254.胸の内
綱は選挙の打ち合わせで芙蓉会に呼び出されている。会長、副会長、会計の三役は何かと仕事が多いのだ。
私は天文部の教室で綱の用事が終わるのを待っていた。今日は天文部の活動がないため借りたのだ。
何もしないで待っていると八坂くんが一緒に帰ろうと煩いから、私は先生の手伝いを理由に残っている。
クラスも違って、特に三年生になった今年は仕事も多く、勉強に忙しい綱とはなかなか時間が取れない。
人気者の綱はお昼休みだって声がかかることが多く、ゆっくりはできないのだ。せっかく二人でお弁当を食べていても、下級生からの相談事が入ったりしてしまう。
唯一、綱を独り占めできるのは帰りの電車の中だけだ。朝は途中まで彰仁が一緒だし、家に帰れば基本彰仁が煩い。
私にとっては大切な時間だから、何が何でも一緒に帰りたい。
綱には迷惑かもしれない。でも、最近は先に帰れと言わないし、ちょっと、ちょっとだけだけど、もしかしたら、綱も一緒に帰りたいんじゃないかなって。だって、なんだか、気のせいかもしれないけど、優しい目で見たり、するし。勘違いだと思うけど、勘違いじゃなかったら、なんて。
乙女心はせめぎ合うのだ。
書類をホチキスで止め、最後の一枚になったところで作業をやめる。
綱が帰ってきたところで「ちょうど今終わったの」というためだ。
小春日和の麗らかな日差しが気持ちいい。教室のカーテンが風と戯れている。金木犀の残り香りが教室まで漂ってきて、秋も終わりだと感じる。
もう11月に入った。
私は一つあくびをする。
運動部の掛け声。芸術棟からは吹奏楽。廊下を歩く足音と女の子の笑い声。学校ならではの雑音が心地よく、うとうとと眠りを誘う。
綱が来るまで少しだけ眠ってしまおう。そう思った私は、机に突っ伏し眠ってしまった。
パチン、ホチキスを止める音が遠くに聞こえる。徐々に学院内の音が戻ってくる。
誰か来ていたんだ、起きなくちゃ、そう思っても夢うつつだ。
トントントン、書類をそろえる音がする。ため息の気配から綱かなと思う。
「また仕事を引き受けて。白山茶房に塾に芙蓉会。それだけでも大変なのに、あなたは人が良すぎるんですよ」
ぼやく声。やっぱり綱だ。起きなくちゃ。だけど、瞼が重くて身体も重い。
「こんなに汚れて。眠いなら先に帰ったっていいんですよ」
メモを書いていて汚れてしまった小指の横を綱の指がなぞる。
「……約束なんてしてないんだから」
ギリギリ聞き取れるだけの声。
やっぱり迷惑だったかな。でもね、断らないから甘えちゃうの。やっぱりずるいわよね。
手はあんまり見ないでほしい。爪だって短いし、荒れてしまっているから。他の女の子のように、ネイルしたりしてないの。だって、ご飯を作るから。
「一生懸命な可愛い手」
綱が指をツンと突く。
夢かしら、夢ならもう少し夢の中にいたい。
「こんなに触れても目が覚めないなんて悪戯されても知らないですよ」
指を絡めて、ため息交じりに小さく笑う。呆れているのが気配だけでもわかる。
ごめんなさい。もう少しだけ。瞼が重いのよ。だから、意地悪しないで。
「姫奈、本当に目が覚めないの?」
綱が小さく問う。
「…………すき……です」
ああなんて都合のいい夢。
ごめんね綱、夢でこんなこと言わせて。
静かな教室。押し黙った綱。合唱部の歌声。スタートを告げるホイッスル。楓の葉がザワザワと秋の風を送ってくる。
「なんて、言えるわけないですけど」
ポロリと綱の言葉。ストンとふに落ちる。
真空になったみたいにすべての音が消える。心臓が止まる。息が止まる。突然、すべてがクリアになる。
覚醒する。夢じゃない。
バッと顔を上げれば綱が驚いたような顔をした。
繋いだ手を放そうとする綱の右手を押さえ込む。
バサバサと書類が落ちる。音が戻る。
「書類が落ちました。拾わないと」
何事もなかったように綱がそう言って、もう一度手を放そうとする。私はギュッと力を籠める。
「好きっていったの?」
「言っていません」
「絶対言ったわ!」
「夢ではないですか」
俯いて目を隠す。わかるのだ。これ以上踏み込むなと、顔を見せずに拒絶されている。
でも、でも、今しか! 気持ちを確かめるには今しかない。
「夢なんかじゃない! 綱が今!」
そう言った唇を、綱が捕らえられていない左手で押さえた。
「止めてください。お嬢様」
とどめのようにお嬢様と呼び楔を打つ。
私がフルと頭を振れば、悲しそうな目で私を見た。
私は負けじと見つめ返す。綱の気持ちが聞ける最初で最後のチャンスかもしれないのだ。
綱は長いため息をついて、私から目を逸らした。目を伏せ、独り言のように呟く。
「お嬢様は将来、一廉の人物と縁付かれる。私のような普通の人間ではなく、日本のトップに立つような方と幸せにならなくてはいけません。旦那様も奥様もそれをお望みでしょう。若気の至りと許されるはずもありません」
そこで綱は言葉を切った。
生駒の言葉の焼き直しを綱が言う。わざと「お嬢様」と呼び、あるべきお嬢様の姿を諭す。綱と私はそんなんじゃない、そう思うのに綱は正しくあろうとする。
綱はいつだって正しい。でも、だけど。
綱は唇を噛み顔をあげた。
潤む瞳を見て思う。上質な黒いお椀に張られた水が縁から零れ落ちそうだ。
だったら、どうしてそんな顔をするの?
その顔を私がさせたの?
「……だから、これ以上は……」
絞り出すように吐き出して、もう一度唇を噛む人。
その仕草で、私の胸に広がる光。
好きだと言いたくても、私の未来を考えて口に出せないのだったら。違うかもしれない。でも、だけど。
机の中に隠している綱の片割れのお守りがよぎる。
― 姫奈の願いが叶うなら、私はそれでいいですよ ―
だったら。
私の唇を押さえる綱の左手を剥がす。
「なら、なら、……なら!」
「お嬢様、やめてください!」
綱の言葉にカチンとする。
ここは学校。私はお嬢様なんかじゃない。
もういい! ムカつく! 何も知らない! 勘違いでいい!!
綱の手を乱暴に手放した。
「綱が言えないなら私が言うわ。聞きたくないなら耳を塞げばいいじゃない! 夢でいいわ! 夢でいいのよ!」
机の上に立膝をして、綱の両耳を両手で押さえる。
だって、ずっと伝えたかった。少しでも、ちょっとでも、一ミリだっていいから、綱が好きだと言ってくれたなら、何を捨てても伝えたいと、ずっと、ずっとそう思っていた。
もちろん自分のエゴだ。
でも、今を逃したらきっとずっと言えないから。伝えられるだけでいい。
「嫌ならもう二度と言わない。聞こえなかったことにして。だから、お願い、一度だけ言わせて。そうしたら忘れるわ。無かったことにするから、お願い」
綱の顔が悲痛に歪む。
綱にとってそれが迷惑でも、聞きたくなくても。
胸の中で暴れる思いをもう閉じ込めておけないのだ。
「私は……、私は綱が好きよ」
綱があっけにとられた顔で私を見る。瞳が水ようかんのように脆く潤んで、滲みだしてくる透明な輝き。
「あなたの、……その気持ちは『信頼』というんです」
そう絞り出すように言いながら綱の瞳は、砂糖の結晶が張ったように曇っていく。柔らかな羊羹が硬く衣をまとうみたいに。
「ええそうよ。誰よりも信じてる」
「私のとは違います」
綱が自嘲する。
「なにが違うの」
「……私の思いはあなたの信頼を裏切ります」
「どうして」
「私はあなたに触れたい。こんな風に」
綱の耳を押さえている手に綱の手が重なった。
スリと頬を手のひらに摺り寄せて、唇はギリギリ触れない。そして窺うように私を見る。
奈落のような黒い瞳に、反転して映る私が吸いこまれて落ちていく。
言葉を失う私を見て、私を窘める生駒のように隙の無い整った顔で綱は酷く美しく笑った。そうして、私の手を耳から優しく剥がす。
「お嬢様。触れてはいけない男に、好きだと言ってはなりません。もう子供ではないのですから」
必要以上に丁寧な言葉でピシャリと突き放す。
でも。
「いいの。私、いいって言ったわ。綱ならいいって前にも言った!」
私の声に綱が泣きそうな顔をする。
「すきなの。綱」
綱がゆがんだ顔で私を見る。唇の端が上がるのをこらえようと唇を噛む。目の下が桃のように色付いて滲む。こんなに乱れた顔を見たことはない。
「名前を呼んで、触れてちょうだい。お嬢様だなんて呼ばないで」
伸ばされた腕。重なり合った胸。グッと胸に抱きしめられる。
首筋に綱が顔を埋めて。
「姫奈……好きになって、ごめんなさい」
小さく呟く。私は綱の頭を撫でる。
「姫奈は私が好きになったらいけない人だ。姫奈も私なんか見なければ、もっと幸せになれます。氷川くんや八坂くんなら、どんな高価なジュエリーだって買ってくれるでしょう。でも、私はまだ無理です」
綱が落ち込んだ声で言う。
修学旅行で見た、ジュエリーショップの窓越しで呆ける綱を思い出した。
確かにあそこは綱の手に届く店ではない。
「バカにしないで、欲しいものなら自分で買うわ」
私は笑う。
綱が顔をあげた。
「旦那様も奥様も、父にも許されるはずはないんです。姫奈を幸せにしたいなら口にしてはいけないとわかっている。それなのに、ごめんなさい。姫奈をあきらめきれないんです」
せつなく眉を寄せて、泣くのをこらえているようだ。
許してと呟いて、殊勝なふりして俯く男の子。
だけど、私は知っているのだ。この子を小さなころから知っている。
「綱のうそつき」
綱の言葉に小さく笑えば、綱は不思議そうに私を見た。
私はそれに驚く。
もしかして。
「え? それ、無自覚だったの? 綱って、『ごめんなさい』って言うとき、本当は悪いなんて思ってないくせに」
指摘すれば、綱は気が付いていなかったのか、呆気にとられた顔をした。
「そんなことは……。本当ですか?」
「本当よ。やだ、わざとかと思ってた」
「でも、今のは心から申し訳ないと」
「なんでよ? 諦めないで欲しいわ」
ブスッと唇を尖らせれば、綱は照れたように笑った。
そして、急に姿勢をただし、息を吸う。
「私は姫奈が好きです」
真面目な目で真っ直ぐに私を見る。
「うん」
嬉しくて、ギュッと心臓がつぶれそうだ。
「でも、このことはまだ二人の秘密にしてください」
「どうして」
「父に知られれば、あの家を出ることになる。大事なお嬢様になんてことだと、怒るでしょう」
「だったら、私が家を出るわ。私がお嬢様じゃなきゃいいんでしょ?」
私の答えに綱は苦笑いをした。
「私は姫奈を不幸にしたくないんです」
「頼まれたって不幸になんかならないわよ」
「……旦那様も奥様も、彰仁さまも、姫奈から奪いたくありません。あなたが何かを失うのは私が許しません」
綱がきっぱりと言った。
「だから少し私に時間をください。今の私ではだめだから。姫奈が何も失わずに済むように、守れるようになりたいんです」
綱の目がキラリと決意を帯びて輝いた。
なんて、かっこいいの。
私は見惚れ、コクリと頷いた。







