260.堪忍袋の緒が切れた
そして放課後である。
わかっている。すべて私が悪いから、素直に綱に謝らなきゃいけない。
頭ではわかっているのだが、頭の中がグルグルして、胸の内がムカムカしてホームルームの話さえまともに頭に入ってこない。
チャイムが鳴って、鞄に教科書を詰め込みつつ逡巡する。
綱のクラスに行った方がいいのかな? 待っててもいいのかな?
いつもは綱が迎えに来てくれるのを待っていたのだが、今日もそれでいいのだろうか。
謝るんだから、私が行くべきよね? でも、あんなに冷たい態度を取って今更って思われない? もしかして、もう愛想をつかされていたりして。
自分の行いを思い出す。
お弁当を作らずに、朝からずっと無視をして、お昼ご飯も一緒に食べなかった。
そんなことをして嫌われないなんて虫が良すぎるかもしれない。
今更ながらにゾッとする。
足がすくんで時計を見る。そろそろ綱が来てもいい時間だ。クラスの入り口に目をやれば、そこに綱の気配はない。
漏れ出てしまいそうなため息を歯で噛んで押し殺す。
「姫奈子さん」
氷川くんに声をかけられ顔上げて笑顔を作る。
「今日、一緒に帰ろう」
「えっと、綱と一緒で良ければ」
「生駒とケンカしていると聞いた。それでも一緒に帰るのか?」
スパっと氷川くんが言って、グサッと傷つく。
迎えに来るはずと思いつつ、即答できずに俯けば入り口から声がした。
「別にケンカなんかしてないです」
綱の声だ。
「姫奈の機嫌が悪いだけです。今の姫奈は私以外には面倒をみきれないと思いますよ」
綱がシレっとそう答え、私はカチンとくる。
確かにそうかもしれないけれど言い方ってあるでしょう!?
私は雑に鞄をひっつかみ、二人を見てパフォーミングパートナー仕込みの笑顔で微笑む。
「生駒くんがおっしゃる通り私、今日少し気分がすぐれないの。ご迷惑をおかけするのは本意ではありませんので、独りで反省したいと思いますわ。では皆さんごきげんよう!」
氷川くんがあっけにとられ、綱は氷川くんを見た。完全に二人はとばっちりだ。
自分自身でもやってしまったと思ったけれど、もう後にはひけない。
スカートを翻しツカツカと音を立てて教室を後にする。
いつもだったら、前世だったら追いかけてきたはずの綱が追いかけてくる気配がない。
こんなことをしておいて、まだ綱が自分を追うと思い込んでいた傲慢さを恨むような気持ちになる。
わかってる。自分が悪い。綱は全然悪くない。わかってる。わかってるけど。でも、でも。
綱なんだから! わかってくれたっていいじゃない!!
綱や氷川くんと同じ電車には乗りたくない。
どこかで時間潰しをしよう。芙蓉館は気分じゃないし、天文部も違う。今、他の人に会ったら氷川くんにしたように不用意に失礼なことをしてしまいそうだ。
私は屋上を目指して階段を上った。
少し頭を冷やした方がいいのだ。
どうして私はこうなんだろう。前世でいっぱい失敗して、反省だってしたはずだった。それなのに、またやってしまう。頭ではわかっているのに、身体が感情に引きずられる。
綱、一人で帰ったかな? 氷川くんと一緒かな? それとも他の子と?
考えて鼻の奥が痛くなる。唇をかみしめる。
本当は一緒に帰りたかった。ごめんね、ってそう言って、仲直りして。塾へ行くときにはこっそり手を繋いで……でも、それももう無理だ。自分自身で謝るチャンスを壊してしまった。いくらなんでも綱だって呆れている。『面倒をみきれない』それが綱の本音だ。
とぼとぼと薄暗い階段を上がっていく。
すると程なくして、駆けあがってくる足音が聞こえた。
怪訝に思って振り返れば、折り返した階段下に綱らしき黒い髪が見えて胸が跳ねる。
探してきてくれた。でもきっと怒ってる。うれしくて、でも怖い。
逃げ出すように階段を上る。
今はまだ冷静に綱と話なんかできない。絶対絶対、綱に変なことを言ってしまう。
屋上の扉を開き逃げ込もうとした瞬間、その扉を綱が押さえた。
慌ててドアノブを引っ張るが、綱はドアの間に足を差し込みこじ開けて、わけなく屋上に入ってしまう。
逃げようとする私を右手でとらえて、自然に閉じたドアの前に無造作に鞄を落とした。
そのまま私を壁際に押し込んで、綱の両手は私の顔の横にある。
綱の黒い瞳が凶暴に光っている。
怒られる。怒られるようなことをした。
目の奥が熱くなる。絶対に泣きたくない。泣いたりはしない。泣いたら綱が怒れなくなる。泣いて許されるようなのは嫌だ。
慌ててカバンを抱きしめた。
「いったいどういうつもりなんですか? 氷川くんの気を引いて、本当は彼と一緒に帰りたかったんでしょう。冷静になって、何も持たない私よりやっぱり彼の方がいい、そう気が付いてしまったんだ!」
怒りを隠そうともしない声。こんなことは初めてだ。呆れたり、バカにしたり、注意したりはされたけど、こんなふうに怒りをぶつけられたことはなかった。
「ちが……」
氷川くんの気を引いたつもりもないし、一緒に帰るつもりもなかった。
「言ってくれれば私だってわかります。ちゃんと身を引く覚悟がある」
「嫌よ! 違うわ!!」
綱はそう。簡単に私を諦めてしまえるのだ。
「だったら、私をわざと怒らせてあなたは何がしたいんです」
「……だって、それは……」
「あなたにとって私はいったい何なんですか」
たったその一言が、おなかの怒りに着火する。はらわたが煮えくりかえる。
「……私こそ、いったい綱の何なのよ」
低い声が喉の奥で鳴る。
黙っていたのは綱の方だ。彼女だったら、特別だったら、二人にとって大事なことを黙っているわけがない。
バッと顔をあげる。
「綱、留学するの」
声が微妙に歪んだ。質問のつもりだったのに、声色は質問にならずに断定になった。
綱が驚いて息を飲む。
もうそれでわかってしまった。
綱は留学するのだ。
そしてそれをわざと私に隠していた。
桝さんの時みたいに、ワザと私に隠し事をした。
「するのね。お父様は知っているの? 生駒は? 彰仁は?」
矢継ぎ早に問い質す。
私だけに秘密にしてたの?
「父には話しました。白山家の方々には合格してからご報告をと思っています」
グッと言葉に詰まる。確かに私たちは家族ではない。決まった進路ならともかくも、希望進路を明らかにしておく理由などどこにもないのだ。
でも、私は相談した。みんな、綱に教えてた! そんな私も『白山家の方々』と一緒にしてしまうの? まだ私はお嬢様で彼女じゃないの?
「なんで!? どうして? 綱なら都内のどこの大学だって行けるでしょう? どうしてわざわざ留学なんてするの?」
同じ大学に行きたいと思っていた。綱も同じだと思っていた。私さえ芙蓉学院大学に進学できれば、一緒に行けるのだと思っていた。もし違う大学を選んでも都内の大学へ通うと思い込んでいたのだ。
だって、京都にはいかないと言ったから。
あわよくば大学進学を理由に一人暮らしをして、たまにその部屋に綱を呼んで生駒の家にいた時みたいに、二人で炬燵に入ってダラダラテレビを見たり、そんな風に出来たらな、なんて夢見ていた。
でもそんなふうに思っていたのは私だけだったのだ。
まさか海外に留学するなんて。
「どうして私に秘密にするの? また……」
嗚咽が喉をせり上がる。
泣きたくなんかない。
絶対に泣かない。奥歯をギュッと噛みしめる。
「桝さんの時みたいに……独りでどこかに行こうとするの?」
怖いのだ。不安なのだ。綱は黙ってどこかに行ってしまう。平気でそういうことができる子だ。
私には綱が必要でも、綱に私は必要ない。
綱はハッと息を飲んだ。
「秘密にするつもりではなかったんです。ただ、旦那様に話せば色々な配慮をしてくださるでしょう。そういう方ですから。だから、父と結果がでるまでは黙っていようと決めたのです」
「そんな」
「たくさんたくさん、返しきれないものを旦那様から頂いています。これ以上は申し訳が立たないのです」
綱の言い分はわかる。きっと、お父さまもお母さまも喜んで、全力でバックアップするだろう。それが生駒と綱には荷が重い、そういうことだったのだ。
「それに、自分の夢は自分で叶えたいから」
きっぱりとした声だった。
「綱の夢は、ここでは叶わないの?」
綱はなんの迷いもなく静かに頷いた。
私と夢と、どっちを取るの。
馬鹿な言葉を口に出しかかって唇を噛む。本当は聞いてしまいたい。
前世の私なら何も考えずにそう聞けた。でも今はわかってる。綱は私の人形じゃない。彼には彼の未来がある。
それに綱を見ればわかる。綱は、私ではなく夢を選んだ。聞いたら自分が傷つくだけだ。
― もう少し迷ってくれるかと思ったんですけど ―
修吾くんの言葉が脳裏をよぎる。
ああ、諦めるしかなかったんだ。今になって彼の気持ちを思う。
寂しいけれど、悔しいけれど、綱を止めることは私にできない。
綱の足手まといになってはいけない。
だったら、私ができることは一つだ。







