ればそこには、隣の人と同じ目が怒りに燃えてやってくる。
「い、こ、ま」
生駒は黙って私たちの手をポケットから引き出した。瞬間、綱の手が私を離す。手放してしまう。
生駒はポケットからハンカチを取り出すと、私の手を丁寧に拭った。
「申し訳ございません。お嬢様」
生駒が頭を下げる。
「なんで」
なんで、生駒が謝るの? なんで生駒がここにいるの? なんで。
「恥ずかしいとは思わないのか、綱守」
ピシャリ、わが子にそう放ち、私と綱を引き離す。
「今日はお疲れかと思ってお迎えに上がりましたが、なかなか校門まで来られないので探しましたよ。さあ、車に参りましょう」
私だけを見て、私だけを誘導する生駒。綱を存在しないみたいに扱うから悲しい。
「綱は?」
「綱守は自分で帰れます」
「私だって」
「お嬢様はいけません」
「どうして」
「お嬢様だからです」
「違うわ!」
「違いません。あなたは白山家の大切な、大切なご令嬢です」
生駒が強めに私の背を押した。言い争いが目立ったのだろう。注目を浴びている。これ以上、ここで言い争うことはできない。
綱を見れば、綱は申し訳なさそうに頭を下げた。
私は生駒に連れられて、黒塗りの外車の後部座席に押し込まれる。生駒はハンドルを握りしめ、車のアクセルを緩やかに踏んだ。
「ねぇ、生駒! 綱は大切な時なのよ! 変なことしないでちょうだい」
「ええ、お嬢様も大事な時です。集中できるようにしなければいけませんね」
「生駒! 落ち着いてちょうだい? 綱を一番に考えて?」
「私は落ち着いておりますよ。お嬢様。私が一番に考えるべきは、白山家のことです」
生駒の横顔が凍っている。表情を押し殺して、前だけを見ている。怒っている。そうやって怒りをぶつけずに怒るのが、綱によく似ている。その怒りの矛先は、綱に向かっているのだ。
「生駒、お願いよ。お父様には言わないで。私、生駒のいうことちゃんと聞くから! 綱に迷惑かけたくないの!」
「いいえ、お嬢様。お嬢様が心配することなど何もないのですよ」
「生駒」
「旦那様と奥様には私からきちんと謝罪いたします」
そう言って生駒は唇をかんだ。
「きちんと生駒が責任を取ります」
車の中の空気が凍った。エアコンの音が耳に響く。革張りのシートがうわ滑って胸の内がフラフラとおぼつかない。
「生駒、ねぇ、いこま?」
それ以上生駒は何も答えずに、ただ車を走らせた。







